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アイツと俺の距離感

作者: 砂たこ

 書斎兼仕事部屋で、カタカタとキーボードを叩いていたが、不意に階下――玄関辺りで、ドアが開閉する音がした。古い家だから、色んな音がよく響く。


 デスクトップの右下の表示に目を向けると、3時を少し回った辺り。

 連休初日の午後。何も予定のない俺は、ゆっくり朝寝坊して、遅い昼食をとった後、休み明けに使う資料をまとめていた。


 丁度いいタイミングだ。一休みするか。保存して、作業をシャットダウンする。


「おーい、居ないのか?」


 階段を下りながらリビングに入る。居ないであろう前提で訊くには、間抜けな問いだ。


『遠くへ行きます。探さないでください』


 何だよ、これ。

 ダイニングテーブルの上の白い便箋の文字に、俺は溜め息を吐いた。


「おーい、アリス?」


 リビングからドアを開けて、再び廊下に呼び掛けるも、返事はない。やっぱり、いないのか。


 当然ながら、スマホに着信はない。もちろん、こちらから入れるつもりもないが。


 やれやれ。俺は、キッチンで銅製のポットを火にかける。マグカップを出すと、冷蔵庫からマンデリンブレンドの豆を取り出した。

 殊更急ぐことなく、いつものペースで、ガリガリと音を立ててミルで挽く。豆は粉に形を変えていく。余計なことを考えず、このあと味わう至福の一杯を思って集中する――この時間が好きだ。


 ガリガリ……ゴリゴリ……


 そういえば、この豆を買った喫茶店は、アイツが教えてくれたんだった。


『……あ、いいな、この味』


 金色の蔦模様が、外側にグルリと描かれた、真白のカップ。覗き込むと、淡く湯気立つ濃茶の液体に、天井で回るレトロなシーリングファンの羽が映っている。壁際に置かれたオルガン、天井近くまである大きな本棚、落ち着いた焦げ茶色のテーブルや椅子。飴色のドロップライトに照らされた店内は、カフェと呼ぶより喫茶店が相応しい。


『でしょ? きっと好みだと思ったの』


 一先早く真犯人が解った助手のような得意顔で、アイツは眼鏡の奥の瞳を細めた。


『うん。しばらく通いたいレベルだ』


 ブラックが苦手なアイツは、満足気にカフェオレを傾けた。

 言葉通り、それからしばらくの間、その喫茶店は俺のデートコースに組み込まれた。

 けれど――それも2年前が最後。彼女と別れてからは、仕事帰りに豆を買いに立ち寄るだけだ。


 ガリガリ……ゴリゴリ……


 十分な量の粉が挽けた。残りの豆を密封して冷蔵庫に戻し、ボウルにマグカップを入れて、お湯で温める。

 ドリッパーにフィルターをセットして、少しお湯を注いで馴染ませる。それから、挽いたばかりの粉を移し、準備完了。

 本格的なサイフォンが欲しいが、多分アイツはいい顔をしない。


『もう、趣味にばっかり一生懸命なんだから』


 一昨日の夜。ダイニングで向き合うアイツは、呆れたように頬杖を付いて、俺を見上げた。


『何だよ』


『そろそろ、お父さん達を安心させたいと思わない?』


 ドキリとした。子ども好きのアイツが、姉夫婦の出産祝いを選ぶ時、必要以上にベビー用品のカタログを取り寄せていたこと――そりゃあ、俺だって気付いていたさ。


 溜め息を吐いて、温めたマグカップを布巾で拭く。フィルターの中の粉に、ゆっくり円を描くようにお湯を注いでいく。

 立ち上る香りに、気を取り直す。ポタポタと抽出(ドリップ)された液体が、ガラスのサーバーポットに溜まっていくのを眺める。ドーム状に膨れ上がった粉の中央に、慎重にお湯を注いでは抽出を待ち、やや凹むと再びお湯を追加する。


 壁の柱時計が、ボーンと1つ柔らかい音を鳴らした。子どもの頃から聞き慣れた、ぼんやりと甘い音色は、デジタルにはない安心感をもたらしてくれる。


 両親が建てたこの家を、俺は大学進学を機に一度離れた。Uターンで地元企業に就職したものの、入れ替わるように両親は、姉夫婦と同居した。築40年超の一戸建ては、あちこち隙間風の入るボロだが、誰にも気兼ねすることなく夜を過ごせることだけは有難い。


『はっきり決められないんだったら、あたし、ここ出て、部屋借りようかな』


 痺れを切らしたように、アイツは髪を掻き上げた。眉間に走る筋が、本気だと告げている。


『待てよ』


『だって――いつまで、この状態を続ける気?』


『俺も、ちゃんと考えるから』


『本当? そう言って、もう2年? 3年? ずっと我慢してきたんだから』


『仕事も忙しかったし……俺にも、色々あったんだよ。お前だって、知ってるだろ』


『そんなの、言い訳!』


 ツンと唇を尖らせて立ち上がると、アイツは2階へと消えてしまった。駆け上がる足音に不満が溢れていた。


 正直――家事を分担している都合上、今アイツに出て行かれると困る。いや、もちろん、いつかは出ていくんだろうが。


 フィルターやドリッパーを片付けて、ダイニングの椅子を引く。サーバーポットからマグカップにコポコポ注ぎ、まずは香りをたっぷり楽しむ。さぁ、至福の時間だ――。


ー*ー*ー*ー


「ただいまー」


 カップに口を近付けた瞬間を狙ったように、玄関でドアがガチャと開く音がした。


「あっ、アリス待って!」


 帰って来た途端、ドタドタ騒がしくなる。リビングのドアノブがゆっくり上下して、ベージュの影が駆けてくる。


「アリス」


 俺の側で激しく尾を振るラブラドールレトリバーからは、冷えた晩秋の気配がした。首輪の隙間に、黄色い枯葉の欠片が見える。つまみ上げると、銀杏だ。


「おい、花音(かのん)! アリスの足、拭いたのか?」


 土足でペタペタ歩かれるのはかなわないので、マグカップを置いて、愛犬を抱え上げる。うわ、重い。


「ごめーん。楓兄(ふうにぃ)、お願い」


「仕様がねぇな」


 まだ玄関の上がり台にいる妹に、チラと非難の眼差しを投げてから、アリスをバスルームに運ぶ。


「お前、落ち葉の中で転がったな?」


 裸足とアンダーウェアになって、クンクン甘えるアリスを温いシャワーで洗う。全く。ダニとか付いたら、どうするんだ。


 ザァッと洗い終わると、水滴を飛ばされる前に、急ぎタオルでガシガシ拭く。もちろん、足の裏の肉球も。サッパリしたアリスは、上機嫌でバスルームを出て行った。


 やれやれ。後片付けはいつも俺だよ。

 濡れた身体を拭いて、服を着直す。シャツのボタンを止めながらリビングに戻ると、花音がアリスに餌を与えていた。


「お前さぁ、くだらない置き手紙なんか書いてないで、ちゃんと準備してから散歩に行けよ」


 手を洗って振り向いた花音は、俺のぼやきなんか意に介さない笑顔を咲かせる。


「ね、テーブル見て。大収穫でしょ! 茶碗蒸し? 炒め物? 炊き込みご飯? 何がいい?」


 口をギュッと結んだ、透明なビニール袋が乗っている。一体、何粒あるのか、呆れる程、袋一杯に入っているのは、銀杏の実。

 なるほどな。拾うのに夢中になっている間、アリスは落ち葉と戯れていたんだろう。


「全部」


 不機嫌めいた声色を作って、ダイニングの椅子を引く。


「えー?」


「全部、食いたい」


「もぅ、食いしん坊!」


「うるさいな。せっかく入れた楽しみを台無しにした見返りだ」


 湯気の消えたマグカップを手に取る。やっと口に含んだが、温いコーヒーは、40%くらい至福がカットされてしまった。


「楓兄」


 花音は、シンクのボウルの中で一応(・・)温められていたマグカップを拾って、サーバーポットに残った一杯分(・・・)のコーヒーを入れる。ちょっと考えてから、彼女は棚から顆粒ミルクを入れた。


「何だよ」


 俺の向かいに座ると、小さいスプーンでカップの中身をクルクル掻き回す。


「あたし、やっぱり、この家出ようかな」


「何でだよ。ちゃんとリフォーム業者に見積もり出すぞ」


 隣室の声が気になるとか、ベランダから忍び込む隙間風が寒いとか……散々愚痴っていたクセに。


「うーん。それは、次に一緒に住む人と決めなよ」


 ゴフッ。


「わ。汚いなぁ」


 思いがけない言葉に、60%の至福が逆流した。


「ゴホッ……生意気、言いやがって」


 噎せながら鼻をかむ。カップの底に3cmくらい残った液体からは、もはや至福感は消え、口にする気も失せてしまった。


「でもさぁ」


「お前が気ぃ遣うことじゃねぇよ」


 2年前。あの喫茶店でデートを重ねた彼女は、古臭い戸建てで、まだ高校生の小姑と同居する男を『重い』と切り捨てた。


 家も妹も、ずっと付いて回る訳じゃないのに。


 未来を短絡的にしか描けない女に幻滅した――というのが別れた理由だが、そんな風にしか見てもらえなかった俺にも、魅力がなかったのだろうと思う。


 けれども、俺の部屋で交わした別れ話は、隣の部屋に筒抜けだったらしい。

 あの日、アリスの散歩に出た花音は、眼鏡の奥に夕陽を張り付けて戻ってきたのだ。


「俺のことより、お前はどうなんだ。彼氏……いねぇよなぁ」


「あ。何か失礼」


 上目遣いに、こちらを睨む。見栄を張った所で無駄だ。コイツが嵌まっている推理小説の探偵の如く、俺は尊大に腕を組んでやった。


「連休の秋晴れの午後に、犬の散歩しながら銀杏拾ってる女に、男はいない」


「……分かった口利いて」


 ぷうと頬を膨らませるも、反論が遅れた。その僅かな沈黙が、答えだろ。


「悔しかったら、寿(ことぶき)の相手見つけて、この家出てくんだな」


「……楓兄」


「冬のボーナスでリフォームするか」


 ツン、と額をつついて席を立つ。豆鉄砲食らったハトみたいにまん丸な目で、まじまじと見詰めている。そんな視線を無視して、マグカップとボウルを片付けた。


 それから、銀杏のビニール袋をヒョイと掴む。


「これ、水に漬けるんだろ」


「あっ、うん」


ー*ー*ー*ー


 廊下奥の納戸に向かう。ポリバケツを引っ張り出して、裏口の外で濯ぐ。その中に水を張り、ビニール袋から銀杏をドボドボ投入する。あー、相変わらず臭いなぁ。


 美味い銀杏料理を味わうためには、面倒な下処理が必要だ。まずは外側の実から、硬い殻付きの種を取り出さなきゃならない。この実が、とにかく臭い。とても食べ物を内包しているとは思えない悪臭だ。綺麗に外すには、水に漬けるか土に埋めてブヨブヨにするのが一般的。次に、取り出した殻を綺麗に洗い、十分に乾燥させた後、その殻を割る――そうして、漸く柔らかい食用部分にお目にかかれるのだ。


「うわ、臭いねぇ」


 裏口のドアから花音が覗く。鼻を摘まんで苦笑いしてる。


「何だよ。中、入ってろよ」


 せっかく汚れ仕事(・・・・)を引き受けてやったのに。


「楓兄、明日デートしよっか」


「……あ?」


 裏口の上がり台で、膝を抱えてしゃがんでいる花音が、ニコニコ見上げている。


「それ拾った近くに、いい雰囲気のカフェを見つけたの。テラス席もあったから、アリスも一緒に行けるし」


「よし。気に入ったら、おごってやる」


 臭害が屋内に及ばぬよう、風下の軒にバケツを置く。残ったゴミを片付け、裏口のドアを閉めると、キィ……と耳障りな音が鳴った。ここの立て付けも、見てもらうかなぁ。


「ラッキィー! あたし、お財布置いて行こうっと」


 廊下の前を歩く花音が、はしゃぐ。


「お、強気。不味かったら、お前のおごりだからな」


「やー、ケチぃー」


「うるさい」


 軽口を叩き合いながら、リビングに戻る。

 住み慣れた我が家は、今のところ小姑(いもうと)込みで居心地がいい。リフォームすれば、益々快適になるだろう。


 いつか、花音(コイツ)が嫁ぐその日まで、もう少し……こんな緩い生活も悪くない。



【了】


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