prologue
その大きな煉瓦造りの家は、見慣れたドライブウェーに彼を歓迎するように建っていた。
彼はきちんと手入れされた鮮やかな緑色の芝生の上を横切って、ゼラニウムやパンジーの鉢植えに囲まれた玄関から家に入った。
色とりどりの調理器具が真っ白な壁に映えるキッチンや、黒いソファーが古い暖炉とテーブルを囲む広いリビングを通り、彼は2階へと駆け上がった。
階段を上ってすぐにある彼の部屋。床は白に近いグレーのふかふかのカーペットに覆われ、真っ白な壁にはカナダの風景画からアフリカのお面まで、様々な国の芸術品が飾られている。
本棚にはカラフルな背表紙の本が所狭しと並び、小学校入学のお祝いで買ってもらった大きな勉強机のちょっとしたスペースには様々な大きさの写真立てが置いてある。写真に写っている人の顔は、ぼやけていてよく見えなかった。
薄いブルーのカーテンの隙間から眩しい日の光が差し込んでくる。
勢いよく窓を開け放つと、小鳥のさえずりが風に運ばれてきて、部屋の中は清涼な空気に包まれた。
窓の外に広がる青空には雲ひとつなく、裏庭の木々の緑色との境界線がくっきりしていた。
彼が大好きなこの裏庭。家の正面のバランス良くカットされた植物とは違い、ここでは全ての生き物がありのままの姿でいられた。キツツキは伸び放題の松の木をつつき、リズミカルな音を奏でる。キッチンの窓から毎朝眺めていた黄緑色のつるはもう彼の部屋のすぐ下まで伸びてきていた。
カーテンとコーディネートされたベッドカバーの上に寝転がり、時計が時を刻む音に聞き浸っていた彼は、車庫が開く音を聞いてゆっくりと起き上がった。
窓から覗いて見ると、広い道路の方に向かってドライブウェーを走って行く、白いホンダが見えた。メイドのジュリーさんであろう。フィリピン出身の彼女は母国に残してきた男の子3人を養うためにこの家に住み込んで働いてくれている。
車庫の隣の狭い部屋に寝泊りしている彼女は、毎日この時間になると愛車に乗って買い物をしてきてくれる。多少がさつだが、気立ての優しい人だ。
階段を下りてキッチンに向かうと、案の定買い物に行ってくるという内容のメモが食卓の上に置いてあった。食卓からベランダの様子を見ると、手すりの上でリスが2匹戯れていた。
キッチンの横にあるダイニングルームを通り抜け、彼は階段の前にたどり着いた。きしむ階段を1段ずつ下りていき、階段の足元のスイッチをつけると、裸の豆電球が薄暗い地下室をぼんやりと照らし出した。
地下室の手前には引っ越しの時の段ボール箱や古い本などがうず高く積まれているが、奥のほうはかなり広々としていて、リビングのグランドピアノの補佐役を忠実に果たしてきた電子ピアノや、冗談半分で買った卓球の台などが置かれている。
昨日の練習からつけっぱなしになっていた電子ピアノの電源を切り、ベランダへの出口の鍵を開けて、外に出た。
柔らかい風が彼の頬をなで、髪をなびかせる。2階構造になっているベランダの1階が地下室の出口と通じているのだ。
彼は低い柵を乗り越え、裏庭に降りた。雑草は伸び放題で、しっとりとした地面からはごつごつとした石が所々覗いている。木々の上では様々な色と大きさの鳥たちがさえずり、枝から枝へと飛び回っている。日向には気まぐれな百合の花が一輪、ぽつんと咲いていた。
木漏れ日の中で過ごすこのひとときは、休日には欠かせない、大切な時間。
階段を上りベランダの2階に着くと、甘い香りが漂ってきた。木のテーブルの上には彼の大好きなレモンティーが注がれたカップが置いてあり、その隣の小皿には焼きたてのクッキーが数枚。ジュリーさんが買い物に行く前に用意してくれたのだろう。
(何かが足りない)
椅子に腰掛けながら彼はふとそう思った。こんなに静かで心地よい時間が流れているのに、大切な何かが足りない。
カップを口につけながら、彼は裏庭の舗装された一角の、バスケットボールのコートに目をやった。
ゴールは青空に向かってそびえ立ち、そよ風にそっと揺れていた。