第6話:視界同調と『甘味』の枷
【登場人物】
レオ / 処刑された元聖白教の異端審問官。黒髪に翠と金の目。黒い外套。ダラクローンと契約し、堕落のダンジョンで人々を解放する。
ノクス / ダラクローンの眷属。銀髪ボブに黒いゴシックドレス。ダンジョンの根幹を担っている。滅ぼされた魔法文明の魔法使いで、祈跡使いの聖白教の堕落を支援する。
アウレリア / 金色髪の聖女。聖白教オルドリア教区(王国の教区)と北の白塔をつなぐ聖務連絡官。
【設定】
堕落のダンジョン / 神聖連合国の一国、グレイヴァルド王国の郊外地下に作られたダラクローンのダンジョン。欲望を満たすために、魔力によるダンジョンルームが仮設→生成され、人々を堕落させていく。
ダンジョンのメインルーム。
私はソファに深く腰掛け、目を閉じていた。
「——同調、開始」
低く呟くと同時に、脳裏にノイズが走る。
暗闇だった視界がジャックされ、他人の視覚情報が鮮明な映像として流れこんでくる。
映し出されたのは、手元の書類と、忙しなく行き交う政庁の職員たち。
『視界同調』。
昨晩、別れ際にアウレリアが私のコートを掴んだあの一瞬、彼女に流しこんだ契約神の回路を使い、魔力を通して自身の視界と同調させたのだ。
「見えますか、旦那様」
「ああ、良好だ。音声もクリアに拾えている」
隣にひかえるノクスに答えながら、私は「アウレリアの目」を通して世界を見る。
彼女は今、政庁の廊下を早足で歩いている。
『(急がないと……補佐官殿への報告の時間だわ)』
彼女の思考(心の声)までが、直接脳内に響いてくる。
彼女は昨晩の動揺を完全に封印し、鉄仮面の聖務連絡官として振る舞おうと必死だった。
◇
政庁・主席補佐官室。
ノックをして入室すると、そこには昨日アウレリアを怒鳴りつけた太った神官——主席補佐官が、ふんぞり返って座っていた。
「報告します。東部教区との調整案、および物流ルートの改善案です」
アウレリアが分厚い紙の束を差し出す。
それは、彼女が徹夜で……昨夜の私との再会による動揺を抑えながら……仕上げた、完璧な実務書類だ。
補佐官はそれをひったくり、パラパラと適当にめくった。
「フン……遅い」
「申し訳ありません。ですが、内容は……」
「内容は悪くない。だが、ここが気に入らんな」
補佐官はペンのインクをたっぷりとつけ、書類の表紙にある『作成者:聖務連絡官アウレリア・ネーヴ』という署名を、太線で乱暴に塗りつぶした。
そして、その上に汚い字で書き殴る。
『作成:主席補佐官室』と。
『(……っ!)』
アウレリアの視界が大きく揺れた。彼女が唇を噛んだのがわかる。
明白な手柄の横取りだ。
「な、何か不満か?」
「……いえ。教区の成果となるのであれば、異存はありません」
「よろしい。貴様のような女はそうやって、有能な男の陰で慎ましくしていればいいのだ」
補佐官はニヤニヤと笑いながら、書類を自分の引き出しにしまった。
「そもそも、貴様ら白塔の女には政治や数字など分からんのだ。貴様らはただ、神に祈り、子を産み、有能な国属の男に従っていればいい。……余計な『思考』などするな。それは秩序を乱すノイズだ」
吐き気を催すような蔑視の言葉。
だが、アウレリアは反論しない。いや、できないのだ。
彼女は深く頭を下げ、退室する。
『(我慢……我慢しなさい、アウレリア。これがわたしの仕事。これが秩序……)』
廊下に出た瞬間、彼女の視界が涙でにじんだ。
彼女は手洗い……トイレの個室に駆けこみ、声を殺して泣いた。
ダンジョンでその様子を見ていた私は、ギリ、と奥歯を噛み締めた。
視界同調を解除し、ダンジョンのメインルームのソファに深く沈んだ。
「……あれが、彼女が人生を捧げて守ろうとしている『秩序』の正体か」
「効率が悪いですね」
ノクスが淡々と、しかし辛辣に評する。
「アウレリア様の実務能力は、あの男の数倍です。有能な個体が無能な個体に搾取されるシステム。……崩壊するのは時間の問題かと」
「ああ。だが、その前に彼女の心が壊れる」
私はモニター代わりの水鏡を睨んだ。
ノクスが見ていた俯瞰視点でのアウレリアの様子が、魔力が途絶えて消えていく。
「十分だ。敵の……この教区の腐敗具合はよく分かった。……あとは、彼女自身の『限界』を待つだけだ」
◇
そして、夜。
私はダンジョンからアウレリアに視界同調をかけた。
激務を終えたアウレリアは、ゾンビのような足取りで独身寮に戻っていく。
初歩の祈跡……灯りの祈跡で室内に光をもたらし、イスに倒れこむ。
心身ともに極限状態だ。
何かで自分を慰めなければ、心が砕けてしまう。
そんな様子で……彼女は震える手で、いつもの引き出しを開けた。
小箱の中の、一粒の干からびた角砂糖。
昨日、私に見られたあの砂糖だ。
『(……食べたい)』
心の声が聞こえる。
強烈な渇望が彼女を襲う。
今日一日の屈辱。
疲労。
空腹。
その全てを、この一粒の甘味で麻痺させたい。
彼女の指が、砂糖へと伸びる。
震える指先が、砂糖に触れようとした——その時。
『——よく耐えたな、アウレリア』
彼女の脳内に、私の声を直接響かせた。
「ッ!?」
彼女は飛び上がり、周囲を見回す。
だが、誰もいない。
「れ、レオナルド様……!?」
『落ち着け。君の視界を借りているだけだ』
私は同調越しに語りかける。
優しく、しかし逃げ場を与えないように。
『今日一日、君の働きを見させてもらった。……無能な上司に手柄を奪われ、女というだけで蔑まれ、それでも君は職務を全うした。立派だよ』
「み、見ていたのですか……あの無様な姿を……」
彼女の顔が羞恥で赤く染まる。
『無様なのは君じゃない。あの組織だ』
私は、彼女の指先にある角砂糖に意識を向けた。
『アウレリア。その砂糖は、君の傷を癒やすにはあまりに小さすぎる』
「……でも、私にはこれしか……」
『昨日、言ったはずだ。俺なら、本当の甘味を与えられると』
彼女の手が止まる。
昨晩の私の言葉。
そして、今日一日の地獄のような現実。
彼女の中で天秤にかけられる現実。
『……日没の鐘は鳴った。今日一日、君はあの一粒に手を付けず、耐えきった』
私は告げる。
『合格だ』
その言葉と同時に、彼女の足元の影が、再び音もなく広がった。
昨日は彼女が拒絶し、閉ざされた扉。
だが今は、彼女を見つめる深淵のように、静かに口を開けている。
『さあ、来るんだ。準備はできている』
「準備……」
『今夜こそ、その渇望を全て満たしてやる。……君も、もう分かっているはずだ。君の居場所は、あんな冷たい箱の中……政庁じゃない』
アウレリアは、手元の干からびた角砂糖を見た。
そして、足元の広がる闇を見た。
彼女の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。
信仰か、意地か。
あるいは、ただの限界だったのかもしれない。
「……甘いもの」
彼女は夢遊病者のように呟いた。
「レオナルド様……わたしに、甘いものを……」
彼女は角砂糖を投げ捨てた。
そして、吸いこまれるように——自らの意思で、影の中へと足を踏み入れた。




