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蜥蜴の魔法使い  作者: カシノ


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1/2

001

 鬱蒼とした森を黒毛の馬が駆ける。ぬかるんだ土を踏み締め、蹴り抜けるその蹄はよく手入れされていて、木々の間を縫う馬体は速度を緩めるどころか徐々に加速している。


 当たりを引いた。


 手綱を握るガーベラは身を低くしながら自嘲気味に笑った。

 女にしては大柄で、鋼の鎧を身に纏う自分を乗せているというのに、この黒馬はよく走る。馬房の世話は騎士団の見習いが担当していたはずだが、丁寧に育てられている。

 すぐ側で雷鳴が轟くが、黒馬は怯まない。寧ろ、視界を遮る大粒の雨に苦しめられているのはガーベラの方だ。

 馬術は人並み以上に収めていたが、ガーベラの技術はあくまで陽の下で磨かれたものである。豪雨の中を突っ切っるのは初めての経験で、次々と現れる太い幹を避けられるのは黒馬の先導があってこそだった。


「チッ」


 しかし、黒馬がどれだけ障害を避けようと、命を狙う凶刃からは自力で逃れる他ない。後方から聞こえた風切り音に反応し首を傾げた直後、鉄の鏃がガーベラの頬を掠めた。

 雨に濡れ冷えた体に伝う血は火のように熱い。早まる鼓動を自覚して、手綱を握る拳に力が入る。

 追っ手の足が速い。ガーベラは、父母のみならず兄達の首も落とされたことを悟る。森を抜けたとて、追撃の手が休まることはないだろう。

 先のない己を悲観してか、ガーベラは獣が牙を剥くように短く息を吐いた。馬体に張り付く程に深く倒した体の上を、また鉄の矢が通り過ぎる。

 雷が落ちる。

 一瞬の閃光を合図に、ガーベラは短弓を抜いた。振り向き様に構え、不恰好な姿勢のまま矢を放つ。狙いを定める暇すら惜しんだ高速の射出は当然、追っ手の体に掠りもしない。だが、足を止めるには充分で、僅かな隙に距離を稼ぐ。


「リーツか」


 栗茶毛の馬に跨る追っ手の顔には見覚えがある。前年の弓術大会で準優勝した男だ。狩りで培った腕は確かなもので、騎士団員は野蛮な技術と蔑んでいたが、ガーベラの印象には強く残っていた。

 大会で見せた技術も中々のものだったが、動く獲物にこそ真価が発揮されるということか。二度もガーベラの命を脅かした矢は、どちらも走る馬上で放たれた。黒馬の足でなければ今頃は射止められていたかもしれない。

 早々に弓での戦いを諦めたガーベラは、短弓と矢を放る。少しでも重りを減らし、あわよくばリーツの馬の足を絡め取ろうという魂胆であった。

 その一動作が命取りとなる。向き直ったガーベラの目前で今まさに、燃ゆる木が根本から倒れようとしていた。


「クソッ!」


 さしもの黒馬も身に掛かる火の粉に動揺した。避けようと踏ん張るが、ぬかるみの上で速度の乗った体を制することはできず、足をもつれさて倒れ込む。

 咄嗟に黒馬の背を蹴ったガーベラも同様で、倒木を飛び越えはしたものの着地を支えきることはできなかった。泥を跳ね上げながら地面を転がり、木にぶつかってようやく止まる。


「かはッ」


 背中を強く打ちつけた。衝撃に肺の空気が吐き出され、視界が激しく明滅する。奥歯を噛み締め落ちかけた意識は繋ぎ止めたものの、痺れた四肢は言うことを聞かない。呼吸さえままならず、焦りだけが募っていく。


「……第二王女だな」


 頭上で声がする。首さえ満足に動かせず、瞳だけで見上げる。


「俺は、あんたに憧れていた」


 雨にかき消されそうな小声でリーツは語る。ガーベラが動けないと断じたのか、短刀を引き抜く動作は遅い。


「弓術大会の時、初めてあんたを見た。騎士の連中は目が良いだけの野人だと馬鹿にしたが、あんたは俺を認めてくれた。俺は、嬉しかったんだ」


 ガーベラはただ呼吸を整えることに集中する。灰色の瞳はリーツの手元を注視し、体で隠した右手をゆっくりと開閉する。


「だが、あんたは殺す。あんたを殺さなきゃ、革命は終わらない。だからせめて、あんたは俺が」


 言い切る前にガーベラは動いた。

 感覚を取り戻した右の指が腰に帯びた剣の柄にかけ、体の捻りに任せて抜く。神速の抜剣は、曇天の下にありながら刃が銀の軌跡を残す。

 踏み込み、切り上げた刀身は短刀を握るリーツの手首を切り落とした。

 ガーベラを無力な女と侮ったリーツは驚愕するばかりで痛みを感じる暇がない。その隙は命を落とすには充分過ぎる。ガーベラは滑る泥を気迫で踏み固め、更に一歩、前に出た。返す太刀筋には腕の振りと体重が十全に乗り、リーツの右肩口から左の脇腹までを繋げようと勢いよく振り下ろす。


「グッ」


 突如、体側に何かがぶつかった。

 脳がぶれる衝撃に吹き飛ばされたガーベラは何が飛来したかも理解できず地面を転がる。一拍遅れてリーツが手首の喪失に叫ぶ。耳鳴りに苛まれるガーベラは霞む視界で辛うじて、飛来した物体を見定めた。

 ガーベラの体の半分ほどにもなる岩。投石ではない。投石機を運ぶ道も、その時間も与えていない。にも関わらず、それはどこからともなく放られてきた。


 魔法使い。


 単騎で戦況を変える力を持つ術師達。ガーベラは一度だけ、その戦いを見たことがある。ピクニックに来たような気軽さで談笑に勤しむ連中は、儀礼剣すら構えることのできない生白く非力な腕に、戦場の覚悟を知らない甘ったれた思考を持ちながら、一夜にして堅牢な石壁を崩し、敵国の城下を焦土に変えた。鉄と馬こそが戦と信じてきたガーベラは、連中の不釣り合いな暴力にただ恐怖した。

 それ程の存在が、たかが一人の女を始末するために出張るのか。

 剣を握る手に力が入らない。燃えるような体温に感覚が溶けているが、確実に折れている。走る体力も残されておらず、魔法使いの位置は分からない。何より、戦いを続ける気力がなかった。


 ここまでか。


 終わりを悟ったガーベラは、荒い呼吸を繰り返すリーツを茫と眺める。切り落とされた手を抑え、血の気を失った白い顔をしているが、瞳は憎悪の光を堪えて爛々と煌めいている。

 リーツは残された左手で、肩掛けの矢筒から一本の矢を引き抜いた。鋭く尖らせた鉄を被せた鏃は、振り落ろすだけでも人一人は殺せる力がある。

 ガーベラは武人である。血筋から前線に立つことはなかったが、命のやり取りは幾度となく経験し、その全てに己の技で打ち勝ってきた。女は政略の道具として扱われるのが常だが、自力で信念を貫き矜持を護る覚悟があった。

 それがどうだ。

 死を恐れ、家族を見捨て逃げ出し、飛び込んだ森で多少腕が立つだけの傭兵と、故も知らぬ魔法使いに殺される。一矢報いたとて片手を落としただけであり、命を奪うには至らない。降り頻る雨の中、矢を突き立てられて死んでいく。


「やれ」


 ガーベラはせめてもの強がりを吐き捨てるが、掠れた声は雨音に消え、血の昇ったリーツには届かない。

 リーツは顎が歪む程に奥歯を噛み締めて、大股で歩み寄る。口の端に漏れた泡を気にする素振りもなく、殺意だけを剥き出しに矢を振り上げる。


 くだらない死に様だ。


 ガーベラは心の内で自嘲しながら、しかし、目は決して閉じなかった。高貴な血に生まれた矜持が、怯えを悟られることを拒んだ。

 それ故に、ガーベラは目前で巻き起こる突拍子もない出来事をはっきりと捉えた。

 茂みから飛び出たのは黒い影。追って巨大な獣が現れ、リーツを撥ね飛ばした。




 ◇◆◇




 雨の日の森には危険が付き纏う。

 緩んだ地面は転倒の恐れだけでなく、地滑りや洪水、視界不良が招く遭難など、様々な危険に溢れている。

 それでも敢えてコランが雨の日を選んで採取に出掛けるのは、獣との遭遇を避けられることの一点に尽きる。

 この森の獣は魔素の霧に適応しつつあるのか、総じて体が大きく気性が荒い。鼻が利くためやり過ごすにも骨が折れ、コランにとっては自然災害よりも余程身近な脅威である。注意すべきことは多いものの、足元だけに集中できる雨は都合が良かった。


「あ」


 倒木と地面の間に生えた茸を見つける。えぐみはあるが吐き気止めにもなる種だ。スープに混ぜるのに丁度いい。

 根本から掘り起こし、背負った箱にしまう。板を組み合わせ肩紐を括り付けただけの単純な作りであるが、コランの三日分の食料を納められる程度の実容量はあり、蓋も取り付けてある。背嚢としては申し分ない。

 コランは目的のオリーブの木を目指し、記憶を頼りに森の中を歩く。辺りは白く靄がかり、濡れた葉の濃いにおいで満たされている。濡れそぼった土は、一歩進むごとに沼から足を引き抜くような抵抗があり、雨に冷えた体も相まって体力の消耗が激しい。

 しかしながら、コランにとっては特別な時間である。獣が闊歩する危険な森を落ち着いて観察する機会はそう訪れない。用がなければ外出しない引き篭もりがちなコランにとって、久方ぶりの自然の空気は湿気っていようと心地良い。厚い雲により暗く、青みがかった木々はいつにも増して存在感があり、ちっぽけな自分が景観を独り占めしていると思える雨音が好きだった。

 道すがら、目に付いた野草を毟る。魔素は獣と同様に植物にも影響をもたらすのか、大ぶりなものが多い。食いでがあるだけでなく、薬効も高いので重宝する。

 久しぶりに村に薬でも卸そうか。卵や小麦と交換してもらうのもいい。

 近頃は乾季が続き、雨が降るのは久し振りだった。コランは決して油断してはならないことは重々承知していたが、この日はどこか浮かれていて、それ故、異変に気がつくのが遅れた。


「あれ」


 目当てのオリーブの木に辿り着いたはいいが、下の方に生った実が齧られている。木はコランの背丈を優に超え、実は目線の高さにある。ありつける獣はいずれも警戒対象だ。

 鹿ならいい。しかし、嫌な予感は大抵その通りになることをコランは知っている。


 ぱき。


 背後で枝が踏み折られる音がした。冷えた空気にありながらも尚冷たい汗が背中を伝う。生唾を飲み下し、高鳴る鼓動をひたすらに殺しながらゆっくりと瞳から振り返る。


「ひっ」


 猪だ。

 体高はコランの身の丈程ある。体重は倍にしても足らないだろう。濁った白色の牙は反り返り、先は鉄板を貫けそうなくらい鋭い。体を一回り大きく見せる厚い毛皮は、毛の一本一本が針のように伸びていて雨粒を弾いている。


 最悪だ。


 猪は肉厚な鼻をひくつかせ、黒目がちな瞳でじっとコランを見つめている。直立したまま動く素振りはないが、獣の動きは予想ができない。突然駆け出したかと思えば、あっという間に最高速度に到達し、紙切れのように弾き飛ばされる。

 戦うか、逃げるか。

 コランは視線を切らさず、静かに屈む。泥の上では使える土まで通すのに時間がかかる。猪の勘が鈍いことを祈りつつ、地面にぴたりと掌を合わせる。

 しかし、祈りは届かなかった。

 猪が突如として走り出す。息つく間もなく肉薄する巨体を避けられたのは偶然でしかない。泥に滑り崩した体勢の僅か上を、猪が猛然と走り抜けてゆく。


 駄目だ。逃げよう。


 コランは倒木に手をつき立ち上がると、振り返りもせず駆け出した。

 泥に足を取られながらも懸命に、前だけを見つめ、ただ足を走らせる。目の前に葉と枝で作られた壁が見えるが、速度を緩めることはない。

 寧ろ好都合だ。一度視界から外れればやり過ごせるかもしれない。

 直感で判断し、コランは跳んだ。枝で外套の裾を引き裂きながら壁の向こうに転がり出て、素早く顔を上げる。

 そこで初めて、コランは自分がより混沌とした状況に陥ったことを理解した。


 憤怒の形相で矢を振り上げる片手のない男と、その下で今にも殺されようとしている女。


 何故この森に人がいる。コランの住む森は王国で禁足地として扱われているはずだ。そのような場所に入り込み殺し合いをするなぞ、どう考えても面倒でしかない。獣の相手をするよりもずっと厄介だ。


 殺すか。


 動揺に揺さぶられながらも、コランの頭は酷薄な判断を下した。膝立ちのまま泥だらけの右手を振りかぶる。

 しかし、それが振り下ろされるより先に、巨躯の猪がコランの横を駆け抜けた。

 コランの目論見は上手くいっていた。目標を見失った猪は猛りをそのままに自然の壁を突き抜け、最初に目に入った片手の男に狙いを定めた。


「ぎゃっ」


 獣に温情はない。

 躊躇なく跳ね飛ばされた男は錐揉み回転しながら宙を舞い、頭から地面に落ちた。首がコの字に折れ曲がり殆ど死んだようなものだったが、猪は僅かな希望すら見逃さない。男に牙を突き刺すと頭を振って放り投げ、巨体をぶるりと震わせた。

 胴体が引きちぎれかけた男の死体がコランの足元に転がる。先まで女に向けていた殺意の目は光を失い、力なく曇天の空を映している。

 獣というのは良くも悪くも単純で、一つ殺せば頭が冷える。猪はコランを一瞥すると太々しく鼻を鳴らし、森の奥へ猛然と駆けていった。

 一先ず、目先の脅威は去った。しかし、問題は残っている。

 コランは安堵の深呼吸もそこそこに、背嚢を背負い直して木にもたれかかる女に近づく。

 歳の頃は二十、三十くらいか。燃ゆるような赤髪は泥に塗れ、息も絶え絶えであるが、灰色の瞳は力を失っていない。身に纏う鋼の鎧には精緻な意匠が施されており、指のかかった長剣は雨空の下でなお鈍い光を放っている。

 高貴な出自の人間。大方、追手から逃れるうちにこの森に迷い込んだのだろう。

 コランの中に同情心が芽生えるが、しかし、殺さなければならないという決断は変わらない。

 細く息を吐いて覚悟を決め、女に向かって一歩を踏み出した直後である。


「止まれ!」


 女の吠えるような呼び掛けに思わず動きを止めたコランのすぐ前を、大岩が通り過ぎた。

 突然の出来事にコランの思考が停止する。遅れてやってきた風圧に煽られ、尻餅をついたところでようやく、今しがた自身を襲った脅威を理解した。

 今日は碌なことがない。

 久々の採取だと浮かれていた自分を恥じながら、コランは大岩の飛んできた方向を振り返る。しかし、生い茂る木々に加え降り頻る雨が視界を妨げ、射手の位置は分からない。

 仕方ない。

 コランは瞬時の葛藤の末、先まで殺そうとしていた女に助けを求めた。泥を跳ね上げながら駆け寄り、女の前で跪く。


「どっちだ」

「あの二本の木、私から見て右側の根元にいる」


 女は青褪めた顔をしながらも、冷静に敵の位置を観測していた。今しがたまで殺されかけ、敵か味方かも分からぬ男の問いかけにも関わらず、方向を差す指に迷いはない。

 対して、コランは未だ敵を捕捉できないでいた。そも、コランの対人戦闘の経験は片手で数えるほどしかない。目を開けることすらままならぬ状況で、敵の居場所を正確に把握するなぞ不可能である。

 それでも、大体の方向と距離さえ掴めれば、どうということはない。

 それが魔法使いというものだ。


「ふん」


 軽い呼吸と共に右手を大きく振り下ろす。凝り固まった肩を解すくらいの気安さで振り下ろされたそれは、雨粒を幾重もの氷槍に変え、敵が潜んでいるであろう木を根元から消し飛ばした。




 ◆◇◆




 恐らく死んだだろう。

 コランは大木が悲鳴を上げて倒れる様を見届け、億劫そうに目を伏せた。

 襲撃者は始末した。後は女を処理するだけだ。

 冷気の残る指先を擦り合わせながら、コランは殺しの算段を立てる。

 女は死にかけで、抵抗する体力は残っていない。見逃したとしても、あの怪我では森を抜けられない。いずれ獣に殺される。出来るだけ苦しみのない方法で一息に終わらせることが唯一の手向けだ。

 コランはゆっくりと目を開ける。そして、すぐ目の前まで迫っていた女の顔に驚いて、腰を抜かした。


「感服した!」


 泥溜まりに腰から落ち、いよいよ全身が茶色に染まる。コランは不快そうに口元を歪めるが、女はまるで気にしない。コランの顔を不躾に見回すと、満面の笑みを浮かべて大袈裟に頷いた。


「いや、若くして凄まじい腕前だ! 魔法は好かんが、あれほどの技を見せられれば感服するほかない! いやあ、本当に素晴らしい!」


 うるさい。喧しい。

 コランは先までの算段も忘れ、女の不愉快な距離感から逃れることで頭が一杯になった。あからさまに自分を避けるコランの様子に女も少し冷静さを取り戻したのか、演技くさい咳払いをしてから畏まった表情になる。


「そこで一つ、貴殿に頼みたいことがある」


 女の右腕はだらりと垂れ、立っているのもやっとの重症であるが、それを感じさせない力強い眼差しでコランを見つめる。

 木にもたれている時は分からなかったが、背筋を伸ばすとコランより頭一つは大きい。全身鎧の似合う体格をしていて、胸を張る立ち姿には気品がある。はっきりとした目鼻立ちのお陰で表情は豊かだが、人好きのする笑顔を引き締めれば武人の凛々しさが現れる。

 男女問わず見惚れるであろう美しさ。だが、コランは女が続けるであろう言葉を予想し、白けた気持ちで見返していた。


「私を弟子にしてくれないか!」

「絶対に嫌だ」

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