『信仰の形』
10. 信仰の形
信仰の形は様々であると述べた。思い思いの信仰の形があって、同じ宗教を信仰している中でも千差万別である。
1世と2世。宗教を捨てる者と宗教を選び取る者。実際的に宗教は選択の自由なものであるし、無論持つのならあって良いもので無ければならない。
私は宗教とは割とコロコロと変えていって良いものだろうとも思う。携帯のプランを変更したり、そもそもの携帯会社を変更したり、それくらいのものであって良いものであると思うのである。
信仰の絶対条件として、私が欠かせないと思っている事は『信じている』という事実であると思う。そうで無ければ信仰とは呼ばないとか、言葉の構え方で述べたい訳では無いが。
信じていないものを続ける程人が苦心を覚える事は他に無い様に思える。人生に陰りが見え、心が苦を覚えるのも多くは先の暗がりを見据えて、人生の辛苦を信じる事が多いからであろう。
人は良くも悪くも信じていない事を目指す事は出来ない。その状態に身を窶すことも出来ない。
信じる事が出来なくなったのであれば、キッパリとその信仰から距離を置くのも一つの手である。人との関係性はこの時は考えない事としてだが。加えて、出来ればそう意識を多くの人間が持つに至れば、それを己の思 考えだけで一方的に止める事も無い。
キッパリと距離を置く、これはけれどその物に対して嫌悪感からのみでそれを排斥するべきで無い様にとは思う。
生活の全てを蝕まれる程の信仰状態なら事はまた考え様だが、ただ信じる事が出来なくなったからというある種サッパリとした気持ちで、自分が選ばなくなったという自信を持って行うべきであろうと思う。
そもそも、私の中で信仰対象というのは神様だけでは無いとそう思う。ここら辺は信仰というのが実に人に対して根底に結びつけられているものだろうと思うけれど。
何も信じる事も無く生きている人間などいないという事である。
実生活上に必要なお金を必要以上に保とうとする考えもお金に対して信用を感じ、それがあれば自分は明るく健やかに生きる事が出来ると信じている事に他ならない。
対して、お金が無くても幸せというものを享受する事が出来ると言う人もいるだろう。
無論どちらともが間違っている訳では無いと思う。ただ両意見とも、その反対意見に対して真摯に信じているというだけの事である。
お金があれば幸せになれる訳では無く、それを信じているから、お金の有に対して幸せを感じるのである。
信仰とは実に身近にあるものだ。信じているものが無い人間などはいないと言ったが、本当に反例など無いに等しいだろう。
続けてお金主義者ばかりを例に挙げるけれど、その考え自体も誰かが与えたものであろう。周りの環境が、ありきたりな答えが、有名な名著が、タレントが、そんな言葉を残してそれに影響され、それを信じるに至ったからであろう。
私はその姿が他ならぬ信仰者の姿となんら変わる事が無いとそう思うのである。
まぁ、確実にお金は品物との価値変換を容易に出来るのに対して、信仰はもっと価値不安定であるのは実際だ。
信用度の分かりやすさの違いだ。けれど全ての人がお金を中心に思考していない時点で、お金だけが全てじゃ無い、他の信仰物に移り変わる程の求心力という事である。
どれもこれもそれぞれの人にとって信用に値するもので、信仰物にこそ違いはあれ、信仰するという意識行為というのは須く人における普通の行為であると考える事も出来る。
人はもっと信仰に対して寛容になった方が良いだろう。信仰と宗教の持つ言葉のニュアンスは考えたが、ここら辺がその違いの滲み出る間違いに繋がりそうである。
改めて、信じるという行為、広げて信仰というのは一般的な行為であると見ても良いと思われる。宗教という言葉のマイナスが与えられるべき境界線はどの様に見えるか。