『宗教2世の行先』
9. 宗教2世の行先
宗教2世の難点からの行き先を述べていこう。宗教2世は先に述べている通り、1世信者と異なり能動的に宗教を選んできた訳では無い。
思うところが多く生まれるというのは言うまでも無いだろう。特にこの情報社会の中で、スピード感のある時代を画面越しに眺める我々と言うのには自分の興味関心の無いところに注意を割こうというのは、随分愚かな行為である。
激流の中で泳ぐ事をせずに、他の事に注意を向けている様なものだ。それだけで、他の人とは差が開き、何かとの距離が大きく開いていく感覚に陥る。
自由な形で泳ぐ事が許され、しかもその形も様々な人が情報を発信して多くの泳ぎ方が考案されている。今は極めて自由な時代だ。
だがしかし、だからこそ2世という一つの括りを産まれながらに自分に課せられているという感覚というのは、ありのままに存在している気がする自由と見比べた時に大きなギャップに感じる。
最初から制限された人生に違和感を覚えるのは基本的な事だ。たとえそこに金銭などの実損が無い程度だったとしても子供からの悪印象は避けられまい。
親の入信度に寄るが、親が教人として役職を持っているのだとしたら、それだけで中心の職業というものを他に持たないで現実的な収入を持たないという場合も多くはない。
子供は大人以上に他人との差には敏感だ。子供の頃のそうした差というのを寛容に受け止められるのは大人特有の経験から来る。今の時代差が見えやすい為か、その差を見て現状に憤りを覚える年齢も早くなっている。勿論、早熟した意識を持っている子供も増えているというのも事実である。
しかしながら、どちらにしても差を意識しているというのには他ならない。親が子供の差別を作っているというのは随分と大きな言葉遣いだが、完全に間違いとは言えないだろう。
2世はそう言った意識を子供時代から育まれる事になる。個人差はある、変化をさせる要素が多種に渡る為だ。親の教育方針、その2世の個人の性格からの主観、周りの人間、兄弟姉妹の自分の立ち位置などその場合訳は小さな数には決して収まらない。
大人になれば自由になれる。親は親の考えがあって、自分には自分の考えがある。だから、親なんか捨て置いて自分は自分だけの生活を見つめよう。と、そう思う人も生まれる。だが、これはまだ自由な気がしている子供の意見だと私は思う。
そうそう簡単に親と子供の関係が切れる事は無い。生活的に差が出来ても、金銭的に釣り合わなくても、知能的に差が生まれても、物理的に差が生まれても生憎そうそう切れてくれるものでは無い。
加えて、2世というのはただ宗教を外側から眺めるだけの人とは絶対的に繋がり方が異なる。1世である親との繋がりは否が応でも宗教というのが干渉する事を避けられない。
一般の人が楽であるとそういう話をしている訳では無い。そこは絶対にない。ただ、今は宗教との関係性というところは中心に話したい。
一般の人が宗教をノーと簡単に意見するのとは違うというのを私は述べたいのである。
家族の関係というのは複雑怪奇だ。その上、絡みつく宗教というのも須く異様である。2世は少なくともそれらの人生を欠片程でも感じる事になるだろうと思う。
宗教に熱心な1世ほど、それを2世に理解してもらいたいと願うだろう。だが、その果てに行き着く思いが、宗教を脱するという結論にまとまり、親を捨てるという形でない事を私は望む。