『宗教の内側からの観察』
8. 宗教の内側からの観察
宗教の内側というのは、ここでは宗教1世およびそれに連続する2世の事としよう。親が宗教人だったら2世だとして、それが祖父世代からだったとしてもそこは見ずに、2世と一括りにしよう。
内側から自分の宗教というものがどう見えているのか、その視点の一つを私が思う観点で書き記そうと思う。
前回の外側からの観察を見たときに、私の経験と主観で恐縮だが、宗教人を見る外側の一般人というのはある程度の同じカテゴリの似た様な人種として、宗教人の一人一人を観察していると思われる。
それだけ宗教の警戒教育が十分に行き届いているという事だが。その観察というのは、須く私達宗教人という者には影響を与えている。無論、良くも悪くも。
ここでは宗教2世を中心に述べようと思う。私は宗教2世であるから、それを述べるのが一番純粋にその意見の括りを見る事ができるだろうから。
宗教2世。私達は宗教を与えられた人々である。1世が能動的に宗教を選択した事に対して、2世というのは実に受動的で、自動的である。
宗教を産湯に浸かって産まれたという表現も、誇大表現では無いくらいには、2世というのは産まれながらにそれに対して密接だ。
字面に正しく胎教をさえ、宗教関連であるという人間がいてもおかしくはなかろう。私は違うと思うけれど。
そこからおよそ、家を出る事になる時期になるまで、宗教2世というのはその親が信仰する宗教を身近に観察する事になる。
これをどう理解するかは個人差の話だが、宗教2世というものがその宗教を観察する立場に初めはあるならば、そこに一般人との違いというものが見られるのだろうか。
そもそも、入信する機会を1世と同じ様には与えられていない2世という人々はその選択の機会を完全に奪われていると言っても過言では無い。
その様な立場の人を宗教人と一纏めにして呼ぶのも些か不具合のありそうなところではあるが。まぁ、その様な表現の不具合から1世、2世という区分分けが為されたのであろうから、この分け方が今の十分という事であろう。
2世に述べるに回帰。
2世は自ずから入信の機会を乗り越えた訳ではない。だからこそ、反発が大きくなるのは当たり前である。その宗教自体との相性が悪ければそうなるだろうし、多額な金銭の受け渡しが見えれば実際的な不安と不満が見えるのは当たり前のことである。
2世の大人になってからの行く末というのは、大きく分けて三つになるだろうと思われる。
一つ、親の信仰していた宗教に自分も意識的に入信する事になる
珍しいパターンではあるだろうが、この可能性もあるのはある。親の躾や、立ち位置、教育の賜物だろう。ここではそれが良いか悪いかは述べる事は無い。親が医者だったから、子供もその背中を追って医者になるという話も珍しくは無い。それが宗教人だったというだけの話だ。
二つ、キッパリと宗教関連との関係を断ち切る
これは実際的に観察される宗教2世の動きとしてよくあるものでは無いだろうか。事、家のそれを継がなければいけない立場の子弟に起こり得やすいものだと思う。それか、報道に流れやすい悪徳宗教の2世とかだろうか。ここでもその選択の是非を問うたりはしないけれど、家族との縁を切る事を必要とする事は忘れてはいけない。宗教人であれど、普通の人の子と人の親である。縁切りは重い選択だ。
三つ、宗教人と一般人の狭間を選択する
これが1番多いかもしれない。自身の宗教を意識しながら、それを隠して過ごす。そうする事のメリットは上記に述べられたデメリットを取り敢えず遅らせられる所にあるだろう。
この三つの選択肢を宗教2世という人間は問われる事になる。遅かれ早かれ。
今回はそれを提示するだけに留まろう。どの立場でも認識しておくべきであろう。この三つが、当人になった時に、当人を産み落とす立場になった時に、当人と関わった時にどう考えるかのバッファを持たせるくらいでも良い。考える余地と方向性を見せられれば、なお良しである。