『宗教の外側からの観察』
7. 宗教の外側からの観察
宗教人というのは観察される対象である。宗派を持った何かしらの人物として、その生態が観察され、その姿から観察者は実態を投影して見ようとする。
しばしば実験生物の様な感覚に陥る時がある。人からどう見られているかを意識して、出来る限りその投影された影の形が良いようにと心がける。私を見つめる観察者が私自身を見ているのか、その奥の映し出されるレッテルの影を見るのかはよく分からずに。
そもそも観察者は私など見てもいないのかも知れないが、同じ方向で観察出来るから仕方は無い。そう言った過剰な自意識を持たざるを得ないというのが、内側の1人の人間の意見である。
けれども、この観察は必ずしも間違いを含まないことは絶対に無いだろう。見た目に、行動に、言葉に、どこにその人物の本意があるのかは信じる事は出来ようとも実際的に理解する事は出来はしない。
短期間でのコミュニケーションで悪い印象を持っていた人物だったが、それが長期に渡れば一転ひっくり返る事も珍しい事では無いと思う。
影を見つめようと、映し出されているのはその人物の輪郭であり、その人物の心では無い。
宗教事に戻る。
性格的な面で見ればそう言った誤解とは言えない、認識の改めというのは起こり得る。それと同じ様に、宗教人がそれぞれに抱く思いの違いを認識として変える機会がある事が往々にしてあり得る事を私は述べたい。
宗教を信仰していると述べれば、ぼんやりとそれを認識して、映し出されるその人物の像は宗教に邁進し、行事などに挙って参加をし、神事のお勤めを欠かさない。そんな人物像を取り敢えず浮かべるというのが普通かと思う。
そんな事は無い。宗教人の中でも、その傾倒の具合というのは様々である。これは間違いなくそう言える。
しかしながら、そんな人間ならば、自分が宗教人だとは名乗らないであろう。それをする意味があるのならば。宗教への傾倒が見られるだろうという意見が出てくるのでは無いだろうか。
そもそも、宗教人だと、自分の家は宗教をやっている、宗教2世だと、言わなければ良いでは無いかと。それは真っ当な意見だ。
そう見られる事に恥いる所が無いから、明らかに冷ややかに見られる可能性のあるレッテルを自分自身で貼っているのだ。そこに信仰心の強さが映っても仕方が無いだろうと思う。
改めて信仰の形とは人それぞれである。
一つの宗教の中の人物のでさえ、その形は幾万と存在するだろう。
信仰心の強さとは一体何を指しているのか。随分とぼんやりとこの言葉を意識しているだろう。
信仰の形は一つでは無い。方向性が真逆のことさえある。
自分はその宗教の一員である。それを打ち明けられた人物は個人の見解からその姿を見るだろう。今までに同じ宗教を信仰している他者を見ていた経験があるなら、その人の信仰の姿を、新たに打ち明けた人間にも重ねるだろう。
もし、その前回の宗教人と、今回の宗教人の信仰の形が正反対であるならば、その意識的な差異はおよそ関係に小さな擦り傷を残す事もあり得る。
レッテルも恐怖心も警戒心もよく分かる。けれど、宗教人一人一人もそれぞれが思考している1人なのである。自分の意思で宗教人だとそう語る語らないがある。
それぞれである。特にこの宗教2世と言う言葉が生まれた背景が見られる時代である。
宗教は悪なのだろうか。その方向性も形も内側でさえ、バラバラなのに。今一度よく考えたい。