『そもそもの宗教の是非』
6. そもそもの宗教の是非
これまでつらつらと自分の考えを書き連ねてきたけれど、これだけは外せない思考部分であると思っている。
私は改めて宗教2世である。だからこそ、信仰というのは身近なものであったし、それが無い人生というのが想像が出来ないほどだ。良くも悪くも。
日々の宗教に関連する行動の全てが自分に無かったらと思うのは、皆に日本人的行動理念がまるっきり存在しない自分というのが想像出来るかという事に近いと思う。
勿論、宗教理念と国民的理念とではサイズ感が違うから、体に馴染んでいく時間も方法も、探せば違いが山ほど出てくるだろうが、生活に馴染む理念という括りで柔に考えて欲しい。
私は宗教2世であったから、宗教に関して、信仰に関してよく思考し、よく対立し、よく影響を与え合った。機会があった。そもそも、自分の中で考え事を蓄えて、消化して、必要なものは吸収し、不必要なものは吐き出してきた。
多分、これは珍しいことでは無い。至って人が生きる上でよくやっている行為であると思う。この考えは許容できない、この考えは自分に活かせそうだと、選択していく。それの連続が人生というものの一つの側面であると思う。その結果が人が持つ行動様式とそれに付随する理念というものを形成する。
国民性、文化、友達関係、家族のコミュニケーションetc……。
私は今までの人生の中で、少なくとも自分の中で宗教、信仰に対しての己の答えを見つけ出している。今の所という部分は必ずつけておかなければいけないけれど。今の所、他者に触れられずに1人で確立できる理念を保てている。
無論、これは宗教、信仰に対する一つの理念である。先程言った様に、理念とは何事かに対する選択の連続によって生まれた答えと考えている。個人であれ、団体であれ。出来れば最後には個人的な理念であるのが理想だが。
勿論、一般の人々が宗教、信仰に対して一つの理念も持っていないと思っている訳では無い。元を辿れば、そう言った一般理念による無言の圧力からこの文章は始まっている。
人間、既知であり、それが自分に関する事なら理念を持つ。経験が無くても詐欺やドラッグなどに対して考えを持っているだろう。それと同様の事だ。
およそ、宗教も、詐欺やドラッグなどと同様。人生において極めて不可逆的であると思われている。一歩その道に踏み込めば、その先には奈落であり、元の道の戻るのは難しい。だからこそ、集団はそれらに警鐘を鳴らして、恐怖感を理念として植え付けている。
何処かが悪で何かを植え付ける、こう言った言い方は非常に宗教っぽいし、陰謀論まがいで肌に合わないが。
事前知識は重要な教育だ。実際、そういったものの影響からの失敗は計り知れない。
宗教は入信する事が得であるとは私は決して思わない。だからと言って、私がこう文章にしてまで宗教に関して述べるのは宗教に入るのはただ気をつけた方が良いと、一般理念に重ねて警鐘を鳴らしたい訳ではない。
私は皆がそれに対して過大に恐怖を覚えすぎているとそう思う。理念からの恐怖は人々の根底に強い恐怖心を植え付けている。私は、それらに恐怖心を持って向き合う事必要を疑問視する。
私達はもう十分にそれに対して恐怖心という理念を手に入れた。ここからはその恐怖心の綱を頼りにそっと奈落と良い教えられた先を覗いて欲しい。何故、それが今までの人類学と深く巻きついて来たのか、その是非を観察出来るだけの資質が私達にはあると考える。