『信仰と宗教』
5. 信仰と宗教
『宗教をする』という言葉がある。『信仰する』と言う言葉がある。前者、宗教をすると言うと、自分の中で生まれるのは一般的に抱いているだろう不信感、薄暗さである。強く述べれば、悪意を持った何かが背後に隠れている様な感覚だ。
対して、信仰するという言い方にはかなりのニュアンスの違いを感じる。少なくとも、嫌な肌触りは小さい。私独自の感性であれば申し訳は無いけれど。
国語的な意味合いではそもそも『宗教をする』と『信仰する』とは比較できるものでは無いかもしれない。『宗教をする』という言葉に対して『信仰する』とはその対象物の存在を必要とする。
つまり、情報がまだ未熟であり指し示しに余裕があるという事である。その余裕が後者の言い方の柔らかさを表現しているのかもしれない。
無論、今は宗教を対象物として『信仰する』と『宗教をする』とを比較しているのは絶対条件として。『宗教を信仰する』という言葉に置き換えれば分かりやすいか。そうすると、なるほど、きな臭くなった気がする。
一つ戻る。国語的な定義を一応、宗教は何かの対象物を信仰を元にして体系化したものであり、信仰は対象物を信じ仰ぐ事である。無論、それぞれで意味が異なる所であると思うから、一番広義的な意味を切り取ったけれど。
信仰を元にして、宗教が生まれている。こういう言い方をすると、卵と鶏をやや想起しそうだけれど、そうすると話がどちらが先で始まったのかとかの議論になりそうだ。それは違う気がする。
信仰と宗教の関係とは、考え方とその集合と言うものなのだろうか。簡素には。
宗教を集合とすると、また宗教団体とか言う言葉も厄介になってくる。でもしかし、この宗教団体という言葉もまた『宗教』という言葉の肌触りの悪さに影響されている気がする。
この国では無信仰者が多いというのはもう言うまでもない事かも知れないが、その国柄を併せ持ちながら成立する寺、神社などの存在には、またそこへ熱心に通う信仰者、住職、神主へは、敢えて宗教者としての色眼鏡をつける事は無い。
無論、その集合体を見たとしてもそれを宗教団体とは表現はしないと私は思う。
ここら辺を加味して、やはり『信仰する』と『宗教をする』と言う言葉へは実際的な意味以上に付随する意味が背後にへばりついていると思う。
ここで宗教2世という自分の立ち位置の思うべき事を考えよう。敢えて信仰2世という表現をしてみても面白いかも知れないが。どちらでも良い、人が私をどう観察するかが答えで。
2世の立ち位置。考え方。
私が考えるべきなのは、信仰と宗教の違いというところなのだろう。先程までもその話をしていただろうから今更感は否めないが。敢えて、もう一度違いを認識しなければいけないという事を言葉にしたい。
この国には多くのカルトがある。ここでは自分のデメリットになる宗教をカルト宗教として、それ以外を簡単に宗教と分けるが。
それを、カルトを悪だとするならば。その嫌悪感こそが宗教という言葉に付随する陰りであると私は思う。勿論、安直にデメリットがなければ、それは良い宗教だ、とは思わない。思うべきでは無い。
体系化された信仰が宗教であるけれど、その意味はかつての意味を逸脱し変容した意味を付随する現在となっていると考える。
卵が先か鶏が先かとは言ったものだが、この国に根付く宗教観と上手く調和するには、信仰という言葉の雰囲気の中で住まわせて貰う宗教でなければならないのだろう。それこそが私達が見極める一つの箇所だと思う。