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『宗教は善である』

3. 宗教は善である

 『宗教は善である』。前回に対して、その対義の文章を文字として起こしてみる。これはまた大胆な意見に感じる。宗教は善であるというのは、この化学が進歩を遂げてきた時代に対して流石に穿った意見であるだろう。


 はっきり言って、善ではない。今までの短い人生の中で集められた色々な立場の人の意見を見た所で、善であると少なくとも私は思うに至らなかった。


 だとすれば、善性というのが、人に必要なものであると仮定するならば、宗教というのは感覚として必要なものではないのだろうか。事実、宗教を持っていなくとも、生活する事が出来る、それに近づかない様に意識するば生きていく事が出来た、という人々が大半であるだろう。聞き及んだ、実際の話だ。


 無くても生活が出来る。生きていく事が出来る。宗教は必要が無いものである。その上、自分自身へのデメリットは多種多様なメディア越しに見る事は容易で、メリットはなかなかにして見えない。うん、それは選ばない。それはそうだ。


 しかしながら、私は宗教2世である。周りの人間が、ある特定の宗教を行っている。宗教2世にとって、宗教というのは個人の慣習や、趣味、俗世に蔓延る人生のプラスである何かとは一線を画するものである。


 読書は頭に良いから行い、ゲームは勉学の時間を奪うものだから排除したい、運動は健康に良いから日々の習慣にしていこう、楽しいからネットサーフィンが、筋トレが趣味になっている。これらの様な選び取る様なものとは全く違うものなのである。


 宗教2世にとって、宗教とは社会であり、一種のネットワークなのである。無論、先に述べておけばそれには良いも悪いもある、『社会』、『ネットワーク』とやや特殊な言葉を使ったが関係性の良し悪しという意味で特別なことでは無い。良い友人関係と悪い友人関係、仲睦まじい家族と不仲な家族があるのと同じである。


 宗教の居心地は自由である。それでいて、先も述べた通り社会である。脱却する、捨てるというものの持てる意味は、2世にとって、今の生活の多くを占める物を放棄するのに等しい。今すぐ会社を辞めて、田舎に住んで衣食住を調えろと言うのは些か力の強過ぎる判断だと思う。


 宗教が善では無いと断定し、宗教を悪だと判定する事は、その彼らの社会を真っ向から批判している事と同じである。


 真っ向から向き合わなくとも、宗教に触れなければ自身は生きていけるからと言う言葉が、こちらの社会からはどう観察されるのか、考えた事はあるだろうか。


 全ての人間我々は今、宗教の岐路には無い。突如として現れるそれもおよそ決して無いだろう。だが、しかしだからこそ、今はゆっくりとそれを思考する事が出来ると私は思う。


 宗教の善悪を、宗教の扱い方を、その内側と外側の相互作用の意味を良く考える事が出来る時代だと思う。


 大きい言葉を用すれば、私達宗教2世の目指す宗教の関わり方と、一般人が目指すべき宗教の扱い方とに違いは無いと私は思いたい。


 そして、その形はただ単純に宗教だからと排斥する訳ではなく、宗教だから近づかない選択をとる訳でも無い、非暴力的で、柔和な形であると切に願う。


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