『目指すべき信仰の方向性』
12. 目指すべき信仰の方向性
日本に存在を強く認識され、その上で人の生活と宗教理念、行動が結びゆく宗教。
信仰をする上で、信仰意識というものが大事であるのか否か、というところの話にも触れる事になる部分だろうか。
信仰心の無い神に対して、賽銭を払い、参詣し、祈る、それを個人が持ち得る信仰と呼べるかは微妙なところである。
およそ広義的な意味合いで言うところの信仰者という者にそのような行動のみをとる人間のことを当てはめる事は出来ないだろう。
というよりもこの国の人々は柔軟に色々な宗教を捉えれる事ができているという事なのかもしれない。どの宗教にも意識的に属していないからこそ、色々な宗教が述べる信仰の形というものを信じ、戒律の端を汲み取り、規律を正していく心が根底に育まれていく。
三大宗教を取り上げて、それぞれの目指すところを挙げていく。
仏教は煩悩を断ち切り、悟りを開き、涅槃に到達する事である。
キリスト教は、神を信じ、救済者であるキリストによって天国への道を歩む事である。
イスラム教はアッラーの言葉に従い、正しい生き方をする事で天国に到達することを目標にしている。
それぞれの宗教の中でも、宗派は様々に存在し、その行動様式は分かれているものだろうが、根本はその様に認識されているはずである。少なくとも私が知り得るくらいの一般的には。
並べた時に分かるのは、どれも死後または現世に生きている状態を終えた段階からの道筋のために今の人生を消費しているという所が共通点であろうか。
私達は現世に今、生きている。これらの宗教を信仰していないと意識しているならば、根底にある現世の今、人として生きている時間によく生きようとするのは何の為なのか。
まぁ、もちろん。宗教の為という訳では勿論ないだろう。人には根底に宗教を行いたいという意識があるのだという風に馬鹿げた結論にはいかない。
全ての人間にそういった根底における宗教理念が及ぼす様な善なる行いを優先的に行おうとする意識があるとは思わない。遺伝子に刻まれている訳でもあるまいに。
私は大学時代に微生物分野の研究を行っていたから、人と比べてかなり極小の細菌と戯れていたが、それらを観察している時に彼らに宗教的な動きは無論見られなかった。単細胞で遺伝子を色濃く一つの細胞単位に表現できる生物でも、宗教観などはおよそない。
はっきりと断言する事は出来ないが、少なくとも遺伝子にそういった情報が組み込まれている可能性は低いと言えるだろう。
勿論、光や酸素、そういった物質や情報に対して動きを見せる事はある。それを宗教と呼ぶかはまた別の問題になりそうではあるが。
人は選択しているという事ではないだろうか。
細菌たちが己の生息環境地をより良くする為に外側からの情報を頼りに移動したりする様に、とは穿った意見かもしれないが。
人の様な大きな多細胞生物は経験や情報から自分の行動を変化させる事が容易にある。
この国においては、その様に宗教行動を最下層付近に置くシートとして行動を選択する事は人々が生きる上で生物的に優位に働く事が多いという実際的な選択なのではないだろうか。
良い人間の側には良い人間がというのは、簡単な話だが。人間の地球規模では短い、文明の中で宗教というものは選択され残り続けているものであるというのは事実である。