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『信仰とは』

11. 信仰とは


 信仰とは悪では無い。言葉を更に正確に言うならば、宗教が受ける悪印象を共に受けなければいけない言葉としては些か値しないのでは無いかと言う事である。


 今の所の結論ではその様になっている。宗教と触れ合う2世や完全に外側から観察するだけの人の意見から見てみて、『信仰する』と言う事と『宗教をする』と言う言葉の違いを意識して、そこに正しく理解しなければいけないややの違いがある様に考えられた。


 私が思うに宗教人という立場の人間は特にこの違いを重視する事が必要不可欠である様に考える。1世の人間が自分の信仰のスタイルを2世に良く伝えたいと思うのなら、また2世が1世の伝える宗教の是非を一方的な姿勢で向き合わないという向き合い方をひない為には理解をしておくべきだと思う。


 また、この言葉のニュアンスの違いは、日本人の言葉にしなかった受け入れられる宗教と受け入れられなかった宗教との違いの着眼点に大いに関係しているのでは無いだろうか。そう捉えれば、この話は宗教人だけに限ったものでは無い。


『信仰する』『宗教をする』この違いは何なのか。


 受け入れられる宗教と受け入れられない宗教との違いは何なのか。


 これだけは先に述べておきたいが、単純に実損だけでは無いと思う。無論、実損とは宗教に入っているから生じるものであって、一般生活上でも生まれる程度の差が軽微なものは含めない事とするが。


 そこら辺を含めると家庭の不和は宗教のせいなんだと、言いようによっては宗教のせいに出来ない事ばかりである場合が多いからである。家庭の不和はどの家庭にも生じ得る。


 この国において、その宗教をやっている人は大丈夫と認知されるものは、神道が大半を占めるだろうか。ついで、仏教、キリスト教。更についでイスラム教、ヒンドゥー教が有名なところとしては挙げられようか。警戒の具合は人それぞれであろう事は理解した上で、取り敢えず。


 ここらへの無意識的な寛容さというのは、一般的な知識、学問として義務教育中にその大まかな宗教理念を知っている事に牽引されているというのはあるだろう。


 この国の国民が持つ、人種意識というものも根底にありながら、宗教への印象を変化させていると言うのも事実あると考える。


 歴史的な背景、単純な宗教の大きさ、その宗教が歩んだ時間などの要因が一つの国におけるその宗教自体の扱われ方に影響は生まれるのであろう。


 それらの宗教の習慣というのは、我々の実生活においても馴染んでいるものが数多く存在する。神道における神社毎のお祭り事や、仏教における死生観、キリスト教におけるクリスマスなどの行事。それらの要素が生活の至る所に潜む様になる。


 ただ宗教としてとは言い難いのは事実である。これは宗教を信仰してはいないけれど、その寺社仏閣にお参りし、拝し、祈るなどといった形の宗教行為とやや似通っている部分もあると思う。


 意識せずに信仰をしているという言い方もできるか。


 この形がこの国に馴染んだ宗教の形だと一つ仮定するならば、宗教が目指すべき場所はこの様な形なのでは無いだろうか。


 この国にとって、国民にとっては宗教というのは、意識して持つものでは無く、ただ生活に馴染んで存在するものである。近からず遠からず。


 確かにこの考え方は、八百万に神が宿るといった日本古来の神道の考え方に奇しくも通づるところになる。


 ある種、答えの形か。そうだと仮定すれば、もう少し目指す方向性と形が浮き彫りになるだろうか。

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