『宗教は悪である』
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私は宗教2世である。実家が宗教の分会施設であり、私はそこの子供である。ただのプロフィールになりますが、この程度のことが随分と言葉にして伝えることが難しい時代になってきた。そう、当人の1人である私は思うのです。
『この程度の事』と括れる人が少なくなってきたということかも知れません。それか、自ずから自分の今の立ち位置をよく考える時期に来ているということかも知れません。自分を姿を俯瞰し、顧みて、立場の開示に不安を覚えているという事です。
皆々、宗教人として自らを捉えていない人達を一般人とここでは述べる事としますが、一般人に対して我々宗教人というのはどう見られているのでしょうか。生まれながらに、宗教を産湯として浸かっていた自分というのが、どう周りから見えるのかというのは己の人生からは観察する事が不可能です。
だからこそ、『宗教2世』という自分の立場に不安定を覚えるのは容易な事になります。加えて、今の情報社会では、見える情報が著しく拡大し、そして声の大きい船頭によってその船の向かう先は白へ黒へと即座に変わるものであります。インターネットは海と表現される事もありますが、ことSNSにおいて宗教という海は今なお静寂とは程遠いところにあるというのが昨今の雰囲気とあいなります。
そこで私という、1人の宗教2世という立場の人間が宗教というものを自分の中で咀嚼し、そのこれからを自論を中心的にまとめようと思うのがこの文章の趣旨となります。自分の見え方を意識し、宗教、信仰というものの意味を考える。故に、ここに書き述べていく事は、その時々の自分の学び、考え方、受け取り方など、年齢相応に変化するものであり、当時の自分の立場からの答えで、一貫性の無い文章になる可能性を承知の上でご覧ください。
2. 宗教とは悪である
『宗教とは悪である』あまりこう表現する事自体、私の好む所では無いのですが、言い逃れるべきでは無い表現である事は事実であるとそう思います。この国では、そうなるべくして観察されるに至った行為の数々というのがあるというのは否定できない所にあります。
嫌われるべくして嫌われている。宗教というのは、一般の人からすれば、『自分を接触させたく無い物』であるという事だと思います。そこにある事は良いが、それが自分の輪の外であって欲しいというのは至って普通の保守的な思考だと考えられます。
危険な色の野草に触れる必要も無いのに触れる者はいない。ましてや、食べようなどとは思わない。よく分かります。
宗教を押し付けるべきでは無論、無い。宗教を身近におきながら、それだけは自分以外の人に向けるべきでは無いと念頭におくべきだと考えます。
けれど近くに宗教を置いていただけの宗教2世という私を含んだ存在は、一般人となんら変わらない情報を見聞きする事になります。分かっているつもりであります。自分から排斥したい気持ちも。
およそ、一般人が理解している以上に、その扱い方に四苦八苦を覚えている。
それだけの立場、位置が存在するだけで、家族が疎遠になっていく姿も珍しくありません。
家族の疎遠、崩壊。そう言うと、私が、皆が想像するものは、悪徳宗教にハマり金銭を惜しみなく払う親と縁を切らなければならないという定型であると思います。分かりやすいドラスティックな例でしょう。メディアを通して人の網膜から、脳へと強く焼き付けられた記憶としては十分すぎる。
しかしながら、この様な宗教からの脱却の理由はその全てでは無いというのが、内側から私が持つ一つの見解です。雑然とする社会の中で、宗教2世が信仰から手を引くというのには、もっと現実的で劇的で無い理由が多くを占めると私は観察します。
内側と外側では感情面で相互関係にありながら、忌避する理由を全く別のところに置いている気がします。
『宗教は悪である』それは正しくそうでしょうか。私から見ればそれは『図形は三角である』という浅慮に見えて仕方ありません。