Case 1 : はじまりの緑
病気は、必ずしも見える形で現れるわけではない。
数字、色、音、匂い――
微細な異変に気づけるかどうかが、生死を分けることがある。
臨床検査技師という仕事は、医師の指示に従って検査をこなすだけの職ではない。
その検査データの背後にある「何か」に、いち早く気づき、見抜く力が求められる。
けれどその声は、しばしば医療現場の中で埋もれる。
「技師のくせに出しゃばるな」
「余計なことをするな」
そう言われながら、それでもなお声を上げる者がいる。
これは、とある病院で働く検査技師たちの物語。
曖昧で不確かな“かすかな異変”に目を凝らし、
患者の命をつなぐために、“まだ見えぬ真実”と向き合い続ける者たちの記録である。
彼らの手にはメスも聴診器もない。
だが、その目は、時として未来を見抜く。
※「本作品はフィクションであり、実在の医療機関・医療従事者・患者・疾病・医療行為とは一切関係ありません。作中の医療描写は物語上の演出であり、正確な診断・治療を行う場合は必ず医療専門職の判断を仰いでください。」
「…だるい」
男はデスクに肘をつき、ぼんやりとモニターを眺めながらマウスのホイールを無意味に転がしていた。無精髭に無関心、着ている白衣もどこかくたびれている。
「またですか小田さん。ちゃんと仕事してください!」
小田 高将、ここ塩八病院の診療メディカルチーム検査科に勤める臨床検査技師。普段からあまりやる気なく、常に省エネモードでいる。オン・オフはっきりが信条だがほぼオフでいるマイペース人間。
「相変わらずやる気に溢れて素晴らしいね。上下さんは」
上下 緑は新卒でここに入って2年目になる同じ臨床検査技師。入りたてというのもあるが、いつも明るく真面目で、典型的な直進型の2年目という感じだ。気が強い所もあるが女の子らしい気遣いもあり周囲からも可愛がられている。
「だいたい、小田さんがそうやって無駄口叩くと変なことが起きるんです。静かにしててください」
緑の予言じみた忠告が、現実になるのにさほど時間はかからなかった。
バンッ!
検査室のドアが勢いよく開かれ、慌ただしい足音と共に看護師が駆け込んでくる。
「至急!髄液検査、お願いします!」
検体を握った手がわずかに震えていた。
「……出たな。髄液。久々に聞いたわ…マニュアルでしか見ない幻の検体かと思ってた。脳神経外科ができたとはいえ、こんなの数年に一度あるかどうかだよ」
小田がため息まじりに言うと、緑がすかさず睨みを利かせた。
「……小田さんのせいです」
「いや、あのね……」
そう言いかけた彼に、緑は検体を突きつけた。目は真剣、表情は容赦ない。
「私は髄液検査やったことないですし、一般検査担当の人は会議に行きました。お願いしますね、小田さん?」
「……はい。やらせていただきます」
渋々受け取りながら、小田は心の中で呟く。
(俺のこの、厄を引き寄せる体質、なんとかならんか…)
と、その時――
「あ、でも私も手伝っていいですか?後学の為に知っておきたいので」
そんなところが彼女の可愛げであり、愛される理由だった。
小田はふっと表情を緩める。
「では、検査を始めようか」
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ここは地方都市某所にある二次救急指定199床の塩八病院は外来診療科21、特殊外来6、健診センターと地域医療に根ざした医療機関である。大学病院などでかい機関ほどではないが一通りの検査は行え、患者の状態によっては転院させている。検査の一端を担う検査科の検査室は1階に位置し臨床検査技師と言う資格を得て働いている。
臨床検査技師は分野が多く別れており、検体検査と呼ばれる主に採血や採尿などを分析する部門。
生理機能検査は心電図や超音波検査など波形や画像により結果を報告している部門。
細菌検査は皮膚や痰、便や尿などあらゆる場所から採取された検体を培養し病因となった菌を特定する部門など臨床検査技師は医師と同じようにあるゆる分野に分かれ日々業務を行なっている。故に、医師に専門があるように私たち臨床検査技師もそれぞれ分野に分かれて担当している。が、それは主に大学病院など大規模病院の話であり、塩八病院のような規模やクリニックなどでは検体検査と生理機能検査はほぼ全て行えるようし、扱っていない検体検査項目や細菌検査は施設によるが殆どが外注検査、つまり委託業者で行なっている。
臨床検査技師って何してるの?とよく聞かれるし、皆さんも「聞いたことあるけど…」「何それ?」「フラ○イルのドラマでいた気が…」みたいな印象だろう。それもその筈。我々はあまり皆さんの前には現れず、手元に届く検査結果用紙が代わりに現れる。この傾向は特に検体検査担当者に多く、心電図や超音波検査などの生理機能検査担当は対面なのでそちらの方が存在感があるだろうし印象として残るかもしれない。だが健康診断にしろ体調不良にせよ病院に来れば皆さんは検査をするだろう。顔は見えずとも我々は常に皆さんと関わり合っているのだ。意思疎通のない無言の患者、体内を流れる血や尿などが我々の相手だ。彼らは何も言わないし訴えてもくれない。ただ彼らの仲介役である検査機器たちを介して数値やグラフなどで我々に提示するだけだ。しかし、得られた結果こそ真に患者の病態を示す「声なき訴え」だ。我々は得られた情報を解釈し判断しながら臨床へ返す。患者の病態を解明するうえで欠かすことのできない検査、その結果をもって医師にバトンをつなぐのが我々の役目であり医療における縁の下の力持ちである。
「小田さん、さっきから何一点を見つめながらブツブツ言ってるんですか?」
「おぉ⁉︎」
正面から上下に声を掛けられて我にかえる。
「ちょっと前振りを…」
「…?やる気がないにしては変ですよ?」
「いやいや大丈夫。あ、ところで上下ではなく緑ちゃんと呼んでいいかな?文面的に合わない所も出てきちゃうかもなんで」
「……新手のセクハラですか?怒りますよ?それとも訴えましょうか?」
上下はあまり冗談が通じないのだ(冗談ではないのだが…)。私はどうしたものか…と少しあたふたしていると—―
「まぁ、いいですけど」
「?」
上下はそっぽを向きながらそう呟いた。気のせいだろうか?その横顔に、一瞬広角が上がった様にみえたのは。
「ありがとう。じゃー改めて宜しくね。緑ちゃん」
「ちょっと気持ち悪いですね」
「それはそれで傷つく」
セクハラを免れ、見事名前呼びでこの先へ繋げる事が出来るようになった。が、心にダメージを負う事となった小田であった。
「いいさ。この先、私は主役ではないから。緑ちゃんはじめ皆んな、頼んだよ」
そう言って小田は仕事にもどるのだった。
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病院やクリニックの外来は午前中に患者が多く何処も慌ただしいし多少なりピリついている。
特に、よくドキュメンタリーやドラマで観るような救急医療現場では怒号が飛び交い、さながら戦場のような光景である。医師が、看護師が、1分1秒の判断で生死をふるいにかけ押し寄せる急患に対応している。
しかし、私たち臨床検査技師はその様な現場には殆どいないだろう。いたとしても「この検体すぐに持ってって至急で結果教えて!」と検体を手に走り、結果用紙を手に走り報告しているくらいだろう。だが、1分1秒の判断に欠かせない検査結果などを生業にしているのが私たちだ。
救急で来る患者はすでに、ある程度限界を超えてやって来ている。その感じ方は千差万別あるが少なくとも「なんかおかしい…」と思い来るはずだ。
そうではなく健康診断や定期検査、手術前検査など何気ない状態から、いつのまにか病魔が忍び、住み込んでいる兆候を検査結果から捉え判読し臨床へ報告するのもまた臨床検査技師の重要な役目でだと思っている。
ただ検査をして、測定結果が基準値範囲内、基準値を超えた異常値、直ちに連絡するパニック値、それらを臨床へ送る。こんなことは資格が無くとも出来るだろう。基準値から外れたら高い・低いのフラグが立つし、一覧表なんかがあれば見ながら電話連絡するなりすればいい。だが、そうではない。一人ひとりが持つ固有の基準値(私は個体値と呼ぶ)や経時的変動(こちらは個体変動)、主訴、画像検査(放射線領域)とあらゆる情報、それこそ臨床検査技師として検査の情報は可能な限り読み解き、理解した上で報告を行う。時には医師に報告する時に追加で必要そうな検査の提案も行い患者の診断に有用な情報を提供することが資格者としての仕事だと思っている。些細な点でも、時に人を急変させ、命を奪いかねない事態もあるのだ。
小田がふと自分の原点を思い出しながら仕事をしていると(たまに思い出すのは初心を忘れないためだ)
「うわ〜」と生化学検査の結果を見ながら唸る声が聞こえた。
施設にもよるが、ここの検査課は数十人居て少人数でそれぞれの部門に配置されている。一部屋に必要な機器がそこここに入っているためそこまで狭い空間ではないのだが機器から発せられる音も相まって窮屈に感じるかもしれない。狭い所が好きな人間には居心地が良かったりもするのだが…。
…さて、そんな狭い空間だからこそあちらこちらで思い思いに仕事し話したりしていると小声でも割と話しは聞こえたりする。カクテルパーティー効果も容易に使いやすい広さでもあるので使い方次第では良い方向にも悪い方向にも使えるだろう。そんな空間で聞こえてきた声は緑のものだった。
「どしたの?」小田は近づきながら言った。
「この方の結果を見て下さいよ〜」
緑が指差す患者の結果を見た。健診にやって来た56歳の男性で、画面には生化学の結果が映し出されていた。
「TG(トリグリセライド:中性脂肪)が355mg/dlでTP(トータルプロテイン:総蛋白)が9.9g/dlとかもう体型が想像出来ますよ」
受診者の結果をみて呆れた様子でありながら笑う緑はマウスのホイールボタンをコロコロしながらパソコンに映し出されているその人の結果を上下に眺めていた。
「小田さんは筋トレしてるからこうゆう数字は出ないと思いますが、気を付けないとぶくぶくになっていきますよ」とからかいながら言おうとした緑は小田の検査結果を見る目つきが変わっていたのに気付いた。
「ちと気になるな」
そう言いながら小田は生化学以外の検査結果も照会し始めた。
「血液検査は特に何もない…LD(乳酸脱水素酵素)も基準値範囲内。だけどTP9.9mg/dlでアルブミン3.3mg/dlは乖離があり過ぎる、そしてCaが12.0mg/dlと高め、とすると…」と言うと今度はCT検査の画像を見始め「やはり…」と呟く。
「何があるんですか?」
「この脊椎、黒く丸く抜けた様に映るもの、もしかしたらパンチドアウト(骨の打ち抜き像)ではないだろうか。聞いたことあるでしょう?」
「あ…あ~」
緑は学生時代に習って来た中で何度か過去問題などで見かけた単語ではあるが深く学ぶ様なことはなかった。
そもそも臨床検査技師を目指すとなれば各種分野の教科書を合わせ数十冊を用いて3〜4年学ぶのに要所をまとめ覚えるのが必死で深くは勉強していない、いや、出来ない事が多い。それが出来る人間は地頭が良く余裕のある人だけ。たいてい各学校に1人はそれが成せる人がいるのだ。同じ学校で同じクラスに全国模試1位がいたが、もう頭どうなってんの?と勉強方法や自分の能力不足より脳の作りが気になったのを覚えている。しかし、天才もいるがやはり結局は努力である。そいつは朝早くから学校で勉強をし、教員が帰るのと同じ時間まで勉強し、帰宅してからも勉強をしていた。誰かと比べるではなく、自分とどれだけ向き合ってきたが全てであり常に自分を超えていくことが結果患者に繋がるのだろう。
「ともすれば、今ある所見からパッと思いつく疾患は何んだね、緑君?」
「多発性骨髄腫です」
「ほぅ。よくすぐ出てくるね」
「まだ2年目ですからね…」
—―そう、まだ2年目なんだ。
緑は自分に言い聞かせる様につぶやいたが、知識と現場でのリアルは重みが違った。
どの専門職の新人もそうだと思うのだが、学生時代の卒業したてで過ごす最初の頃はなまじ基礎知識はかなりある。が、やはりいざ現場で働いていると知識はただ知識。それらを活かす術を身につけなければ意味をなさない。また、知識もいつまでも脳内保存されるわけもなく日に日に失っていく。一生勉強していく道だが、積み重ねた知識と技術は必ず繋がり合い、結果、判読の大きな力になると思っている。
だが、臨床検査技師とて、間接的ではあるが人の命に関わる仕事である以上、見逃したり重大なミスをすれば人の死に繋がる。患者やその家族には命が平等である以上は新人もベテランも関係はないのだ。
俯く緑に小田が「ま、まだ確かな所見ではないし。他にも併せて検査してみないと確かなことは判らないからひとまず連らく…」と言い終える前に緑が立ち上がる。
「まだ院内にいるかもしれなので健診センターに行って受診者を引き止めてもらいながら担当医に説明して来ます!」
「へぇ⁉︎あ、ちょっ」
緑の突発的な対応に柄にもない声を上げ、それが測定機器の唸り声にも掻き消される事なく課内に響いたので他のスタッフが何事かと視線が注がれ小田は顔が火照ったのを感じた。そして1人の男が近づいて来た。
「小田、どうした?」
そう言いながらやって来たのは技師長の松澤 明太。背が高く、横にもやや広いので圧力がある。私と面接をした時には「お前は俺に似てる。……でも、だから合わないんだよな」と言った。普通、そんなこと聞いたら「あ、落ちた」と思うだろう。それなのに続けて言ったのが「あと2人面接に来る予定なんだけど俺は君に決めたよ」だ。もうよくわからなかったが面接の帰り道、風が妙に清々しかったのを覚えている。
「やる気に満ち溢れた若者の波動を喰らいまして」
「上下君はうちの期待の星だからね。で、追いかけないの?」
「わかってますよ。ちょっと流れ星追いかけて来ます」
夜空に駆ける流れ星を追いかけたら願いが叶うだろうか?目の前で消えた流れ星を追いかけて見つけ出し、それを前に願い事を言えばどんな願いも…いくらでも叶うのだろうか…。心の中で、遠く、馳せるように思いながら走って健診センターへと向かった。
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緑は小走りで健診センターへやって来た。
健診センターは同じ敷地内で別館にあるが当院2階のガラス張りの連絡通路でつながっている。どの施設も健診センターはわりと綺麗なレイアウトがなされていてラウンジがあったりちょっとしたドリンクバーに雑誌と雰囲気も病院らしさを感じさせない漫喫の様な仕様の所が多い。こちらの健診センターは1階がフィットネスジムになっていて生活習慣病外来に掛かられた患者さんに勧めて会員となってもうことで利用できる。健診センターへ来る方は“患者”ではなく利用者、つまり“お客様”になる。接客業についての講習会や研修があるところはあるのだろう。個人的な見解だが臨床検査技師は内向的な人間が多く採血などの検体相手の仕事なら必要以上に人と関わらなくていいと思い選ぶ人も中にはいる。だが現実として現場では多くの場面で人と関わる事になるのが常だ。根本的に関わらず、黙々と仕事がしたいならやはり研究施設や検査請負の会社がいいのだろう。
そんな外来や病棟より落ち着いた雰囲気の場所へ来るや受付の中から事務室へ入った。
他部署の人間が慌てた様子で来たものだから健診にいるスタッフは軽くどよめく。そんな中、緑が1番手前にいた看護師をみるや声をかけた。
「あの、今日こちらで受診した方で犬崎さんという方がいて…その、検査結果についてお話ししたいことがあるのですが、先生はいらっしゃいますか?」
「犬崎さん?」とその看護師、本間看護師は今日の受診者リストを確認するためパソコンの受付画面を開いて確認した。
「たしか1日ドックの方だったかしら。苗字に犬が付くからドックにちなんで覚えているわ。先生は今診察中だからあとで伝えておくけど?」
「あ、いや、緊急を要して直接伝えたいので…診察室はあちらですか?」と緑は押し切る様に言ったのだがまだ新人ぽさがあるせいかその態度が少々本間の癇に障ったのか表情が険しい。
「緊急って、今すぐ命に関わるの?今のところ犬崎さんを含めそんな様子の利用者さんは1人もいないのだけれど?それに犬崎さんならさっきリラクゼーションルームで座ってコーヒー飲みながら雑誌読んでたけど…」
それを聞くと同時に飛び出し、リラクゼーションルームで犬崎さんと声をあげ振り向いた人を確認するなり緑は近寄って声を掛けた。
「犬崎さんですか?」
犬崎は雑誌から目を離し「はい」と軽く返事した後、「そうですが…」と答えた。本人確認ができたところで緑が質問する。
「犬崎さん、最近、もしくは今吐き気や頭痛など何かしら気になる症状はないでしょうか?」
「あ〜いや別。歳のせいか肩は痛いけどどうして?最初に色々問診票には記入したけど。何か変なとこあるの?」
と、そこへ先ほどの本間が割って入り「犬崎さん、お休みのところ申し訳ありません。この後先生の診察がありますので今暫くお待ちになっていて下さい」そう言うと緑にこちらへ来る様にいいそばを離れた。
「あなた、どうゆうつもり!利用者を不安にさせてどうするの!」
「いや、もしかしたら大きな病気が隠れているかもしれないので」
「だからと言ってあなたがすることではないでしょう!」
「ですが、急がないといけないかもしれなくて」
そんな言い合いをしているところへ小田がやってきた。
「本間さん、申し訳ありません。うちのが先走ってしまいまして」
「小田さん!ちゃんと見てあげなくてはだめじゃないですか!困りますよ」
本間はそう言うなり怒りながら事務室へ帰っていった。おそらく事務室でいまの出来事を騒ぎたてているのだろうと思うと気が重い。
「小田さん、早く犬崎さんの事を知らせないと」と緑は落ち着きなく言った。
「とりあえず、いったん検査室へ戻ろうか。ここは利用者さん方が静かにくつろぐ場であるからあまり騒がずゆっくりさせてあげたいし」
「小田さんまで悠長に!いいです。私一人で言いに行きますから」
緑は、思わず声を荒げ診察室へ向かおうとする。
自分で所見と疾患名まで示唆しておきながら、動こうとしない小田に、苛立ちが込み上げる。
だが――。
「……戻るよ」
低く、鋭く、刺すような声が返ってきた。
その瞬間、足を止め、緑は思わず息を呑んだ。
視線を合わせたわけでもないのに、冷たい視線を背に感じた。
(……こわ)
小田は、普段はどこか気が抜けていて、やる気もなく、のらりくらりと流してばかり。
けれど時折、暗闇から目を光らせるように、鋭く、冷ややかに言葉を発することがある。
それは、理屈ではない「現場の重み」を突きつけてくるような――そんな言い方だ。
緑の胸の奥に熱く灯っていた怒りが、ふっと冷めていくのを感じた。
「……はい」
静かに頷いて、小田の後ろを歩き出す。
白衣の背中を見つめながら、緑は少しだけ肩を落とした。
(なんなんだろう、この人……)
言葉にはしないまま、その背中に問いかけるようにして、二人は検査室へと戻っていった。
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検査室に戻るとスタッフの一人が緑に声をかけた。
「緑ちゃんいきなり飛び出しって行ったからどうしたのかと思ったよ」
「すみません、吉恵さん」
吉恵 里奈、生理機能検査を担当している。緑より先輩のお姉さんであり、緑と同じく真面目…いや、自分を曲げない頑固者だ。緑と組まれると少々厄介であるが、仕事はきっちりし、言うことは言うやつだ。
「小田くん、緑ちゃんのやる気を削ぐようなこと言って迷惑かけてないでしょうね?」
「いやだな~吉恵さん。私はこんなにちゃんとやってるじゃないか。今だって後輩を追いかけて健診までダッシュよ?」
「病院でそんなに早く走ったらあぶないじゃない」
「はい、すみません」
吉恵は小田より年下だが塩八病院の勤続年数は吉恵の方が長い。かといって上下関係がどうという事もない。吉恵とのやり取りも半分冗談混じりで互いにやっているだけだが、たまに意見が食い違うとムキになり言い合うこともある。
「あ、すみません吉恵さん、私もかなり走ってしまいました」
「緑ちゃんはいいの。前向きな行動だったんだから仕方ないのよ」
「その前向きに遅れないように追いかけた私は…」
「小田くんの弁明は聞かない」
「そうです。小田さんはだめです」
「得心ゆかぬ…」
緑と吉恵は仲が良く、小田はこうして二人からなじられる。だが、上下関係など気にせず話せる空気はとても大切だ。
「それより緑ちゃん、勇む気持ちはわかるけどあの場で利用者さんにアナムネみたいなことしてはダメだ」アナムネとは問診をとるという事だ。
「犬崎さんに重大な疾患が隠れているかもしれないんですから早く何とかしなきゃじゃないですか」
「我々の仕事は診断ではなく気づきと適切な報告だ。なら、担当医師へ連絡すればいいだろう?」
「それは…」緑が言葉に詰まる。
「緑ちゃん、今回は小田くんの言う通り。それにみんなの前で色々いわれたらその犬崎さんも戸惑うしプライバシーもある。他の利用者さんも何かあったのかと動揺してしまうかもしれないわ」
冷静になってきたのか、緑は素直に頭を下げた。
「すみませんでした」
「ま、次に同じことをしなければいいのよ。緑ちゃんはまだいくらでも転べるんだから。今のうちにたくさん転んで、うまい転び方を覚えなさい。そして、ちゃんと立ち上がるの」
少し笑って、吉恵は続けた。
「私たちみたいに歳を重ねると、だんだん転べなくなるからさ」
ミスを恐れていては成長はできない。むしろミスは、挑戦した証。
逆にミスがないというのは、本当に正しくできているのか、それとも挑戦を避けているだけなのか――。
行動を見ていれば、それはよく分かる。
「では、ひとまず健診の長井先生に報告だな。今回は私からしておくよ」
そう言うなり小田はPHSを取り電話を掛けた。報告する内容は先ほどの所見を伝え、外来への受診と併せて追加検査の提案としてIg系(免疫グロブリン)の測定や免疫電気泳動を伝えてから電話を切った。
「とりあえず我々の役目はここまでかな。あとは様子を見ようじゃないか」
そう言って、彼は再び自分の持ち場――生化学の検査台の前に座った。
「…さて」
緑には軽くあしらうように言っていたが、小田は犬崎の検査結果を一つひとつ丁寧に洗い直し始めた。
問診の内容、検査データ、そのすべてからにじむ、わずかな“違和感”。
小田は、検査結果の読解だけでなく、そこに潜む説明しがたい「引っかかり」を嗅ぎ取る感覚に長けていた。
昔読んだ漫画の主人公――「アンサートーカー」という異能の持ち主に憧れた少年時代。
その憧れはやがて、“フェルミ推定”という現実的な思考法を通じて、自分の中に根づいた。
推論と直感。
その狭間にある「気配」を見逃さないこと。それが小田のスタイルだった。
そして、小田は再びPHSに手を伸ばした――。
””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
数日後の昼下がりに1台の救急車で患者が運ばれた。それは犬崎さんだった。
院内で使用するシステムには様々な機能があり職種によって中身がカスタマイズされていたり自分で使いやすいように並べたりとそれぞれだ。その中に来院患者が何処に何をしに来たのかわかるようなものがある。そこに犬崎さんが上がっていたのだ。
緑はこの前のことが気になり検査オーダーは何かと確認したがレントゲンだけであった。
「あれ?肩のレントゲンだけだ。カルテは…ジョギング中に受傷した右肩の痛みを訴えているか。よかった、この前とは関係ない感じだ」。ほっとしたが、やはり気になったので救急外来へ行ってみることにした。
救急外来から呻き声がする。
「痛い、あ、あんまり動かさないでもらえ、痛っ!」
「犬崎さん、院内のベットへ移るんで我慢して下さい。みなさんいきますよ、1・2・3!」
看護師の掛け声と同時に救急隊員の方と息を併せて犬崎さんがベットへ移された。
その瞬間――
「ぐあぁっ……!あああああっ!」
同時に激痛が襲い歯を食いしばりながら叫ばんとする声が響いた。
緑は不思議に思った。ジョギングでどんな受傷のしかたをすればあそこまでなるのか?
「あの、犬崎さんはジョギングで何があったんですか?」目の前を通り過ぎていく看護師に聞いた。
「いま来たヒトはジョギングしてて、坂道ダッシュをしようとしたら肩に激痛が出て体動困難で救急要請したみたい」とさらっといいながら患者対応へ向かった。
坂道ダッシュで激痛?そんなことあるのかな?不思議に思いながらも緑は検査室へ戻ることにした。
「そうだ、小田さんに教えてあげよう」
検査室内で小田を探すが見当たらない。吉恵がいたので聞くと少し出てくると言いどこかへ行ったらしい。
「なんか、すこしピリついて出ていったけどなんかあったのかな?」
緑はこの前の事を思い出し不穏な予感を抱いた。
「私もちょっと出てきます!」言いながら検査室を飛び出していく。「まさか…」
ふと、廊下の一角で小田を見つけた。そこには長井先生も居た。会話が聞こえる。
「先生、私はあの日、再三お伝えしました。所見の他に、IgGが著しく高値でした。血液疾患の疑いが濃厚で、早急に総合診断科への受診が必要だと、はっきり」
「受診者が希望しなかった。それに、IgGは君が勝手に測定したんじゃないのか?余計なことはするな!」
小田の声は冷静だが、鋭く覇気を帯びていた。
「余計なこと、ですか。……病気が見えそうな時、私はいくらでも検査します。検査を通じて得られる情報を最大限に活かし、患者の病態を読み解く。そして、病に近づくための提案をする。それが私の――究明(救命)です」
長井は一瞬たじろいだが、立場を盾に返す。
「たかが技師が出しゃばるな。君らは医師の指示に従って働くのが本来の役割だ。医師の判断が絶対だろう!」
小田はわずかに目を細め、静かに、しかし明確に言い返した。
「医者が絶対――ですか。……ですが、診断に“絶対”はありません」
その低く抑えた声に、怒りでも反発でもない、確かな覚悟がこもっていた。
まっすぐに放たれた視線が、長井を射抜くように突き刺さる。
「ほぼすべての病は、“その可能性が一番高い”という推論のもとに治療が始まり、うまくいけば治る。それは、数え切れない臨床の積み重ね——つまり、エビデンスの蓄積でしかない。100%なんて、最初からありはしない」
小田は、右手に持っていたタブレットの画面を長井に向けた。
「だからこそ、その不確かさを少しでも確かなものにするために、検査があるんです。医師の指示は尊重します。ですが、検査においては、私たち臨床検査技師の領分です」
声を荒げるでもなく、しかし胸の奥で燃えるような炎を感じさせる言葉。小田の矜持が、空気を張り詰めさせていた。長井はその気迫に思わず言葉を飲み込む。
「こちら、先ほど運ばれた犬崎さんのCTです。肩の痛みを訴えておられましたが……これをご覧ください」
長井が画面を覗き込んだ瞬間、目を見開いた。
犬崎の肩の骨は、まるで蜂の巣のようにスカスカだった。骨髄腫による溶骨性病変。何かの拍子に大きく腕を振れば——折れるのも時間の問題だった。
「こんな肩で、大きく動かせば……ポッキリいきますよ」
沈黙が走る中、長井がようやく口を開いた。
「私の……せいにする気か?」
「とんでもない。先ほども言いました。診断に絶対はありません。医師といえど、人間です」
長井が何かを言いかけたが、小田はかぶせるように静かに言葉を続けた。
「ただ、私は報告をしました。そして忠告もした。その結果がこれです」
小田は、視線を長井から逸らさなかった。
「それで、今までの言われようは……どうにも釈然としませんね」
白基調の廊下に沈黙が満ち、どこか神聖な場に思える。その中で、緑は、遠く小田を見ていた。
——この人は、やっぱり適当な人じゃない。
緑の胸の奥で、何かが確かに動いていた。
長井は黙ったまま視線を落とし、タブレットに映る画像を見つめていた。沈黙のあと、小田はひとつ会釈をすると、踵をかえし静かにその場を離れた。
検査室へ戻ると、そこにはすでに戻っていた 緑と吉恵がいた。吉恵は、検体分注を終えたばかりのようで、冷蔵庫の扉を閉める音が響いた。
「……戻ったんですね、小田さん」
緑がそっと声をかける。何かを言いたそうな顔だったが、小田はいつもと変わらぬ調子だ。
「ちょっと用事がね。ついでに散歩さ」
それ以上は語らない。その姿勢に、緑はしばし言葉を選ぶように黙っていた。
吉恵がそれに気づいて、あえて軽く話を振る。
「犬崎さん、血液内科の病院に紹介になったそうよ。さっき、医事課の人が言ってた」
「……そうですか」
緑の声には安堵が混じっていた。しかし、もう少し早く判ってたのにと、やり切れない。
小田は、黙って見ていた。
自分はこの若い検査技師のように、まっすぐではいられない。だが——
自分なりのやり方で、少しでも誰かの命に関われるなら、それでいい。
言葉ではなく、黙って支える。それが自分のやり方だ。
「緑ちゃん」
「はい?」
「検査の仕事ってのは、目に見えない“兆し”を見つける仕事だ。派手じゃない。でも、誰かが見つけなきゃいけない。そこに医師であることは関係ない」
緑は小さく頷いた。
「私、もっと勉強します。もっと、見えるようになりたいです」
小田は背中を向けながら、小さく笑った。
「……じゃあ、まずはあそこに溜まってる検体処理からだな。」
「小田くんがなかなか戻らないからでしょう?責任もってやってね」
「え、私ひとりでか?いや~どうしても外せない用だったんだから手伝ってよ?ね、緑ちゃん」
「勝手に出ていったんだから知りません。がんばってください」
「殺生な……」
緑と吉恵の笑い声が、検査室に柔らかく響いた。
検査室の奥で回る遠心分離機の音が、静かに日常へと戻る時間を告げていた
だが、その日常の裏には、確かに誰かの命をつなぐための“究明”があった。
—―犬崎さんは、その日の夕方、血液内科がある病院へと転院していった。