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ペラルゴニウムの返礼

作者: 針山さん

老夫婦の楽しみはただ一つ。温室の花達を見守ることである



☆☆☆☆☆☆☆



 カーテンの隙間から朝日が差し込んできた時、エドガー・サーリマンは目覚ましよりも早く起き上がった。



 凍りついた肉をほぐすように、ベッドの上で固まった老体を弛緩させ、その場で深呼吸をする。ふとベッドの横を見て、エドガーは自分が眠気に耐えきれず、仮眠を取ろうとしてそのまま寝入ってしまっていたことに気づく。昨夜の作業が半端なまま残っていた。隠すように机にシーツをかけると、廊下へと続く扉を開ける。



 耳を澄ましても、階段の下から物音は聞こえない。妻のメアリ・サーリマンが病床に伏せてから一年近く、一階で生活音を立てるのはエドガー一人だけだった。



 隣の部屋へ顔を覗かせる。



「おーい、今朝の調子はどうだね。何か食べるかい?」



 ベッドの上で毛布に包まっていたメアリは、口を開くのも億劫という風に、虫を追い払うかのように手を振った。そっと扉を閉じると、エドガーは静かに一階へと降りていく。



 硬くなりかけたパンと、冷えたままの牛乳を出して、惰性で咀嚼し飲み込むと、エドガーは寝巻き姿のまま庭へ出て、敷地の半分以上を占領している温室の中へと入っていった。



 扉を開けると、熱帯地域とかいう風土に似せて調整された気温と湿度が、肌寒さを感じていたエドガーの体を舐めるように包み込んでいく。



 外装と同じビニール製の扉を挟んで、右側に花壇が、左側と正面奥には、植木鉢を置くための三段式の棚がある。



 棚の一番上は日差しをもろに受ける為、定期的に植木鉢を段ごとに下へずらし、一番下の鉢を最上段へ置き直す。



 指で軽く花弁に触れ、特に変化がないことを確認する。手つきには世話をする者特有の義務感と、新雪を手のひらに乗せるような慎重さが、そしてシワと白髪に包まれた顔には、世話を楽しみ、慈しむ癒された表情が見えていた。



 そのまま奥の棚にも手を伸ばし、同じように鉢を入れ替える。そして霧吹きで一つ一つの鉢へ、土を湿らすよう丁寧に水をやった。



 いくつかの鉢や花壇に肥料を蒔くと、それだけでは不安なのか、軽く土と混ぜ、より根の近くに肥料が行き渡るようにした。



 もうすぐ春が来る。だが温室の中なら、虫が出ることはないだろう。エドガーは季節外れの汗を拭いながら、透明な天井から降り注ぐ太陽を、目を細めて見つめた。



★☆☆☆☆☆☆



 エドガーは、花が嫌いだった



 元々大して意識したことが無いのに加えて、この数年で突如発症した重度の花粉症が、より彼にとっての草花を忌々しいものへと変えていた。



 だからメアリが庭でガーデニングをしたいと言い出した時、珍しく、エドガーは力強い反対の意を示した。



 だが彼女は憮然とした表情で、



「別にいいじゃありませんか。貴方が大好きな仕事の合間にペンチや接着剤片手に口笛を吹きながら休憩している間、私は貴方が昨夜脱ぎ捨てたシャツや靴下やパンツを集めて洗っています。


 貴方が街の美味しいレストランで昼食を頂いてる頃、私は昨日の残りの固いパンを、肉の欠片と野菜の切れ端しか浮いてないようなスープに浸してモソモソとリスみたいに齧っています。


 貴方は一度でも、私が貴方より先に眠っているところを見たことがありますか? 


 一度でも、私より先に目を覚ましたことがありますか?


 五十年間身を粉にして働いた妻のたった一つの我儘すら聞けないというのですか」



 と、五十年の中で幾度となく使った文句を口にし、まくしたてるような口調の速さで、エドガーを黙らせた。



 かくして、花壇といくつかの植木鉢が置かれ、小さく、鮮やかな花が、サーリマン家の決して大きくない庭を彩った。



 その時点から、エドガーは庭に顔を出したがらなくなった。



★★☆☆☆☆☆



 着替えを終えて、家の中を箒にかける。朝の支度を終えると、二階へ炙ったパンと、温かいスープを持って上がる。扉をノックし、開けると、メアリはベッドの上で起き上がり、窓から温室を見おろしていた。



 しかめられている顔に刻まれた皴は、寝たきりになってから一層深くなっており、同じ歳のはずなのに、エドガーよりもずっと老けて見えた



「調子はどうだい」



「いつも通りですよ。お医者様はゆっくり養生するように言いますけどね、代り映えのしない景色を見続けて体調が良くなるものですか」



 不機嫌さを隠そうともしないメアリの言葉には反応せず、机の上に食事を置く。



「それじゃあ、今日も早めに戻ってくるからね」



「そうあって欲しいですね。貴方がいなくなっては、私とあの花たちは飢え死にしてしまいます。趣味に身を割くのは結構ですが、伴侶のことも少しは気遣ってもらいたいものですね。景色の変わらぬ退屈をぼやいた瞬間に、目の前で自分は家の外へ出てきます、などと……」



 慣れたものだったが、メアリの言葉はやはり、エドガーの機嫌を急降下させた。溜息をついて部屋を出る。外套を羽織り、「行ってくるよ」と大声で伝えるが、返事はなかった。いつものことだ。妻にとって、エドガーの言葉はどれも聞き飽きたものばかりで、返事をする気すら起こせないらしい。



 玄関を出たところで、並木道の木々が風に揺れるのが目に入る。春先の暖かさの混じった風に乗って、黄土色の花粉が舞い散るのを幻視したエドガーは、不快そうに目をしかめ、マスクを着けて仕事先へ向かった。自宅から数キロ離れた先にある小物店は、エドガーの趣味が高じて始めたものだった。



 毎月かかる費用は趣味にしては少し高い程度だが、それでも若いころの貯えで、二人を食わせるには充分な余裕があるはずだった。



 だがメアリはそれでも気に食わないらしく、何かにつけて嫌味を言ってくる。店内を掃除している間も、彼女の言葉を思い出すと、苛立ちにため息が出てきた。



 私の趣味がダメなのなら、お前のガーデニングはどうなんだ。それも最近では私が世話をしてばかりで、お前はただ二階から見ているだけじゃないか。詰め寄りたくなったことは一度や二度ではない。



 マスク姿のまま、一晩の間に商品に降った埃を刷毛で払いながら、妻に、メアリに愛情を感じなくなったのはいつからだったのだろうか、とエドガーは自問した。家を出る瞬間、温室に厳重に鍵をかけている間、店について明かりを点け、昨日の売り上げの帳簿をチェックしている時、最近はそんなふとした時に、妻に関する思考が頭の中をよぎった。



 結婚してから数十年、彼女を愛する努力はしてきたつもりだった。趣味が高じて始めた手作りの小物を売る店も、二人が食うには困らない程度には稼げていたし、温室や花壇だって、わざわざ休日を潰し、腰を錆びた機械のように軋ませながら頑張って作ってやった。



 その頃の感情はもう思い出せない。



 私はあの温室を作る時、彼女の笑顔を想像していただろうか。そんなものを、期待していたのだろうか。



★★★☆☆☆☆



 庭が花に彩られてから数日後、メアリは温室が欲しいと言い出した。その手には、いつの間に手に入れたのか、どこかの国の花畑を収録した写真集があった。聞けば、花屋の主人に、貴重な種と共に貰ったのだという。



「家を丸ごと覆えなどと言っているのではありません。庭のほんの少し、花壇と植木鉢を置いてあるあの辺りを包める程度でいいのです。


 南の島に咲いている花を見たことがあって? どれもとても大きく艶やかで、あんな爪の先にも劣るようなのとは比べるまでもありません。その種が手に入ったのだから、植えない手はないでしょう。貴方まさか、わざわざ遠いところからやってきた花に、碌な環境も用意せず、ただ土と水を与えるだけで終わるつもりではないでしょうね?


 えぇそうでしょうとも、貴方ならやりかねませんね。結婚して四十年、私に娯楽の一つも用意せず、ただ食事を与えるだけで家事をさせようとするような、冷たい貴方ですものね」



 かくして、サーリマン家の庭の半分を覆う、大きなビニールハウスが出来上がった。メアリの注文に応え、温度を亜熱帯のそれと似たものに再現できるようにした。中は冬でも半袖を余儀なくされるほどに熱がこもり、おまけに新入りの花々の大きな葉から放たれる水気が混ざって、むせ返るほどに蒸し暑かった。



 そんな場所に長く居座ることに身体が耐えられなかったのか、メアリはしばらくして病に伏せた。



 温室は二階の窓から眺めるばかりになり、中の植物たちの世話は、エドガーに任せきりになった。



 エドガーは毎朝毎晩、仕事に出かける前と、仕事から帰った時に温室に顔を出しては、植物一つ一つに霧吹きで水をやり、土に肥料を混ぜ、植木鉢は太陽に同じ場所ばかりが当たらぬよう、定期的に位置を入れ替えた。充実した環境ゆえか、エドガーの献身的な世話のおかげか、温室の中では花々は年中問わず綺麗に咲き続けた。



 エドガーはその間、ずっとずっとマスクとゴーグルをつけていた。



 彼の花粉症は、ますます悪化していった。



★★★★☆☆☆



 集中が出来ない。帳簿に書き入れていても、たまに来る客に対応していても、頭がぼんやりとする。



 まだ春になりかけだというのに街中を飛び交い始めた花粉は、解放している店のドアや窓から容赦なく入り込み、マスク越しでもお構いなしに、エドガーの目や鼻を通り抜けていく。


 いっそ眼球ごと引き抜いて桶に貯めた水で濯げたならと、幾度も馳せた妄想をなお繰り返しながら、エドガーは朝から圧し掛かる陰鬱で不快な思いと共にあった。



 春。


 そう、春が来る。



 エドガーにとって春という季節は歓迎できるものではなかった。白や黄色や薄紅色や、太陽の光をチカチカと強めるような明るい色とりどりの花が咲き誇っても、エドガーの目は花弁や木々が風に揺らめくたびに、そこから噴き出る黄と土が混ざった薄汚れた色の風を幻視する。



 それを全身に目一杯浴びでもしたらと思うと、今にも叫びだしたくなった。



 日差しが強いからか、朝の寒気と打って変わって、妙に暑い。


 毛糸のシャツの襟が首にチクチクと刺さり、苛立ちが募る。


 考えなくてはならないことは山積みなのに、呑気な風が運んで来る黄土色の花粉が、エドガーの邪魔をする。



 目が霞む。


 鼻が詰まる。ティッシュを取ろうとしたが、中身が空だった。



 目の前の景色が、緑と熱と花粉に囲まれた温室の中と重なった。店の奥からも、黄土色の風が吹き込んで来ている気がする。



 耐え切れず、店に準備中の札をかけると、エドガーはもどかし気に服を脱ぎ、シャワー室へと飛び込んだ。老体には毒な冷水のシャワーを頭から浴びながら、嗚咽のような叫び声を上げた。趣味に興じた店の中も、今のエドガーを落ち着かせてはくれない。



 日が暮れるより早く、エドガーは店を閉め、足早に帰路についた。



 家に戻ると、玄関ではなく庭へと向かい、飛び込むように温室に入り、扉を閉め、マスクを外して大きく呼吸をする。熱気と湿度の籠った空気だったが、それでもいつまでも吸っていたいと思えるほどに爽やかだった。



 息を落ち着かせ、いつものように水をやり、肥料を撒いた。目の前で咲き誇る大輪の花達を見ているうち、エドガーの心は穏やかに落ち着いていく。



「あぁ、私を癒してくれるのはお前達だけだ。愛おしい、まるでついぞ生まれることのなかった我が子のようじゃないか」



 花壇から伸びる、添え木代わりの柱。目をほころばせ、そこに巻き付く蔦植物の大きな花弁に優しく触れる。小さな水滴が皴の刻まれた指に吸い取られていく。



 それはまるで、エドガーの心に潤いを与えようとしているかのようだった。



★★★★★☆☆



 エドガーの花粉症は後天的なもので、五十歳を過ぎた辺りで突然発症した。



 今まで平気だったものが苦手になる。高齢になるにつれ何度も経験したことではあったが、食事とも運動とも違い、目を背けて関わるまいとしても、花粉は毎年春になると、逃げようとするエドガーをいたぶるように追い回し、苛んでいき、彼の心の安寧を蝕んだ。



 その頃の様子をメアリは間違いなく隣で見ていたはずだし、自身の苦悩、苦労を理解してくれていると思っていた。



 だが、彼女が病に伏せてから数ヶ月。エドガーに世話を任せることに対して、メアリから労いの言葉は一つもなかった。それどころか、常に自分の部屋の窓から温室を弄るエドガーを見下ろして、少しでも世話の仕方に不足があれば、ネチネチと文句を浴びせたのだった。エドガーは、中から見張られる生活を強いられていた。



 ある日、彼女に限界を訴えたことがあったが、



「花粉症? 馬鹿なことを……こんな老体が歩くだけで軋むような古い家に住んで平気な鈍い人が、花粉ごときに翻弄されるなんて情けない。人間、苦手意識を持ち続けたら身体がそれに引っ張られるものです。


 逆に草花を友達だと思いなさい。知っていますか? 花は甲斐甲斐しく世話をしてやれば、その相手のためにより美しい花を咲かせるそうです。それを見れば、その情けない苦手意識も無くなることでしょう。そうすればほら、私のように平然としていられます。


 そうですとも、病人が平気なのに、健康な貴方に害があるはずもないでしょう。貴方は一度でも、私がだらしなく鼻水を垂らしているところを見たことがありますか? 今の貴方のように……あぁ汚らしい。ティッシュはちゃんと自分の部屋に捨ててくださいね」



 取り付く島もない。



 汗を搾り取ろうとしてくる熱気の中、ゴーグルとマスクで顔を覆い、かゆい目をこじ開け、目を刺すような暖色まみれの花々を手入れしていく。



 害虫、肥料、水、日光、剪定……エドガーを苦しめるだけのもの達に、エドガーの訴えを理解しようとしない人のために必死に媚びを売るのは、いよいよ限界だった。



「私が長くいる場所が、私を受け入れない道理があってなるものか」



 彼は、メアリの窓からは死角となる一か所を、自分が落ち着けるよう改造した。



 ちょっとした仕返しのつもりだったが、それは予想以上に彼の心に安寧を与えた。彼を攻め立てず、受け入れてくれるほんの一画。久々に味わう安らぎは、それ以外が与えてくる不条理に対する怒りと諦観を、より顕著にエドガーに感じさせた。まだ足りない、乾いた土が水を求めるように、エドガーは飢えた。



 その日から、夜の睡眠時間や、昼間の休憩時間を削り始め、メアリのためではなく、自分自身のために、温室に出入りするようになった。



 温室が、彼の唯一の憩いの場となった瞬間だった。



★★★★★★☆



 ある朝、エドガーは、いつものように起きると、鼻歌交じりに温室の中で世話に勤しんでいた。



 ふと、



「……はて、なんだ?」



 視界に妙なものが目に入った気がした。花と葉に包まれた花壇の中、その奥に、見覚えのないものがある。茎を折らぬよう気を付けながら手でどけると、そこには小さな蕾があった。



 葉の形には見覚えがある。花壇にあるものと同じ緩やかな三つ葉型。蕾の先端から洩れている薄紅色の花弁も一致している。



 エドガーは、不審そうに目を潜ませた。



「……蕾? 馬鹿な……」



 記憶をたどるが、やはり覚えがない。エドガーは気味悪そうに手を伸ばし、蕾を携えた茎を土から引き抜くと、隅に置かれたゴミ袋へと放り捨てた。



 それから念のため手を洗い、朝食を用意して、メアリの所へ食事を運びに行く。その間も、蕾のことをずっと考え、不気味な言い知れない不安で心臓を高鳴らせていた。



「今日の食事も随分と遅いですね。花の世話をしていただけるのは結構ですが、私より花を優先されるのは、それはそれで不愉快です。それとも、私のようなおいぼれより、瑞々しい花の世話の方が楽しいですか?


  まぁ確かに、町娘にうつつを抜かすよりはマシでしょうけどね。それと、一階の掃除はちゃんとしていますか? 箒を振るう音が以前より煩雑になったように聞こえますが。家の掃除も貴方がやるよりほかないのだという事は、ちゃんと理解していますね?」



 だが、メアリの不機嫌な嫌味が始まると、それらはすぐに、彼女への不満や苛立ちで掻き消されてしまった。どれもこれもお前のためにやっていることなのに、礼の一つもないのか、と。



 その日の晩。



 今朝目にした蕾のことが頭の隅に引っかかったまま仕事から戻ると、温室の明かりが点いているのが外から見えた。



 はて、消し忘れたかなと、首を傾げ、覗き込むと、中にはメアリがいた。温室の中心でフラフラと立っている。明らかに具合が悪そうだが、それ以上に怒りと戸惑いを湛えた目で、こちらを睨みつけていた。緊張か、鼻が少しかゆい。



「どうしたんだい、まだ安静にしていなくちゃ」



「たまには、私が掃除をしてあげようと思ったのです。ついでに、私の温室の中もと」



 絞り出すような声は、混乱しているようにも聞こえた。



「これは、なんですか」



「メアリ、この温室は、もう君のものではないよ」



「これは何だと訊いているのです!」



 メアリの細い腕が花壇を指さす。癇癪染みた怒り方をするところを見るのは初めてだった。



「わ、私は、貴方なら心配いらないだろうと、信用していたから温室を任せたのです! それを、よくも……!」



 その言葉に感じるところは何もなかった。信用していた、と言われて、誰があれらの言葉を許せようか。「たまには掃除をしてあげよう」? 何故自分が恩に着せられねばならないのだ。



「お前が悪いのだろう。お前が、私の献身を、愛情を、理解しようとしないから……!」



 メアリがギョッとした様子でエドガーを見た。メアリの身体を突き飛ばす。抵抗しようともがく彼女を、無理矢理外へと引っ張り出した。



「出ていけ! お前などもう知るものか!」



 病に侵された老体はとても軽く、突き飛ばせばあっけなく、外のアスファルトの上に転がった。目に溜まった涙をこぼしながら鍵を閉め、温室へ向き直る。たくさんの花達を愛おし気に見つめる。



「あんな奴はもう知らない。私はお前達さえいればいいんだ、お前達さえ……」



しゃがみ込み、花弁を指でなぞった時、目から涙がこぼれた。

涙。彼女を突き飛ばした後悔か。違う。涙だけではない。



「な、なんだ、なんで……?」



 覚えのある症状だった。鼻がかゆい。くしゃみが止まらない。それどころか咳まで出てくる。思わず咳き込んだ拍子、バランスを崩して身体が崩れ落ちる。腰を打ち、立ち上がれない。



 もがくエドガーの視線の先に、花壇が見えた。その先には、摘み取ったはずの蕾がある。それも一つではなく、いくつも、いくつも。花々の間から顔を覗かせて、エドガーの方を向いていた。



「馬鹿な、馬鹿な! そんな、そんなはず……何故だ、お前達まで……!」



 声はすぐに出なくなる。痰が、鼻水が絡む。息が出来ない。這いずり逃げることもままならない。



 花弁は一斉にゆっくりと開き、大輪の花を、繊毛を湛えた力強いおしべとめしべをエドガーに見せつける。そしてそれらからこぼれ出るように、黄土色の風が、ゆっくりとエドガーへと迫り……―――。






★★★★★★★




 温室には、警察が集まっていた。鑑識が写真を撮っており、二人の刑事が中を見物していた。



「いやはや、話には聞いていたが、すごいな……」



「えぇ、本当に……これ、全部造花ですよ。一体どれだけ時間をかけて作ったんだか」



 温室の中にある花は、どれも作り物だった。


 花弁も、葉も、茎も、蔦も、植木鉢の中の土すらも、全て、全て。



「メアリ夫人の様子は?」



「まだ立ち直れないみたいで、話を聞けるのは先になりそうですね。夫が死んだのと、直前に拒絶されたのがよほどショックだったみたいです。死因が重度の花粉症の発作による呼吸不全だった……というのも、拍車をかけているみたいですよ」



「そうか……まぁ、愛だの献身だのを懸命にやっても、自分が望む形で帰ってくるとは限らんものだからな……しかしなんで、こんな作り物だけの温室の中で、花粉症なんかが起きたんだ?」



「さぁ……でも本当によく出来ていますよ。ほらこれとか」



 若い刑事が、花壇に咲いている薄紅色の花を指さした。



「花って、自分を大事にしてくれた人に恩返しをしようとして、目一杯綺麗な花を咲かせるんですって。この花も、よっぽど大事に育ててもらったんでしょうね」




 まぁ、作り物なんですけど。刑事は笑いながら、花弁を軽くつついた。




 つつかれた花は、作り物の土の上で、薄布で出来た花弁を誇らしげに揺らした。

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