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麝香豌豆の香る宮廷―― 王妃のお気に入り

 午後。

 ハイドパークに面して建つアレクサンドラ・ホテルの正面玄関に、二台の豪華な馬車が停まった。馬車の扉には王室の紋章が入っている。


『王室の馬車が出迎えるとは、こりゃ破格だな』

 斎門の右眼がしゃべる。

 穂波は、大礼服に身を包んだ内藤博文と共に、馬車に乗りこんだ。もう一台には、同じく大礼服姿の暮林公使が乗りこみ、後に続く。


 粉雪がちらちらと舞いはじめる。

 数時間前にスイートの一室で起きたことを斎門に報告すべきか否か、穂波は迷っていた。


 悪魔に(あんなこと……!)報告したくは、ない。とはいえ、非常事態だという気もしていた。危うい展開が予想される。透明であるはずの自分の体が見えたということは、斎門の術を無効化できるほどの力を持つ魔の者が、興味を示してきたことを意味する。


 し、る、し、と言ったあと、クリケットは微笑みながら退散した。「またね」という囁き声とともに。

 クリケットが消えると状態は復元された。穂波の体はまた透明に戻った。


 やはり、この一件は斎門の耳に入れておくべきか――などと考えていると、馬車が目的地に着いてしまった。


 ペル・メルのセント・ジェームス宮殿に隣接するマールバラ・ハウスは、こぢんまりした建物だった。王室の私邸の一つらしい。大礼服姿のランズエンド卿が、内藤博文と暮林公使を出迎える。


 質素といってもいいその居館でアルバート七世による謁見がなされたのは、後になって振り返ってみれば、絶妙とも思えた。

 謁見に用意された部屋には、セントラルヒーティングのラジエーターが据えてあったが、暖炉にもよく乾いた薪が大量にくべられていた。かすかに芳香を放つ薪はヒッコリーだろうか? 


 クリスマスツリーは天井まで届くほど立派なもので、きらきら輝く球形の飾りや、王冠型の飾りでデコレーションされていた。本物の小さな林檎もいくつか吊り下げられている。


 二人の外交官のほかにイギリス側の通訳官が陪席したが、国王と大和帝国の元老は、終始、通訳を介することなく会話を交わした。

 心地よい暖気のなか、アルバート七世と内藤博文は、すっかりうちとけたようすで会話を続けている。


『どちらも女好き。共通点があるな。同い年でもあるし』

 斎門の右眼がつぶやく。


「国王陛下が華燭の典を挙げられたまさにその年、私は初めて貴国の土を踏みました」

「かれこれ四十年近く前、ですな?」

「さようでございます。荷物といったら、まちがいだらけの辞書一冊と寝間着だけ。上海で船を乗り換えたのですが、粗末な(なり)をしておりましたし、言葉は通じない。船の雑役夫にされてしもうたのです」

 内藤博文は流暢な英語でしゃべり、陽気に笑った。


「それはそれは! 大変なご苦労をなさいましたな」

「四か月の船旅でした。若かった。怖いものなしでした」

 元老は感慨深そうな表情になっている。国王も、内藤のその青春を想像しようとしてか、遠い目になった。


 二人のあいだに置かれた小テーブルに、可憐な花が飾られている。甘い香りを発散している。麝香豌豆(じゃこうえんどう)(スイートピー)だった。温室栽培されたものにちがいない。

 ああ……。穂波は胸のうちで小さく息をはいた。


「この花、すばらしくよい香りがしますな」

 穏やかな笑みを見せながら、内藤が花瓶へ目を向ける。

「アリックスの最近のお気に入りでして。住まいにも宮殿にも、どこにでも飾りたがります」

 アリックスとは王妃の愛称だった。

「お気に召しましたか?」

「はい。栽培は難しいのでしょうか?」

「どうですかな。貴国の気候風土であれば、よく育つのではないでしょうか」

 アルバート七世の言葉に、内藤はうなずいた。

「育ててみましょう」


 そのとき。

 穂波はうなじに何かが触れるのを感じた。国王がサンドリンガムでの狩猟に内藤博文を誘っている。穂波の仕事はまだ終わっていない。

 触れているのは誰かの冷たく柔らかい指先のようだった。


『斎門。斎門?』

 返事がない。


 指先はうなじから背中、脇腹、胸へと動いて、心臓の上あたりで止まった。とんとんと軽く叩かれる感触があった。若い女の笑い声のようなものを耳にする。クリケットの声ではなかった。

 数分で、未知の者による接触は終わった。

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