麝香豌豆の香る宮廷―― 冬の紅い実
庭の冬青にたくさんの実が生っている。緑の葉に紅い実。彩りが目に楽しい。
彦乃は変わらずに献身的に雪の世話をしてくれている。穂波への態度も変わってはいない。よそよそしい言葉遣い、拗ねたような振舞い。そんなものは顔をのぞかせもしない。
艶やかな長い髪が結い上げられてしまうこともなかった。彦乃は今も穂波の望むままにしていてくれる。
とはいえ、何かが失われていた。あの朝を境に。
夏の終りごろには見とれてしまうほどに生き生きとしていた彦乃。その表情の伸びやかさが失われている。それを目にして、穂波はうろたえ、気後れにまたも先を越されてしまうのだった。無用に饒舌になったり、逆に言葉足らずになっている自分に気づく。
そんなふうであったけれど、彦乃と二人、ときどき厨房に立った。餡パンやカスタードクリーム入りのパンもこしらえた。竈の暖気が心地よく、カスタードに入れたバニラビーンズの甘い香りがあたりに満ちて、雰囲気は最高だというのに、一歩踏み出せない。
彦乃を抱きしめたい。抱きしめて……そして……。
無理だ。拒絶されるだけだ。拒絶されずに受け入れられたとしても、彦乃が本音では嫌がっていると気づかされてしまったら? ――こちらの心はズタボロだ。立ち直れない。
穂波は、半ば、自棄になった。
どうせ夢じゃないか。この婚姻のすべてが現実のものじゃない。彦乃は斎門に心を操られ、馬鹿な男の人生に巻き込まれただけ。それを忘れるな。
浮かない気分の波状攻撃のさなか、ある日の午後、雅尚が新妻の瑠璃子を連れてやってきた。二人を穂波は彦乃と母屋で迎えた。
居間へ招じ入れられるや、雅尚はにやつきながら無遠慮に、瑠璃子はちらちらと遠慮がちに、視線を彦乃へ投げた。
雅尚は開口一番、
「彦乃さん、まるで嫁入り前のようですね。女学生みたいですね、その髪型」
彦乃は何も言わず、ただ微笑んだ。おっとりと構えている、と穂波の目には映った。ここまでは想定内だった。
「穂波兄さんの好みなのかな。そう言えば、みさ緒さんも――」
その先を続けたら絞め殺してやる! 穂波は雅尚を睨みつけてやった。
警告に気づいたらしく、雅尚は、しまった、というような表情を見せた。
そこへ、タキが茶菓の盆を運んできた。紅茶のポットとカップと――
ん? あの皿は何だ?
銘々皿に餡パンが載っている。
おタキさん……。雅尚たちには雪が食べる缶入りのビスケットで充分だった、餡パンは余計だった。しかも、
「この餡パンは穂波坊ちゃまと奥さまの手作りなんですよ」
笑顔での説明はさらに余計だった。雅尚、また要らぬことを口走るなよ。
「なんとなんと! 穂波坊ちゃまと奥さまの手作り!」と雅尚。
「まあ!」と瑠璃子も小さく感嘆の声をあげた。
穂波は雅尚の新妻をあらためて観察した。
瑠璃子は髪を束髪に結っている。前髪と鬢を大きく膨らませた派手な結い方がよく似合っている。雅尚がみさ緒の名前を持ち出したとき、口を挟まずにいた。みさ緒さんがどうなさいましたの、などと言わずにいてくれた。賢く思いやりのある女性なのだろう。雅尚とうまくいっていればいいが。――そこで、穂波は自嘲した。よその夫婦の心配をしている場合か?
彦乃が紅茶のポットに手を伸ばしかけた。穂波は微笑んで、ポットを先に自分のほうへ引き寄せた。四つのカップに紅茶を注ぐ役を引き受ける。
いただきます、と雅尚と瑠璃子は同時に言って餡パンを食べはじめた。瑠璃子は半分にちぎった。雅尚も半分にちぎる。瑠璃子はさらにちぎったものを口に入れた。雅尚は四半分をさらにちぎって口に運んでいる。穂波は笑いをこらえた。弟は幼いころからおちょぼ口で食事をしていた、と思いだす。
「これはいけます。帝に献上できますよ。それにしても、二人でパンを焼くなんて。ままごと遊びするなんて。穂波兄さんと彦乃さん、熱々の仲なんですね」
雅尚が要らぬことを口走った。
絞め殺してやる!




