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金木犀散って―― 選択

 茶の間で彦乃ともっとゆっくりしたかった。それが穂波の本音だったが、今夜、また「お使い」の予定が入っている。忌々しく思いながら、穂波は母屋を離れた。


 斎門が現れるだろう十時まで、執筆の続きをすることにした。書き物机に向かう。手元には『女學世界』の連載の原稿がある。彦乃にパン作りを教えている場面がちらちら目に浮かび、執筆中の虚構の世界へ入っていけない。


 みさ緒がいたころには自分が厨房に立ち入ることなどありえなかった、と思いだす。料理や菓子作りに手を染める自分を想像したことさえなかった。離れの厨房はみさ緒の城だったのだ。


 机に飾った六つの写真立てをぼんやりながめる。胸の奥にかすかな痛みが走る。写真の一つを手にとった。雪を身ごもる前のみさ緒だ。はにかんだようにこちらを見つめている。穂波は思いだす。その髪に雛菊を挿したのは、この自分だ。


 みさ緒。この腕のなかで、ほどけるように解けるように、自分とひとつになってくれた存在。重ねあった唇。髪の匂い。声。息づかい。面影。失うわけにはいかない記憶。

 

 あの記憶。


 あの日の、雪に覆われた庭。

 この離れの縁廊下で、不安に押しつぶされそうになっていた自分。閉じられた障子の奥からは、みさ緒の苦し気な声が漏れ聞こえていた。それに交じって、産婆の声。満佐の声。


 産婆と満佐がみさ緒にかける声から、しだいに落ち着きが失われていった。

「奥さまっ! みさ緒さまっ! しっかりなさいませ!」

 どうしたのだ? 何が起きている?

「お満佐さんっ!」

 縁廊下から穂波が声をかけると、

「入ってはなりません!」

 叱責するような満佐の鋭い声が返ってきた。


 すっと、縁廊下に斎門が現れた。穂波の耳元でささやいた。

「母親と赤ん坊。このままだと、どちらも助からない。俺に託せ。どちらかは救ってやる」

「……何を言っている……?」

「命、一つは、救ってやる。おまえに大きな貸しを与えてやる、ということだ」

せろ!」

「どちらも死ぬ。いいのか?」

「失せろ」

「選べ」

「消えろ。出ていけ」


「選べ! 六つ、数える。決めろ。一つ――」

 障子の向こうで、常に冷静沈着なはずの満佐が悲鳴を上げる。

「二つ――」


 深々(しんしん)と降り積もる雪。

 庭一面すでに真っ白だった。雪の庭とガラス戸一枚で隔てられた縁廊下の冷気を、穂波は感じていなかった。ただ、恐怖だけが募っていた。


「三つ――。選べ」

 選べない。選べない! 穂波は障子に手をかけた。

 が、手首を悪魔にがっちり捕まれた。

「四つ――」

 産み月まで順調そのものだったというのに。初産とはこれほどの難事なのか? 

「五つ――」


 穂波は叫んでいた。

「みさ緒!」


 悪魔が歯を見せて笑った。

 赤ん坊の泣き声がした。元気のいい産声だった。

「……斎門……?」

 すでに、穂波の全身が震えていた。自分はみさ緒を選んだのだ! 赤ん坊は……諦めた。みさ緒は? みさ緒は?


「おまえが選んだほうを助ける、とは言っていない。おまえが選んだ命を消す。俺はそのつもりだった。とにかく、片方は救ってやったぞ。感謝しろ」

 現れたときと同様に、すっと、悪魔は退場した。


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