梔子(ガーデニア)の夜―― 月の輝き①
七月に入った途端に、梅雨寒はどこへやら、一気に蒸し暑くなった。
中庭の梔子が次々に開花する。一日花なのでどんどん散ってもいくが。母屋と離れの周辺は、この短い季節を謳歌する白い花の香りが、むせるほどにたちこめている。
梔子は藤村の家の庭には植えられていなかった。彦乃は、近所の生垣から香りが漂ってくるたびに、夏の到来を告げるこの花木が気になった。一本でもいい、家にも植えられていたらよかったのに。残念に思っていた。「嫁にもらう口なし」となるから梔子は植えないのだ、と父親が真顔で言ったことがある。
秋に雅尚との婚礼を控えた瑠璃子に祝いの品を贈りたい。何がいいだろう? なかなか考えつかずにいた彦乃だったが、お茶帽子にしよう、と思いついた。端切れでこしらえて刺繍をほどこす。そうしよう。
柳行李の一つを開けて裁縫箱を取り出す。行李にいっしょにしまっておいた『美味しい戀の春夏秋冬』が目についた。手に取って、表紙の絵をあらためてよく見る。
離れの厨房に似ているけれど。――こんな偶然もあるのね。
本を行李へ戻した。裁縫箱の抽斗に端切れが何枚かあるはず、と思っていたのだが、二枚しかなかった。生地の色柄もお祝いには不向きに見えた。また、お満佐さんに相談しようかしら?
そんなある日。
ちょっとした事件が起きた。
梅雨の中休みなのか、朝からよく晴れていた。午後も雨雲は姿を見せなかった。
夏至から十日ばかり。日が長い。夕餉のあとも外は明るく、雪を早寝させるのは難しくなっていた。
仕事を終えたタキとセツが雪を連れ出した。伯爵邸のお抱え車夫とその家族のための住居は邸の裏手にある。そのあたりまで雪を連れていき、二人の小学生の子供たちと遊ばせてくれるらしい。
「あとで送ってさしあげます」とタキが言った。
「あまり遅くなっては困りますよ」と満佐。
「はい。一時間くらいで。手花火がいいですかね、雪坊ちゃま?」
雪は大喜びだった。はしゃいでいた。
ところが。
七時を少し過ぎたころ。
「穂波坊ちゃま!」
茶の間の縁廊下の向こうから、野太い男性の声がした。ただならぬ響きがあった。鯉口のシャツに紺の腹掛け、同色の股引という恰好の男性が、雪を抱いて庭を大股にこちらへやってくる。タキも一緒だ。
雪は泣きじゃくっている。穂波が裸足で沓脱石へ降りた。彦乃も縁廊下へ出る。
「申し訳ございませんっ」
「どうしたんです?」
言いながら、穂波は雪を自分の両腕に迎えた。
「それが……」
伯爵家の車夫と思しい男性は口ごもり、横のタキを見る。タキも困ったような表情をするばかりで何も言わない。
「鶴吉さん、どうなさいました?」
奥から満佐が茶の間へ入ってきた。
「言ってください。何があったんです?」と穂波。
「ぶった……ぶったの……」
涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにした雪が、しゃくりあげる。
「本当にっ、申し訳ございませんっ」
鶴吉が平身低頭する。タキもならう。
「あのひと……ぶった」
「鶴吉さん、きちんと説明してくださいな」満佐が言った。「どなたかが雪坊ちゃまにひどいことを?」
「……大奥様が……ちょっと、お手を……」
「あの人が雪を叩いた――?」
穂波の声はすでに厳しいものになっていた。その背中しか見えない彦乃には、表情は読めない。父親の肩越しに、雪が彦乃のほうへ細い腕を伸ばしてくる。
「穂波さま」
声をかけて、彦乃は雪を抱き上げた。
「もう一度聞きます。先代の奥方が雪を叩いた。そうなんですね?」
「……はい」
「どうしてまた?」
「事情は……承知しておりません。直前に何があったかは。公輝坊ちゃまが、うさぎを見せるとおっしゃって。それで、雪坊ちゃまはお屋敷のなかへ入っていかれて」
「申し訳ございません。お屋敷のなかへ入ってしまわれるのは、お止めすべきでした」
タキがおろおろした声で補足する。
穂波は彦乃を振り向いた。
「雪を頼む」
「はい」
裸足のまま穂波は庭を出て行ってしまった。鶴吉とタキが慌てて後を追う。
満佐は縁廊下に膝をついて三人を見送ったが、何も言わなかった。こういうとき、騒ぎたてずに落ち着いて構えてくれる満佐に、彦乃はあらためて敬意の念を抱くほかない。
腕のなかで、雪はまたしゃくりあげた。その汗ばんだ額に貼りついた髪を、彦乃はそっとかきあげた。




