白無垢の婚約者―― 面影②
星野からの便りはなかった。満佐は不安を募らせた。星野は読み書きくらいはできたはずだが。
意外な人物がその不安を拭ってくれた。
斎門匠。先代伯爵の旧知の人物だった。異国の人である。成功した貿易商らしい。見上げるほどに大柄で、肩幅広く、高級な仕立てのフロックコートにトップハットいう装いがみごとなほどにきまっている。知的かつ精悍な顔つき、優雅かつ堂々たる立ち居振る舞い、よく通る美声。斎門匠が訪ねてくると、この賓客に失礼があってはならない、と家職の誰もが緊張するほどだった。本人はいつもにこやかで、紳士然として鷹揚な雰囲気を醸しているのみだったが。
ある日、斎門匠のほうから満佐に声をかけてきた。満佐は家令の真壁に用があり、家令の事務室へ向かうところだった。回廊をめぐる大襖の一つが開き、斎門が出てきた。一人だった。
「満佐殿」
斎門に呼びかけられた。先代も頼子も満佐と呼ぶ。斎門としては満佐殿と呼ぶほかないだろう。
「ちょっとこちらへ。穂波殿の御母堂の件で」
斎門は小声で言い、満佐を回廊の隅へいざなった。
「不来方星野殿のその後。私も気になっておりました。先代伯爵とのあいだに穂波殿をもうけられた女性ですからな。先代の夫人には内密に調べてみました。いろいろ伝がありましてね」
斎門は捜しあてたという村の名前を口にした。すでにその村を訪ねたという。
異国人の紳士は詳細を語らなかったが、星野の状況は「お気の毒な」ものだという。満佐が受ける衝撃を慮ってだろう、斎門は具体的な表現を避けた。星野は病床にあるという。
「星野殿の遠い縁戚の人というのは、もはやおいでにはならない。それを承知のうえで、星野殿はその村へ移ったのかもしれません。ほかに行く当てもなかったのでしょう。最初は、そこそこ富裕な農家の下働きをしていたようですが。病を得て……。物置小屋を寝起きの場所として借りたようです。今は近所の農家の主婦が世話をしてくれているようですが、その婦人とてかなり貧しい。一日に一度、味噌スープのようなものを与えてくれるだけのようで」
満佐は衝撃を受けた。
「とりあえず私ができる範囲のお力添えを申し入れたところです。星野殿は、ご自分では、それを受け入れるとも否とも口にすることさえ叶わぬごようすで。暖かい寝具や薬などをお差し入れ申しあげました。評判のよい医師も遣わしました」
「まあ……! 斎門さま、なんとご親切なお方でいらっしゃるのでしょう」
「これからは、定期的に見舞いの者を派遣して星野殿の病状を把握するつもりです。月に一度は私も出かけようと思います」
「私もご一緒させてくださいませ」
と満佐は頼んでみたものの、自分の今の地位をもってしても、盆暮れでもない時季に休暇を願い出るのは容易ではない。その遠い土地へ日帰りで往復するのは不可能だ。二日は要するだろう。あるいは三日か?
「ご心配はわかりますが、しばらくは私にお任せください。またご報告します」
異国人の貿易商は、ご安心ください、と言い添えた。
感動と安堵とで満佐は目頭を熱くしたものだった。なんと人並み勝れて尊い心根の持ち主であることか、斎門匠という紳士は。
遠い過去のあれこれを記憶の抽斗から出して広げたあと、古川満佐はふたたび、この夕方から晩にかけての光景を思いだしていた。
花嫁の彦乃さま。なんとも初々しく可憐で。老いた奉公人に過ぎないこの自分に、学校の教師に対するがごとくに敬意を表してくれて。緊張しておられるのか、口数が少なくて。そこがまた愛らしい。
「この離れの奉公人は、住み込みの私と通いの主婦二人、合わせて三人いるだけです。通いのおタキさんとおセツさんは、どちらも伯爵家のお抱え車夫のおかみさんで、気のいい人たちです。掃除、洗濯、料理の下ごしらえ、その他の雑用を引き受けてくれます」
そう話して、満佐は彦乃に主婦二人を紹介したのだった。力の要る水汲みの仕事は二人の亭主のどちらかが手隙のおりに引き受ける、とも説明した。
この日の夕餉は満佐が用意しておいた一汁一菜になった。菜は白身魚の煮つけである。昼の酒宴で鯛が出るとわかっていたので、鰆にした。
膳が片付くと、タキもセツも帰り支度を始めた。
台所でタキが満佐に話しかける。
「お二人は離れでおやすみになるのかと思ったのですが、こちらの八畳間に床を延べるようにと」
「穂波坊ちゃまが?」
「はい」
そういうこともあるだろう、と満佐は気に留めなかった。
「離れのほうにも、いつものように床を延べさせていただきましたけど」
「おや、そうなの? ま、それはそれでいいでしょう」
タキとセツは帰っていった。
七時半。
雪を寝かせつける時間だ。満佐は雪をうながした。
「彦ちゃん、一緒に来て」
「雪坊ちゃま、彦乃さまはお疲れですよ。またあした。あした遊んでいただきましょう」
「やだー! 彦ちゃんと寝んねする」
満佐と穂波と彦乃とのあいだで、忙しく視線が行きかった。
「雪。お満佐さんの言うことを聞きなさい」
「う~ん」
雪は不服そうな声を漏らすと、
「じゃ、ほっぺして」
彦乃の首に細い両腕をまきつけた。自分の頬を彦乃の頬にすりよせる。
「お満佐さん、甘やかし過ぎです。いつもこんなことを?」
満佐は苦笑した。
「たまに、でございますよ。満佐のほっぺたじゃ、もうご満足なさいませんでしょう」
確かにこのとき、満佐は老いを実感させられた。雪は若い母親に頬ずりしてもらうのを待っていたのだ。温かく柔らかい肌を欲していたのだ。切なくなった。幼い日の穂波の心情もこのようであったのか、やはり?
満佐は雪を子供部屋へ連れていった。あとで彦乃さまを湯殿に案内し、高島田に結った髪をほどく手伝いをしなくては。手の込んだ華やかな髪型をたった一日でほどいてしまうのは、なんとも惜しいけれど。




