白無垢の婚約者―― 見送る猫
※「繻子のお茶帽子―― 兄と弟②」を投稿し落としておりました(汗)。第20話として掲載しました。
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六月一日。
婚礼の朝となった。
彦乃は髪を高島田に結い上げ、白無垢に綿帽子という花嫁衣裳に身を包んだ。茶の間で両親に挨拶をする。
感傷的にならずにいるのはむずかしかった。母親の鶴子が目頭をおさえるのを見て、娘の目にも涙があふれ、それを見た母親がまた涙するというぐあいだった。父親の巌は淡々としたふうを装ってはいた。
何かを察したのか、猫のすえこが花嫁衣裳の膝にまとわりついて離れない。彦乃は猫を抱き上げた。いつものように、耳から頬、首筋を撫でてやる。すえこ、おまえはいくつになったの?
「お衣装に猫の毛が付くよ」
母親は言ったが、猫を引き離そうとはしなかった。
藤村の家でこの小さな生きものと最も親密だったのは祖母のキヨと彦乃だった。幼いころ自分は猫と会話をしていた、という記憶がある。幼少時の旺盛な想像力の産物にすぎない、と今では解釈しているが。
やがて、コンダー夫妻が馬車で迎えにきてくれた。花嫁衣裳も初めてなら、箱馬車に乗るのも彦乃には初めての経験だ。
先生にエスコートされて車中の人となる。このあたりから頭のなかは真っ白で、受け答えも満足にできなかった。
十時。
能舞台で、コンダー夫妻だけを立会人とした人前挙式だったが、彦乃は穂波と三献の儀をすませた。
盃事がすむと、コンダー先生が咳払いをして、
「新郎は新婦にキスを」
彦乃は耳を疑った。横に立つ紋付き羽織袴姿の穂波が身じろぎするのがわかる。
「先生。それはこの国のしきたりではありません」
「しきたり? 知りません。キスしないと婚姻はパーフェクトにならない」
「お言葉ですが、省略させていただきます」
「省略、だめ。早く、なさい」
「いたしません。人前で……することではありません」
「穂波、頑固」
「Sorry, sir」
「……いいでしょう。では、省略」
安堵のあまり、彦乃はすうっと力が抜けてしまった。
先生は何でも持っているらしく、高級そうな蛇腹式写真機を書生の一人が運んできた。その書生が撮影も引き受ける。新郎新婦の写真。コンダー夫妻が加わっての写真。
花嫁一人の立ち姿も撮影されることになった。顎、引いてください。ちょっと右を向いてください。肩は動かさずに。もうちょっと右。彦乃は言われたとおりにしたが、注文はさらに細かい。書生の後ろを新郎が行ったり来たりする。私がぐずぐずしているから苛立ってらっしゃるんだわ。彦乃はちょっと焦った。
「お美しい」
シャッターを切るエアバルブをぷしゅっと握り、にわか写真師がつぶやく。
「三国一の花嫁でいらっしゃる」
彦乃は赤面するほかない。
「もうそのあたりで」
堪りかねたように穂波が言う。
コンダー夫人が気遣ってくれて、白無垢の花嫁の手を引き、奥へ連れていってくれた。
正午過ぎに祝宴の客たちが集まってきた。
彦乃の両親、二人の姉たちと義兄たちがやってきた。堂本伯爵家からは、伯爵と雅尚氏、古川満佐という婦人と真壁潔という老齢の紳士が顔を見せた。
コンダー邸の畳敷きの大広間で、三時過ぎまで酒宴が続いた。この時点でも、彦乃は夫となった人の顔を真正面から見ていない。
一度、穂波が前を向いたままささやいた。
「疲れてはいませんか?」
「おりません」
と彦乃もささやき声で答える。
さらに十数人の書生風の若者たちが集まってきて、奥の部屋で紋付に裃という姿に着替えて出てきた。いつのまにかコンダー先生も同じ装束を身に着けている。
「舞囃子『高砂』を披露します」
先生は喜色満面だった。
新郎新婦と客人たちは庭へ案内された。
能舞台の周りに椅子が用意されている。結納の日、先生が浮き浮きしていた理由がのみこめた。先生の心づくしに胸が熱くなる。
高砂や この浦舟に 帆を上げて
この浦舟に帆を上げて
ゆっくりと舟が岸辺を離れた。望むものがきっと見つかると信じる者を乗せて。




