遠雷と狐―― 悪魔の予定表
火曜日――。
約束は一方的に破られた。
「穂波、婚姻を急ぐぞ。事情が変わった。婚約期間は無しだ」
またも書斎の机の端に腰かけ、斎門が言う。どことなく表情に険しさのようなものが見える。
「待ってくれ。何を言いだすんだ?」
「四週間、やる。ユイノウとかいうしきたりがあるんだろう? 今週中に古川満佐を藤村の家へ挨拶に行かせろ。当家の坊ちゃまがお嬢さまに恋焦がれている。坊ちゃまは資産をお持ちで、収入もたんとございます。一生、貧乏暮らしなどさせません。ご心配はご無用です、と。十八になろうっていう娘を持つ平民の親なら、否やのあろうはずがない。平民だか士族だか知らんが。似たようなものだろう」
「待て!」
「黙って聞け。ユイノウは、まあ来月の半ばあたりか。宝石でも着物でも、とにかく贈り物で攻めろ。そのあと二週間もあればいいだろう。余裕だ。よし! 婚礼は六月一日」
「ふざけるな。約束は守れ!」
「俺の好きな言葉は臨機応変てやつだ。おまえも新しい予定表に従え。それに、だな。考えてもみろ。藤村彦乃ってのは、かなり、あれじゃないか。可愛らしい。よその男どもだって目をつけないはずがない。縁談の二つや三つ、すでに舞い込んでいる可能性がある」
「あるだろう。今になってようやくそれに気づいたのか? だから、彼女が私との婚姻を承知するかどうか、わからないじゃないか」
「決めるさ。藤村彦乃は、おまえを選ぶ」
「…………」
やはり、そうなのか。
術、なのだ。
穂波は確信した。罪悪感と恐怖を同時に味わった。藤村彦乃は操られるのだ。
「要は、あの娘の父親を納得させられるかどうか、なのさ。だが、今言ったように、おまえには資産があって生活力もあると聞けば、反対するはずがない」
「資産と呼べるほどのものは、ない」
「おまえは、じゅうぶん、金持ちだ」
「子供のいる男やもめだ」
「珍しくもない。万に一つもないと思うが、かりに親が渋るようなときには、また別のやりようがある。だが、ほかの縁談に先を越されると面倒だ。とにかく、急げ」
書斎から斎門が消えたあと、一時間ばかり、穂波はぼんやりとしていた。ついに、第三者をまきこんでしまう。こんな慌ただしいやりかたで。
この秋には三十になるくたびれたやもめ。三歳四か月の子供の父親。書斎に籠り、無価値な文章を綴るのみの役立たず。こんな男に、何も知らない十八の娘が嫁がされる。
自分のこれからのことなど、思い煩いはしない。娘の人生が滅茶苦茶にされる。それだけが受け入れがたい。
婚姻は六月一日。ゴールは設定されてしまった。
藤村彦乃が婚姻を承諾するとすれば、それは魔の力によるもの。きっと、そうなのだ。藤村彦乃はただひたすら甘い夢を見せられるのだ。一種の催眠の術をかけられるのだ。そうした術なくして、あのように……あのように愛らしい娘が……縁談が降るように舞い込むだろう娘が……自分のような男の元に嫁ぐはずがない。
自分は罪を背負うことになる。




