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旅人―― ブライダル・ガーデン③

 リビングと呼ばれる広い部屋の戸口で、穂波は動けなくなった。頭の芯が痺れていく。


 グランドピアノの向こうに、あの打掛うちかけが――つい昨日、この手で彦乃に着せかけたあの打掛が、衣桁にかけられ、飾られていた。


 穂波は老夫妻を振り向いた。自分を落ち着かせるのが、すでに、難しくなっている。

「お二人の祖父は堂本穂波。祖母にあたる方は……その方のお名前は……彦乃……ですか」


 夫妻が同時に息をのんだのがわかった。二人の顔に驚きが広がっていくのが見てとれる。

 秋彦氏は目をみはり、

「どうして祖母の名前をご存じなのですか?」

 

 じわじわと恐怖が襲ってくる。掌が冷たい。それでいて湿っぽい。うなじにもうっすら汗がにじんでいるのがわかる。自分の問いかけに、そうです、というこたえは返ってこない――焦燥のうちにそれを予想しつつも、穂波は確かめずにはいられなかった。


「ここは……今は……一九〇五年……ですよね」

 秋彦氏の返事は、一呼吸、遅れた。

「二〇二三年です」


 手足が震えていた。思考回路が混乱しきっている。

「私は……私は……一九〇五年、明綸三八年、五月二十七日から、ここへ迷い込んだようです」


「メイリン? 堂本さんはクリニックでも同じことをおっしゃった。メイリンとは何です?」

 秋彦氏の表情にも声にも、張りつめた何かがあった。

「…………? 慶弘けいこうの次の明綸です」

「明治、ではないんですか? 慶応四年が明治元年です」


 メイジ? ふと、穂波は思った。この老人は、一見した印象とは異なって、少し耄碌しているのかもしれない。

「わかりません。何をおっしゃっているのか。明綸は明綸です」


 秋彦氏は目をつむった。ゆっくりと二つ呼吸して、目を見開き、

「堂本さん。あなたは、確かに、迷いこんでしまわれたようです。こことは平行する時間軸から、こちらへ」


 平行する――?

 ことばの意味が腑に落ちるまでに、数秒かかった。

 穂波は部屋をよこぎって、グランドピアノの向こうへ回り、衣桁に掛けられた打掛の前に立った。

 雪の結晶、青葉、稲穂、季節の星々、花々。純白だった絹地はわずかに黄ばんでいるものの、色糸の鮮やかさはそこなわれていない。


 だが。

 穂波は打ちのめされた。

 矢車菊と雛菊のあいだに、うさぎが、無い。自分が縫い取った、あの不格好なうさぎが。…………。穂波はうなだれて、立ち尽くした。


「座りませんか。落ち着いて話をしましょう」

 秋彦氏が言う。


 話?

 そんな悠長なことはしていられない!

「帰らせてください。時間がないんです。彦乃に約束したんです。四十八時間以内に戻る、と。二度と、二度と、彼女を不安にさせるわけにはいかないんです」


 穂波は老夫妻と孫娘にあれこれ説明する気力を失っていた。親切な人たち。今は彼らの存在が疎ましい。帰らなくてはならない。なんとしても。この家の玄関はどこだ? どこから外へ出られるんだ? その場から離れようとして――足が止まる。全身の力が抜ける。


 二〇二三年。

 平行する時間軸。


 今さっき、そう聞いたではないか。


         ◇


 ――気づくと、穂波は秋彦氏に促され、ソファに腰をおろしていた。放心状態のままに、とわ子夫人の手からココアのカップを受け取っていた。秋彦氏が隣室からスケッチブックと筆記具を持ってきて、いくつもの名前を書き記していくのを眺めていた。 


 低い位置に吊り下げられた主照明。適度に配置された間接照明。すっきりと洗練された内装と調度類。けばけばしさや独りよがりのデザインとは無縁のリビングの雰囲気は、今の穂波にとって、ありがたいものだった。ランプの明りがひとつでもあったら、さらに心慰められただろうが……。


「さっきの続きですけど」と真衣子が言う。「堂本さんは櫻醉苑(おうすいえん)の庭の隅っこにいて、あたしがそばへ行ったら、ふらふらーっと立ち上がって。あたし、心臓止まっちゃう、って思うくらいびっくりしたんです。堂本さん、あたしが写真で知ってるいお祖父ちゃまの若いころにそっくりで。おまけに、そのシャツ。――堂本さんは、あたしの前を通り過ぎてちょっと歩いて、また座りこんじゃったんです。あたし、気になっちゃって。声、かけたんです。あの……堂本さん、すっごいイケメンでいらっしゃるので、声かけたりしたら逆ナンパとか誤解されちゃうかな、って気後れもしたんですけど。そしたら、堂本さんから『ここはどこですか?』と聞かれたんです。櫻醉苑です、と言ってもぜんぜん通じてない感じで。あたしのほうが焦っちゃって。正直言って、出会ったのが曽い曽いお祖父ちゃまにそっくりの堂本さんじゃなかったら、そのシャツを目にしていなかったら、大人の迷子なんて勘弁してよ、ってスルーしちゃったかも、なんですけど」


 真衣子がしゃべるのを穂波はぼんやりした頭で聞いている。真衣子はかなりの早口で、穂波が耳にしたことのない単語も次々に出る。話の内容の半分にも追いついていけない。


 秋彦氏がスケッチブックから顔をあげた。

「で、真衣子が私に電話してきたんです。かなり興奮ぎみでした。私は、警備の人に任せなさいと言ったんですが、真衣子は聞かなくて」

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