繻子のお茶帽子―― 兄と弟②
伯爵家当主、堂本輝長が居間へ入ってきた。
「相談があるんだが」
輝長はちょっと色気のある顔立ちをしている。色男なのだが太りやすい体質のようだ。まだ三十代半ばながら、早くも脂肪のつきはじめた体を、居間でいちばん上等の肘掛椅子に沈める。
「お話を伺う前に――私のほうから、いいですか? 雅尚の婚約の件ですが」
「いやいや、悪かった。新聞で報じられる前に、穂波の耳にも入れておくべきだったな。でも、まあ、祝ってやってくれ」
「できませんね。申し訳ないですが。兄さん、ご承知のはずですが」
雅尚の性的傾向を知らない輝長ではない。数年前、弟の醜聞の揉み消しで苦い思いをしているのだ。後日、穂波はその事実を知らされたのだが。
「あれも健康な男ではある」
「もちろん健康ですよ。雅尚が恥じることは何も無い。芳しからぬ噂のある相手と、こそこそしたりしないなら。ですが、よそのお嬢さんに迷惑をかけるべきではない。私は何かまちがったことを言っていますか?」
「もう決まったことなんだ。蔵田財閥のお嬢さんが嫁入りしてくれる。上出来の話さ。雅尚だって、いろいろ考えて結論を出したんだ。私は心配していない、この喜ばしい件については。ところで、だ。実は――」
輝長は色艶のよすぎる肉づきのいい顔を右手でつるりと撫でた。
「金が要る」
「挙式の費用ですか?」
「それは問題ない。真壁が何年も前から手当てしているから」
輝長は伯爵家の家令の名前を出した。真壁は、堂本家本家の財政の全てを掌握している。
「挙式の費用のほうは心配いらない。それとは別件なんだ。手詰まりでな……。いや、誤解してくれるな。一時的なものなんだ。ちょっとばかり、キャッシュが――」
「ストックを切り崩してはいかがですか。仕方がないですよね」
「土地を切り売りしろと? 知ってるだろう、華族の世襲財産は処分できない」
「一部を世襲から解除してもらえばいいでしょう。いつまで、あんなばかでかい所帯を維持していかれるおつもりですか?」
「まあ、少なくとも、お母さんがご健在のうちは」
「あの人が健在のあいだは世襲財産に手をつけない。すると、やりくりは容易じゃないかもしれませんね」
輝長は、ちょっと思案する表情になり、椅子に沈んだ体をもそもそと動かした。窓の外へ目をやり、また穂波へ向き直り、
「恥を忍んで、その……頼みたいんだが。一時的に用立ててもらえないだろうか? ちょっと黙らせなくちゃならない方面があって。世間に知られるのだけは、それだけは――」
「雅尚ですか? また?」
「私だ……」
輝長は額に手を当て、顔をやや伏せた。雅尚に比べると、うなだれるというよりは、思想家が高邁な思考実験を試みている、ように見えなくもない。
「真壁には言えない。言ったところで、真壁も解決できないだろう、即座には。額が大きい」
輝長は帝大の仏文科を卒業している。半端に西洋かぶれの面を持つ。自宅で妻妾同居、そんなことができる男ではなかった。そうした習慣を嫌悪する心は持ち合わせているようなのだ。それでいて、妻の寿々子に隠れて、女遊びはやはりするのである。穂波はそのことを知っている。噂は耳に入る。
強請られているとすると、相手の女性は玄人ではない、ということになる。
「人妻だとは承知してたんだが……。今にして思えば、かなり計画的だったんだな、あれは。額を言うと、だな――」
「言われても困ります」
が、輝長は数字を口にした。穂波が雪と満佐と暮らすこの家がもう一軒建つだろうと思える数字を。
堂本家の広大な敷地の隅に、この別棟を――小さな母屋と離れを――穂波が自費で建てたのは、みさ緒との結婚の直前だった。図面は自分で引いた。それは五年前のこと。今の雅尚と同じ年だった。すでに著作二冊が爆発的に売れていて、穂波自身が驚くほどの収入がもたらされていた。
伯爵家の居館と比べたなら、母屋も離れも炭焼き小屋に等しい。それでも、社会の平均的な視点から見れば、贅沢な住居とみなされるだろう。それなりの費用を要した。
それにしても、と穂波は笑いたいような気分だった。輝長が当てにしているのは、血のつながらない弟の印税収入としか考えられない。いつから兄は気づいていたのか? 弟が、独立のときに分与された数戸の家作からの収入だけで生計を立てているわけではないことを。
自分では周囲に悟られないようにしていたつもりだった。原稿用紙の一枚たりとも、書斎以外の場所に置き忘れたりしないように、注意していた。版元の編集者の出入りはない。版元との打ち合わせには、穂波のほうから出向く。
とはいえ、顔の広い輝長である、どこかで新聞社の社主にでも会ったのかもしれない。穂波の二作目は新聞連載から始まったのだ。
「わかりました」
深く考えることが面倒になり、穂波は答えていた。
相模の国あたりで古い農家を手に入れ、改築して雪と満佐と移り住む。周辺の土地も買い増す。自家農園を耕す。温室を建てる。そんな計画のために除けてある金があったが、実のところ、夢物語なのだとわかっていた。自由に生きる。それを斎門が許すはずがない。
「助かる。利子をつけて返す。必ず」
「利子はいりません。借用証は書いてください」
「書く。ああ、書くよ。もちろんだ。用意する。――ところで、公輝もフランス語を習いたいと言いだしてね。あれにも、ちょっとばかり語学の才能があるってことなのか。才能なんてなくとも、興味を持ってくれるなら嬉しいじゃないか。で、寿々子が、フランス人の家庭教師を雇ったらどうかしらと……いや、それくらいの余裕はあるさ。真壁が予備費として計上している」
自分の用件がすむと、輝長は気楽なようすで、別の話題へと移っていった。
雅尚と蔵田瑠璃子との婚姻。覆りそうに、ない。




