少し運のいい男
〝山が炎に包まれている〟
その知らせが届いたとき——私は電車に揺れていた。
都心で開かれる映画の試写会を取材するためだ。
たった一通のメールが、私をひどく悩ませる。
鮮度が何よりも重要であるジャーナリズムの世界では、ときに重大な選択を強いられる。
今がまさにその時であると、私の直感が告げていた。
試写会か、山火事か。
このままシートに腰を下ろし続けるか、来た道を折り返すか。
二つに一つ。
迷っている時間はなさそうだ。
電車が止まり、とある駅でドアが開いた刹那、私は一目散にホームを駆け抜けた。
「すいません! 通ります!」
まだ日常感漂う人々を掻き分け、私は真っ直ぐタクシーのりばを目指した。
勝算はある。
試写会の場合、その場にいる出演者や監督、脚本家などなど、映画に携わる面々に対してインタビューが行われる。
元々告知されていただけあって、幾多のメディアがそれを傍聴し、こぞって記事にするだろう。
だが、取材相手が同じである以上、言葉の取捨選択をしたとしてもニュースの内容はどれも遜色ない仕上がりになる。
山火事は違う。
警察、消防、第一発見者、近所の住人。
話を聴くべき取材相手はバラバラに生活している。
突発的に発生した事件に対し、誰に聴き込み、正確かつ有意義な情報をどれだけ入手できるかで、記事に雲泥の差が生まれる。
つまりは、腕の見せ所というわけだ。
これでやる気にならない記者はいないだろう。
今まさに燃え盛る山の如く、内から湧き出る闘志と共に、私はタクシーに飛び乗った。
「えぇとーご乗車どうも。お客さん、どちらまで?」
運転手たる中年男性は、ゆったりと振り返り、左目を私に向けた。
昭和を連想させる分厚く大きな眼鏡とパンチパーマが印象的だ。
「塩梅山までお願いします」
「ほぉ!」
重そうな眼鏡をクイッと持ち上げ、ギラリとレンズが光るのを皮切りに、彼の口角が徐々に上がる。
やけに前のめりだ。
「こりゃまた結構遠くだねぇ。塩梅山の、そうだなぁ、どのあたりだい?」
「えぇと、詳しくは追って話しますので……とりあえず向かってください」
「おやおや、なんだいお急ぎかい? お客さん運がいいねぇ。おじさんに任せな」
そう言って、彼は指をパチンと鳴らした。「シートベルトお願いしますよ」なんて台詞も、どこかスカしている。
「その……安全運転で、お願いしますね」
「モチのロンロン。重々承知の助ってやつよ!」
溢れんばかりの昭和。随分と楽しそうだ。
助手席のプレートに貼られている真面目な証明写真と違い、自信溢れる笑みが、彼が突き立てた親指の奥にあった(プレートを見る限り、彼の名は諌山茂というそうだ)。
私はどうやら、知らぬ間に彼のやる気に関わるスイッチを押してしまったらしい。
とはいえ諌山の言う通り、確かに運はよさそうだ。
この男なら、与えられた仕事をこなしてくれる気がする。
楽観的かもしれないが、こう捉えておこう。
いい相棒に巡り合えた、と。
突然だが、私はタクシーを好まない。
では何故、下り電車を待たず、運賃が何倍にもなるタクシーを選択したかというと、単に、目的地たる塩梅山周辺には路線がないのだ。
乗るしかなかったから、今私は仕方なく高速道路を進んでいる。
出火場所が山ではなく、駅近のビルだったらタクシーなんて乗らずに済んだのにと、心の底から思う。
便利な乗り物ではあるが、極力使わずに過ごしたい派、というわけだ。
理由は簡単で、
「いやー、それにしても珍しいねぇ! 塩梅山に行きたいなんてさぁ!」
タクシー運転手はお喋りだからである。
五月蠅いのだ。
駅を出発してから諌山はずっとこの調子で、声のボリュームもうなぎ登り。
そろそろフロントガラスあたりが割れるんじゃないかと心配している。
「えぇ、まあ。ちょっとした急用でして……」
ここで山火事の取材に行くと説明しなかったのは、単に職業病だ。
話好きなタクシー運転手に情報を漏らしたら、多方面に話が広がり、ライバルが増えるかもしれない。
あり得ない話ではなかった。
敵は少ない方がいい。そういった意味も含め、私は山火事を選択したのだ。
「ほぉー、あんな何もない土地に。景色だって、そんないい眺めでもないしなぁ」
首を傾げる彼の口ぶりに、記者のセンサーが反応を示した。
少し探りを入れてみる。
「お詳しいんですね」
「まーね。何を隠そう、おじさんの家があるんだなぁ、塩梅山に。地元って言うより、庭だね」
「そうなんですね——」
これは思わぬ収穫だった。
まさか現場を見る前に被害者(なり得る人物)に会えるとは。
そういう意味では、彼がお喋りでよかったと思う。
運がいい。諌山の言葉は本当だ。
私はポケットへ常に忍ばせているボイスレコーダーのスイッチを入れた。
迷いは無い。
ここで情が邪魔をするのなら、私は遠の昔に記者を辞めている。
「ご家族で暮らしてらっしゃるんですか?」
「そうだよ。女房と娘が二人。上は高校生で、下が中学さ」
「いいですね。毎日話題が尽きないでしょう?」
「そう! そうなんだよ。昨日もさ、上のガキが『高校卒業したら一人暮らししたい』って言い出してよ。もう大喧嘩よ」
「え、喧嘩ですか」
物騒な話だ。
「『コンビニですら徒歩一時間なんて耐えられない!』ってな。俺は気持ちもわかるし賛成なんだけど、嫁が『誰がお金出すと思ってんの!』って調子で、もうカンカンよ」
「奥さんの方でしたか……」
災難な日常だとは思うが、諌山は楽し気に語る。
給料のほとんどは奥さんが管理していて、手元にわずかな小遣いしか残らないこと。
長女は弁護士を目指していること。
次女は反抗期なのか、最近無視される頻度が増えたこと。
どこの家庭にもありそうな、ごく当たり前な普通の一家の出来事を笑いながら話す運転手。
彼はまだ知らないのだ。
今、家族の誰かが死んでいるかもしれないということを。
家計のやりくりに勤しんでくれた妻、夢を叶えるため努力していた長女、付き合い方を見失ったままの次女。
事実が耳に入った時彼は、一体どうなってしまうのだろう。
笑顔の絶えない諌山も、涙を流すのだろうか。
いずれにせよ、私の成すことは変わらない。
記事を書く。それだけだ。
彼が取り乱すなら、その錯乱ぶりを記事にする。
彼が呆けてしまうなら、その放心ぶりを記事にする。
記者として、等しく平等に、伝えなくてはならない。
人間は死と隣り合わせであることを、少し運が悪いだけで日常が崩れるということを。
当たり前に生きているせいで忘れている、明日は我が身であることを——等しく、平等に、
思い出させなくてはならない。
車は幾度目かのトンネルに差し掛かった。
この暗闇を抜けれは、高速からも塩梅山が一望できる。
うっすら見える出口の光を抜けたとき、広がる炎は彼の瞳にどう映るのか。
ソーシャルメディアでは既に山火事の第一報が報じられている。
目撃者が投稿した動画を見る限り、かなりの規模だ。
もし、彼の家族が家に居るのなら、助かる見込みは薄い。
「でよ、詫びにケーキ買ってったら『モンブランじゃなきや嫌!』ってふて腐れちゃって。まったく、女心はわからんね」
「大変でしたね……」
諌山は相変わらず、日々のうっぷんを晴らしている。
今は次女の機嫌を取ろうとして失敗した話の最中だ。
愚痴をこぼしつつも楽し気な彼が、現実を知ったとき、どれだけ慌てふためくのか。
最大の見せ場は、もうまもなく訪れる。
「そもそもよ、ケーキってのは種類が多すぎるんだよな! おじさんには全部同じに見えるっつーの」
「はは、確かにそうですよね」
話半分で私はバックミラーを凝視する。
分厚いレンズの先、口ほどに物をいう眼が、どれだけ開かれるのか見納めるために。
「名前も横文字ばっかりだしよぉ。『苺!』とか、わかりやすい名前なら覚えてやるのに」
「難しいですよね」
出口の明かりが近づいてくる。
もうすぐ彼は絶望する。
運よく山火事から逃れたタクシー運転手。
運悪く愛する家族から取り残された夫。
「今日こそは、モンブラン食わせてやるかぁ……」
諌山が叶わぬ願いを口にした時——タクシーはトンネルを抜けた。
正面に広がる塩梅山。山頂から中腹にかけて。
山が——炎に包まれていた。
延々と立ちこめる黒煙は空を突き抜け、消防のサイレン、報道ヘリの駆動音が高速道路にまで騒々しく轟いている。
遠目で解かるくらい、現場はパニックだった。
正面に広がる光景を見ながら、諌山は、
ゆったりと口を開いた。
「ちなみによ、ショートケーキの苺を栗に変えたらよ、それはモンブランになるんか?」
「…………はい?」
あろうことか、諌山は、会話を続けた。
目の前に広がる絶望を全て無視したのだ。
ノーリアクション。
これには私が慌てた。
「いやだからよ、ショートケーキの」
「そうじゃなくて前! 前見て下さい!」
「ん? 前?」
「塩梅山ですよ! あなたの家がある塩梅山が燃えてるんですよ!」
「ああ、燃えてるなぁ」
彼は不気味なほど冷静だった。冷静すぎて、冷酷とも取れるほどに。
「……驚かないんですか?」
「驚かないね」
あの山が燃えるのは、二回目だからね、と諌山は続けた。
「だからって……ご家族のこと、心配じゃないんですか?」
「心配じゃないね」
一瞬、既に避難している報を受けているのかと思った。
だが、そんな思考を諌山は、たった一言で否定した。
「だっておじさん含め、もう全員死んでるもん」
「それは……一体どういう……」
「——こういうこと」
突如、喋り終えた諌山の姿が豹変した。
服はボロボロの布になり、髪も焦げ、ベロリと皮がめくれた両手でハンドルを握っている。
この世の者じゃない。
一目でわかる禍々しさだった。
「一回目は深夜だったんだよ。寝てたらいきなりボカンさ」
そう語る声も、苦しそうなしゃがれ声だ。
「煙ってすげぇよなぁ。逃げなきゃって思っても身体が全然ついてこねぇの。そのうち何考えてるかもわからなくなって、そのままさ」
車内に広がる非現実。
言葉を失う私に対し、諌山は空洞の左目を向けた。
「お客さん、あんた、本当に運がいいねぇ」
そう言って、諌山は恨めしがった。
後日。
目覚めた先が病院だった時は、さすがに理解に苦しんだ。
聴くところによると、あの日私は焦るあまり、降り立った駅の階段から転げ落ち、そのまま意識を失ったらしい。
足の骨を折った程度で、幸いにもこうして一命を取り留めている。
だが、会社では私が試写会と山火事の両方をすっぽかしたことになっている。
編集長は大層お怒りだった。
だが、その怒鳴り声も一つの手土産が解決してくれた。
ボイスレコーダー。
中には私の独り言が収録されている。
何も知らずに再生すれば、インタビューの練習風景かとあらぬ誤解を受けるだろう。
意識不明だった時間帯に保存されている不可解なデータを、編集長はひどく気味悪がった。
曰くつきの音声データは功を奏し、なんとか首の皮一枚繋がった次第だ。
本当に私は運がいい。
オカルト雑誌『アカシックレコード』専属記者。
それが私の肩書きである。
編集長が探れと命じた『ホラー映画の撮影中に起きた心霊体験』や、『山火事を起こした妖怪の正体』なんて見出しより、図らずとも読者が喜ぶ代物が調達できたわけだ。
百聞は一見に如かず。
実体験に勝るものはない。
私が遭遇したお喋りな死人について、存分に語ろうと思う。
死してなお、彼が語りたかった言葉を綴ろう。
記者として、等しく、平等に。
人間は、生きてるだけで運がいいのだと、思い出させるために。
この小説はTwitter企画
『#いいねとRTの数分執筆する』の第三弾作品「少し運のいい男」を
加筆・修正したものです。