メザリアンス
メザリアンス
イザベラはヨーロッパにあるアリトリア国のグスタフ国王の長女として生まれた。王妃イライザはイザベラの出産後にすぐ亡くなってしまったため、イザベラはグスタフにとってアリトリア国のただ一人の王位継承者となった。
彼女が生まれる約七十年前にはアリトリア国はまずまずの領土を所有し、西部に豊かな穀倉地帯と東部に工業地区を持ち、経済も安定している絶対君主制国家であったが、当時の国王の弟であるリカードが兄と政治的意見が対立し、工業地帯の経済力を背景に自分の居城のある東部をエストリア共和国として独立宣言した。リカードは限られた選挙人が投票する大統領選挙によって選ばれる大統領による民主政治を宣言し、自ら選出した選挙人による投票によって初代大統領になった。当選した彼は大統領を終身制とし、しかも自分の息子が次期大統領に選出されるよう工作したため、実態は絶対君主制と何ら変わらなかった。現在はリカードのただ一人の息子であり、イザベラには従叔父に当たるダンカンが大統領を務めているが、彼は国民の意見に耳を傾けて選挙人制度を廃止し、次期大統領は大衆の直接選挙で選ばれるように制度を変えた。ダンカンは英明、公平、進歩的な指導者として大衆から広く支持され、外国からも評価が高かった。だが、それは保守的で国民に人気のないイザベラの父、アストリア国王グスタフの嫉妬と反感を買うことになった。
エストリアに続き、西部の穀倉地帯であるウェスタリアはより強い自治を求め、アリトリア王国を君主とする民主主義自治国として独立した。アリトリア王国は事実上領土が三分の一になり、経済的に非常に厳しくなったが、王家に忠実な将軍率いる国軍が強大なおかげでアリトリアは何とか一国として生き残った。
その後、グスタフが新国王として即位したころは世界中で絶対君主制が次々に廃止されるか立憲君主制に変化しており、君主制度そのものがその終焉を告げようとしていた時代だった。そのような状況にあってもグスタフの野望は三つに分裂した国を統一して三国の絶対君主として返り咲くことだった。彼はウェスタリアの名家からイライザという妻を迎え、彼女との間に生まれる子供を次期国王にするという条件で同盟を確かなものとした。
難産の末生まれた最初の子どもが男子ではなかったのは残念だったが、イザベラは健康で非常に美しい赤ん坊だった。だが、イライザは出産後間もなく子癇を起こし、治療の甲斐もなく亡くなった。真偽のほどは定かでないが、母子を暗殺しようと送り込まれたエストリアのスパイにイライザが毒殺されたといううわさも流れた。
王妃が亡くなり次の子どもが期待できない以上、隣国との同盟を守るには一人娘であるイザベラが王位につけるよう無事に成人させねばならない。グスタフは生まれたばかりの娘の身の安全を憂慮し、国内より外国で身分を隠して育てるのが最善だと考えた。それにはまた、将来の女王となるイザベラに多くの外国語や文化を習得させ、世界的な視野と教養を身に着けさせるという実利的な目的もあった。
彼自身もまだ若かったので再婚を考えないでもなかったが、再婚相手との間に男子が生まれた場合にウェスタリアとの同盟が破棄されるおそれがあるため躊躇した。アリトリアには男子がいる場合には長子の女子に優先して王位継承権を与える伝統があり、グスタフには昔からの男子優先の伝統を変える気がなかったのだ。
イザベラは幼少時代のほとんどを故郷から遠く離れた外国の地を転々として過ごした。母親の顔は知らず、父親も数年に一度会うだけで、何不自由ない暮らしではあったがおよそ肉親の愛情とは無縁の生活だった。数年ごとに違う国に移動し、新たに言語や習慣やその国の習慣を学ぶのは大人には大変なことだが、子供にとってはさほどの苦労でもない。彼女はいろいろな言語を巧みに操れるようにはなった。だが、短期間で移動するためどの国の言語も文化も中途半端な理解に終わってしまっている。
彼女は賢い子どもだったので勉強は一通りできたが、特にこれと言って興味を持った分野はなかった。だが、ある時、自分を出産した直後に母親が亡くなったのは毒を盛られたせいだといううわさを聞き、にわかに毒物学に興味を持った。彼女は地域の有毒植物や動物に詳しい学者を探し出して自ら個人教授として雇い、熱心に勉強した。いつの間にか彼女は現地の教師たちから、毒薬を自在に操ったと言うイタリアのボルジア家の美女に倣い、イザベラ=ルクレツィアと呼ばれるようになった。
十六歳になり、三国一美しいと評判だった母親に似て、イザベラは金髪で緑色の目をした天使のような美少女に成長した。彼女の誕生日を祝い、グスタフは娘が滞在する異国の貴族の館を訪れた。美しく成長し、外国語に加えて広い教養も身に着けた娘を見て王は満足した。ヨーロッパでは十八歳になれば社交界にデビューする。イザベラは故国で将来は国王となる王女としてデビューすることになる。
「美しく成長したな。将来の女王としての帝王教育も順調に進んでいるようで何よりだ」
「ありがとうございます」
「今後のことだが、そろそろ帰国し、しっかり故国のことを学ぶ時期だ。十八歳になれば次期王位継承者として国民に紹介することになる。婿探しも始めなければならぬ」
「でもお父様、私は結婚のことなどまだ考えられません。故国のこともよく知りませんから、将来の国王としていろいろ勉強しなければならないと思います」
「もちろん結婚は今すぐではない。だが、ふさわしい相手選びには時間がかかる。まずおまえはこれからの二年間は故国で国の歴史や法律、地理などを徹底的に学習し、地方の有力者や政治家、学者と会い、人脈を広げる。そして数年のうちに最適な相手と結婚する」
「もしその方を私が愛せない場合は?」
「そんなことは問題ではない。おまえにとって一番重要な役目は血統正しい王子や王女を生んで後継者を確保し、賢く立派な女王として国民の支持を得、絶対君主制を確実なものにすることだ」
「君主制なんて今では化石になりつつある制度です。それより私は自由に恋をして、愛する男性と結婚したいです」
「ふざけたことを。王家の結婚は政治だ。自由恋愛などありえない。おまえは一個人である前に国家の財産なのだ。特権には大きな責任が伴う。何年も外国で生活させて世界でも優秀な教師につけたつもりがこの結果か。外国の教師どもはいったい何を考えているのだ」グスタフは吐き捨てるように言った。父親の頭の古さに呆れたイザベラは反撃した。
「国家の形はいろいろあるでしょうが、絶対君主制はとっくに時代遅れです。アリトリアもせめて立憲君主制になるとか、時代にふさわしい体制に変化していかなければ」
「知った風な口をきくな。アリトリアの絶対君主制が六百年も続いたのはそれなりの理由がある。どの国もいずれ文明が進めば民主国家になるとリベラルな教師が言ったとすればそれは大間違いだ。それぞれの国にはそれぞれの文化に合った政治体制がある。歴史、風土、伝統こそが国のアイデンティティだ。三国に分かれてしまったアリトリアだが、いつの日か必ず統一される。おまえは女王として三国に君臨したいと思わないのか」
「わかりません。故郷のことをほとんど知らないのですから」
「だからこそ今後数年間は故国の歴史や文化を徹底的に勉強するのだ。君主としての責任を自覚し、覚悟を持った者に統治されてこそ国の経営は成功する。人気投票のような選挙で選ばれた無能な君主が指導する民主国家など長続きするはずがない。おまえは伝統を持つ王家の後継者として生まれた。お前の第一の義務はその伝統ある王家の後継者を生み、王家の地位を不動のものにし、王家の財産を豊かにし、可能ならば領土を拡大することだ」
イザベラは父の言葉に驚き、思わず彼の顔を見た。
「よいか、イザベラ、おまえは国家の財産だ。間違っても勝手な恋愛などしてはならぬ」
自国は古い体質の国とは知っていたが、父が期待する自分の役割は今まで受けてきたリベラルな外国人教師たちの教えとはまったく異質なので、若いイザベラは戸惑った。
「私は愛する人とでなければ結婚したくありませんし、子供を産む、産まないも私の自由だと思います」
反抗的な娘の態度にグスタフ王は開いた口がふさがらなかった。苦虫を噛み潰したような顔でしばらく黙っていたが、やがて娘の顔を睨みながらこう言った。
「お前には徹底的な再教育が必要だ。そのための最適な場所を故国に用意する。明日出発だ」
イザベラが連れてこられたのはアリトリアの田舎にある修道院だった。そこでは修道女たちがイザベラの身の回りの世話をし、いかにも頭の固そうな老人の家庭教師たちが日々訪れては古代アリトリアの歴史、代々の国王の業績、統治者としての心構え、法律、哲学などを教授した。
故国の歴史や伝統の勉強は意外に面白く、イザベルは他にすることもないのでまじめに授業を受けていたが、暇を見つけては南国から内緒で持ち帰った毒草を修道院の庭や温室で育て、その効能の動物実験などをしていた。
あるとき、毒草の世話をしていたイザベラは自分と同じ年頃の少年が塀の塗り替えをしているのを見た。今まで同年代の異性にほとんど会ったことのないイザベラは興味をひかれた。透明度の高い青い瞳がきれいだと思った彼女は少年に声をかけた。
「ねえ、あなたの瞳はきれいなブルーね。名前は何というの?」
「えっ?あ、アーロンです」
突然見知らぬ美少女に話しかけられて少年はどぎまぎした。彼はこの修道院にどこかの田舎貴族の娘が預けられ、教育を受けていると聞いてはいたが、こんな目の覚めるような美人だとは想像もしていなかった。すっかり上がってしまった彼は自分の父親が修道院の門番をしていること、時々建物や設備の修理にここに来ること、今は主に近所の農家の手伝いをしているが、将来はもっと収入の良い仕事を探しに外国に行きたいなどと、どぎまぎしながら話した。
アーロンが自分を魅力的だと思い、すっかりのぼせているのがイザベラにも分かった。年齢が近い異性との交際が未経験だったイザベラは退屈しのぎにその少年をからかい、その反応を見て楽しんだ。ついには自分の部屋に彼を招き入れ、興味本位のよからぬ遊びを始めた。
身の回りの世話をする修道女たちは心配したが、それは王女の身を案じたからではなく、国王に知れた時の自分たちへのお咎めを心配したからだ。だが、男女関係については経験の少ない修道女たちはどう王女を指導してよいかわからず、見て見ぬふりをした。そして若い二人の行為はエスカレートし、事態は深刻になった。イザベラが妊娠したのである。
イザベラは妊娠したことを相手の少年に話し、自分の身分も明かした。イザベラがアリトリアの王女と知ると少年は恐怖に青ざめた。そして、次の日には外国で仕事が見つかったから明日国を出る、と報告に来た。
「要するに責任を取らず、外国に逃げ出すというわけね」イザベラは憤慨した。
「ぼくにどう責任を取れとおっしゃるんです、王女様。このことが知れるとぼくは国王に殺されます。あなたは王女なのだから国王にばれずに問題を解決する手段はいくらでもあります。ぼくと違ってお金がおありだからどこか人目につかない場所で出産しても良いし、もちろん中絶しても良い。産んだ子供をその辺の田舎貴族に育ててくれと言って渡しても相手は大喜びで子どもを受け入れます。あるいは子連れでも王女様と結婚したいという人もたくさんいます」
「よくもそんな無責任なことを言うのね」
「でも、最初にぼくを誘惑したのは王女様です。あなたはとてもお美しく、言い寄られて断る男なんていないでしょう。ぼくこそ被害者です。お願いです、見逃してください。このことが国王にばれると本当にぼくは殺されます」
イザベラはだんだんこの少年が気の毒になってきた。彼の言うことは本当だ。特に好きだという感情もないのに異性が珍しいので面白半分に近づいたのがそもそもの間違いだったのだ。自分はなんと愚かなことをしたのだろう。
「いいわ、父に知られないうちに早く外国に逃げなさい。私は自分で何とかするから」
イザベラには自分で中絶ができるという自信があった。彼女が研究してきた毒草の中に中絶薬があったからだ。大昔から南米で使われてきた薬草だ。それを飲めばいつでもおろせると簡単に考えていたのも軽はずみな行動の原因だった。イザベラは自ら中絶薬を配合し、それを飲んだ。それですべて問題は解決すると甘く考えていた。だが、生兵法は大怪我のもとと諺にもあるように、事態は彼女が考えていたのとは全く別の展開をした。
イザベラはひどい腹痛で苦しんだ後、大出血を起こし、失血のため失神した。自分の部屋で倒れているのを修道女に発見されたイザベラは救急病院に搬送され、直ちに病院から国王に連絡が入った。イザベラの生命を救うには子宮摘出しか方法がなく、それには国王の許可が必要だったからだ。こうしてイザベラが起こした事の顛末はすべて国王の知るところとなった。
無事手術が終わり、一命をとりとめて意識を回復したイザベラの前に立っていたのは鬼のような形相の国王だった。
「よくも私の顔に泥を塗ったな」と父は怒鳴った。
イザベラは自分の浅はかな行為が原因だったにせよ、もう少しで死ぬところだった娘に対してそれが父親の言う言葉か、とショックを受けた。
「王位後継者が産めない王女など何の価値もない。お前はもはや私やこの国にとって外見が美しいだけの飾り物になり下がった。おまえを喜んで妻に迎えたいという王族や貴族は旧アリトリア三国、いや、世界中探してもいないだろう!いっそ死ねばよかったのだ!」
そう言うと父は部屋を出ていった。イザベラはしばらく呆然としていたが、やがて涙があふれてきた。冷たい父親への怒りか、愚かなことをした自分への怒りなのか、自分でもはっきりしなかった。
そして、一生子供を産めない体になったこと、まともな結婚はもはや望めないという父の言葉がイザベラの心に深い影を落とした。
回復したイザベラは修道院に戻ったが、今までイザベラの世話をしていた修道女たちは遠い外国の修道院に移動になっていた。新しく彼女の世話係になった修道女から聞いたのは外国に仕事を探しにいったという門番の息子が交通事故で死亡したというニュースだった。イザベラは直感的に、これは事故ではなく、父親が口封じに少年を殺したのだと思った。自分の愚かな行為は自分だけの罰に終わらず、アーロン少年の生命をも奪ってしまった。
イザベラはアーロンと彼の家族に対して申し訳ないことをしたと思ったが、それ以上の感情を持つことができなかった。むしろ自分が彼の死に対して感情が動かないという事実の方に衝撃を受けた。そして、もしかしたら自分は父のように冷血で、人を愛することなど不可能な欠陥人間なのではないだろうかと不安になった。
やがて十八歳を迎えたイザベラは修道院での教育を終え、時期王位継承者である王女としてアリトリアの社交界にデビューした。まばゆいばかりの美貌の王女はたちまちマスコミの注目を集め、彼女のファッションは若い女性のあこがれの的になった。
イザベラは国内外の政治家や貴族、著名人らと面会した。外国語に堪能であることと浅薄ではあるが世界の文化や社会制度を知っていることで利発な王女との評判を勝ち取ることができた。世界中の貴族や有力者からの結婚の申し込みが殺到し、イザベラの結婚相手について週刊誌があることないこと書き立てた。小国ながら美貌の王女が存在するアリトリア王国は現代のおとぎの国として世界中から注目され、すっかり時代遅れになっていた君主制の人気回復には貢献したが、娘が欠陥品だと考えるグスタフとしては王女の結婚に期待して大騒ぎする国民に喜んでばかりもいられなかった。
四年が経過し、二十二歳になったある日、イザベラは父からマスタフ=ルカシュ大元帥を晩餐に招いたから出席するよう命じられ、戸惑った。ルカシュ元帥は高齢だが温厚かつ聡明な戦略家として国民に非常に人気があり、伯爵でもある。だが、彼の穏健なやり方と領土拡大に熱心な父親の方針はしばしば衝突していたので総司令官が国王の晩餐に招かれるのは珍しい。ましてなぜ自分が同席するのか理由が不明である。
晩餐会に現れた総司令官は彼の養子だという海軍少佐ウォルフ=ルカシュを同伴していた。子供に恵まれなかったマスタフは孤児院育ちのウォルフを養子にし、立派な将校に育て上げたということだった。
二十六歳のウォルフは上背があり、筋肉質の体に軍服が良く似合うハンサムな青年だった。彼を見た瞬間、イザベルは全身が雷に打たれたような思いがした。彼女が理想の男性として頭に描いていたイメージそのものだったからだ。彼女は彼から目を離すことができなくなった。
マスタフ=ルカシュ元帥は国王と最近の隣国の動きについて話していたがイザベラの耳には何も入らない。幸いにも元帥は昔気質で、女は政治に口を出すべきではないと考えているらしくイザベラの意見を求めない。イザベラはもっぱら青年将校の様子や言葉に注意を集中し、時々彼が発する、「はい、陛下」「いいえ、陛下」の声に魅了されていた。落ち着いた深いトーンの声だとイザベラは好もしく思い、彼のイメージにぴったりだと考えた。そしてその夜は彼のことばかり考えて一睡もできなかった。そして、自分は恋に落ちたと思った。
以前、自分は人を愛することができない欠陥人間かもしれないと不安に思ったこともあったが、普通の女性と同じように男性を好きになった自分に安堵すると同時に、ルカシュ少佐のことを何も知らないのに外見だけで恋に落ちた自分が愚かにも思え、おかしくもあった。
翌日、グスタフの部屋にイザベラは呼ばれたが、なんとなく予感するものがあった。果たして国王は言った。
「お前の結婚相手を決めた」
「どなたです?」イザベラの胸は高鳴った。
「昨日来た少佐のルカシュだ。名はウォルフとか言った。ルックスは評判以上だし、マスタフが養子にするほどの男だから人物も確かと見た」
イザベラは天にも昇るほどうれしかったが、何気ない様子を装った。
「平民の方ですわね」
「孤児院育ちだそうだ。実の親はどこの馬の骨とも知れぬ。メザリアンスではある。しかしお前の以前の相手も似たようなものだったし、何よりもお前は子どもを持てぬ体だからな」グスタフは言ったが、さすがに娘を気にして付け加えた。
「だが、マスタフ家は名家だし、あのルックスなら王室の広告塔になれる。孤児だったとは言え、伯爵家の養子なのだから何とか世間を説得できるだろう。今は少佐だが、結婚までに王女の婿として世間がふさわしいと考える地位まで引き上げる」グスタフは娘を見やった。
「お前が子宮を失っていることはごく一部の者しか知らない事実だが、それを結婚相手にまで秘密にすることはできない。子宮のない女は女ではない」
「女でない女と結婚するなどごめんだと少佐の方でおっしゃるのでは?」イザベラは急に不安になった。
「この国に国王命令に逆らえる者がいるとでも?」グスタフはそう言うと話はこれで終わった、出ていけと言わんばかりに侍従を呼ぶベルを鳴らした。
王家に生まれたからには結婚は国家の戦略で、好きな男と結婚できるなど夢にも考えるなと父親に言われ、イザベラ自身も子宮を失って以来、結婚に夢を抱くことはなかった。だが、その父親が選んだのはまさに自分の理想に近い男性だった。これを僥倖と言わずして何と言おう。イザベラは生まれて初めて父親に感謝した。
だが、少佐は子宮のない女との結婚をどう考えるだろうか?多くの男性が自分を美しいと認めてくれるのは事実だが、彼もそう思うとは限らない。第一、あれだけ魅力的な男性だ。すでに意中の女性がいるかも知れない。イザベラは不安になり、早く彼の気持ちを確かめたいと思った。
そのチャンスはすぐにやってきた。彼が軍のセレモニーに王女を来賓として招待するために宮殿に出向いてきたからである。
儀礼的な手続きが終わると少佐が二人きりで少々散歩しませんか、と誘ってきた。イザベラに異論があろうはずがない。二人で宮殿の庭を散策するとはなんとロマンチックなことだろう!
だが、少佐の言葉はイザベラが望んでいたようなものではなかった。
「国王から王女との結婚を考えるようにお話があり、非常に困惑しております」
ああやはり、とイザベラは落胆した。
「すでに婚約者、もしくは意中の方がおられるのですね?」声が震える。
「いえ、そういうわけでは」と彼は慌てて否定した。「何しろ男ばかりの環境にずっとおりましたし、軍務をこなすのに必死で女性と交際したこともありません」
イザベラは一度に胸のつかえがおりた。女性と交際したこともないうぶな青年なら自分に夢中にさせることは難しくはなさそうだ。きっとそうさせてみせる。
「それでは、なぜ?」
この問いに今度は少佐の方が驚いた様子を見せた。
「私のことを王女は何もご存じない。私も王女のことは何も存じ上げない。そもそも身分が違いすぎます。あなたは将来、女王となられる方ですが、私は捨て子で、孤児院育ちで、最下層階級出身です。私と王女の結婚はメザリアンス以外の何物でもない。王女の相手は王子か、せめて高位の貴族でなければ国民が納得しないでしょう」
「私には立派な貴族の方と結婚する資格がないと父は考えています」
「それは子どもを望めないからということですか。あなたが以前、国王の気に染まない外国の没落貴族の男性と恋に落ち、婚約発表直前に彼を事故で亡くされたショックのため流産しかかり、手術の失敗で子供を産めない体になったと国王から聞きました」
ああ、父はそう説明したの、外聞が悪くないように創作したのね、とイザベラは思った。イザベラは気の毒な門番の息子の顔を思い出そうとしたが、きれいな青い瞳をしていたこと以外は何も思い出せない。名前は何だったかしら。そうそう、アーロンだったわ。
国王の言葉を額面通り受け取った少佐は言葉を続けた。「ですが、子供を産めないから女性としての資格がないなど古臭く、馬鹿げた考えです。王女が愛した方を失って絶望されたのはわかります。国王もそんなあなたを慰めるため早く結婚させたいと思っておられるのでしょうが、もう少し時間をかければ必ず王女にふさわしい身分で、あなたが愛せる男性が現れます」
でも、生まれて初めて好きになった男性はあなたなの、とイザベラは叫びたかったが、その気持ちを抑えて冷静に言った。
「父は王族の結婚はすべて政治で、自由恋愛などありえないと言っております。今度こそ父は自分の眼鏡にかなった方を私の相手に選びたいのだと思います。メザリアンスだとあなたはおっしゃいますが、ルカシュ大元帥に人柄を認められ、ルカシュ家の養子になり、少佐に昇進しておられます。父が言うのですから、あなたは私の相手となる資格がおありだと思います」
少佐は何が気に入らなかったのか、怒ったように見えた。
「国王は将来の女王としてふさわしい広い視野と教養と語学力、そして自立心を身に着けさせるためあなたを遠い異国で教育したと聞きました。そして王女は愛する相手にめぐり逢い、国王も不本意ながらも結婚を許可されたのでしょう?それなのに、今回は父王の言うなりに結婚するとおっしゃるのですか?王女は今後、父親の言いなりの人形のような人生を歩まれるおつもりですか?そのような、自分で自分のことも決断できないような方を将来の女王として戴く国民は幸福でしょうか?」
イザベラは少しも少佐が思うように話に乗ってこないのでイライラしてきた。国民が望む女王の資質について彼と語りたいわけではない。
「亡くなった恋人のことはもう昔のことです。父は大勢の候補者の中からこの国と私の将来の王配としてふさわしい人間としてあなたを選びました。私自身も父の選択に非常に満足しています」
イザベラとしては自尊心が許す範囲での愛の告白だった。だが、少佐には彼女の真意は伝わらなかったようだ。
「それは買い被りです。王女、私は決してそんな器ではありません。この結婚はどう考えても不釣り合いです。しかし、私から国王のお申し出を断るわけにはいきません。どうか、王女から国王にこの話はなかったことにするよう頼んでいただけませんか」
イザベラは落胆した。王女であり、しかも誰もが美人だと認める自分との結婚をなぜ彼はそうかたくなに拒否するのだろう。
「父を説得するには時間が必要ですわ」
少佐は明らかに安堵した様子を見せた。それがイザベラの気に障る。
「もちろんです。私も時間稼ぎをします。時間稼ぎをしている間に王女にふさわしい別のお相手が現れるでしょう。一刻も早くそうなることを祈ります」
そう言って少佐は宮殿を後にした。
もちろんイザベラは違う結婚相手を探すように父を説得する気などなかった。間もなくウォルフは次々に有名無実な役職を与えられ、王女の婿として見劣りしない地位の大佐にまで急激に出世した。ウォルフの方は自分から志願して外地へ行き、時間を稼ぐ努力をした。その間にイザベラの相手として次々と候補者が浮かび、その都度マスコミが騒いだが、国王とイザベラはウォルフ以外に花婿はいないという点で一致していた。そして王女の二十四歳の誕生日に二人の婚約が電撃発表される運びとなった。
婚約発表の前夜、ウォルフは国王主催の晩餐会に招待されていた。彼は憔悴しており、非常に寡黙で、王女との婚約発表を控えている幸せな青年には見えなかった。晩餐後、国王は気を利かせて早々に退席し、部屋には二人だけが残された。
「結局国王は王女の説得も聞き入れてはくださらなかったのですね」彼は落胆した様子で言った。
「父は頑固です。私の意見など聞く耳は持ちません」とイザベラは言ったが、そもそも説得などみじんもしていないので後ろめたい。
「どうして私なのか。国王が何を考えておいでなのか私にはわからない。。。」彼は暗い顔をした。そしてふと遠い目をした。
「私にも夢はありました。平凡な私にふさわしい夢です。可愛い、愛する女性を見つけて、平凡な結婚をして、三人くらい子供を持って。。。でも、平凡な夢が私には無理だったらしい」
「子供が。。。お好きなのね」がイザベラはショックを受けた。
「そうですね、孤児院では大勢の仲間といっしょに育ちましたから」
彼が欲しがっている子供を与えることは自分にはできない、そう考えるとイザベラは初めて絶望的な気持ちになった。
「でも、もう手遅れですわ。明日は婚約が正式発表され、半年後には結婚式ですもの」
「そうです。もう逃げることはできません。これが自分の運命と覚悟しました。思ってもみなかった大きな流れに呑み込まれ、どうあがいても逃げることができなかった」彼はため息をつくとイザベラを見やった。
「王女には最初から統治者としての人生が約束されているわけですから、こういった庶民の感覚はお分かりにならないのでしょうね」
「王女だろうが大統領だろうが一人の人間の運命などたかが知れています」
「そうかもしれませんが、王女は社会の制度を作る、あるいは変える立場におられます。ですが私は流される立場の人間です」
イザベラは「王女」という呼びかけにイライラした。
「お願いですから」とイザベラは言った。「婚約者になるのですからその呼び方はやめてください。どうぞ、イザベラ、と」
大佐は少し微笑んだ。微笑むと一層ハンサムだとイザベラは見とれた。
「今日はこれで失礼します、王女」彼はそう言いおいて宮殿を後にした。
イザベラ王女とウォルフ=ルカシュ大佐の婚約が電撃発表された。国民の多くは王女の相手はアリトアニアあるいはウェスタリアの有力貴族か外国の王子と考えていたので、出自が平民ということがわかると大騒ぎになった。
古い世代からはメザリアンスだと反対する声も一部にあったが、若い世代は民主的な王室への変化の兆しとして歓迎した。最初は反対した者も、国民的英雄である大元帥が養子の人物を保証したため、国王は出自ではなく能力と人物本位で未来の王配を選んだということで納得した。ウォルフが軍服の似合うハンサムな青年だったため、特に女性からは圧倒的な支持を得た。
結婚式の日、清楚な白いウェディングドレスに身を包んだイザベラはこの世のものと思えぬほど美しく、彼女を見た国民は熱狂した。教会に現れた彼女を見てまばゆそうな表情をしたウォルフをイザベラは見逃さなかった。彼も私を美しいと思っていると彼女は確信した。今は私を愛していないかもしれないけれど、嫌っているわけでもない。身分があまりにも違うために気後れしているだけだ。夫婦になれば彼はきっと私を愛するようになる、そうさせてみせる、とイザベラは自分に言い聞かせた。
式の後に行われる宮殿での晩餐会と舞踏会が終わるとアリトリアの伝統に従って花婿は花嫁を抱き上げ、来客の見守る中で宴会場から二人の寝室まで花嫁を運ぶ。花嫁を抱き上げられないとか、途中で力尽きて花嫁を落とそうものなら結婚の幸先が悪いとされるこの行事は、力のない新郎や体重の重い新婦の場合は難関だ。ウォルフは力がありそうだし、自分はスリムだから大丈夫だとは思うのだが、問題は宮殿の宴会場から寝室までの距離が非常に長いことだ。イザベラはウォルフが自分を抱いたまま無事に遠い寝室まで到着できるか不安だった。
だが、ウォルフに軽々と抱き上げられたとき、そんな心配は杞憂だとすぐに分かった。イザベラは彼のたくましい腕と胸の筋肉を感じて体が熱くなった。いつまでも寝室に到着せず、永遠に彼の腕に抱かれていたいと願ったほどだ。
花嫁を落とすような不安を全く感じさせない新郎はイザベラを余裕で寝室まで運び、ドアの前でそっと下ろした。見守っていた客が歓声を上げた。これでアリトリア伝統の結婚式は終了し、客は祝福の言葉をかけて全員引き上げた。
いよいよ二人きりだ。イザベラは胸の動悸を抑えることができない。ところがウォルフはドアの外に立ったまま寝室に入ろうとしない。
「王女はどうぞお休みください。私は別の場所に部屋を取りました」
思いもしない夫の言葉に何も言えないでいるイザベルに彼はこう続けた。
「私はこの結婚を成就するつもりはありません。それがご不満ならいつでも私を離婚してください」
いったい何を言っているの?
「お話があります」彼の眼は陰鬱で、とても新婚の夫のそれではなかった。イザベラは不安に駆られた。
「なぜ国王が私を王女の夫に選ばれたかよく考えてみました。そして結論は」ウォルフはイザベラの目をまっすぐ見た。「私が捨て駒として最適だからです。どこにも係累がない。養父以外には私が死んで悲しむ人間はいない」
「一体何のお話?」イザベラは当惑した。
「王女は国王とともに私を三国統一のための捨て駒として政治的に利用されるおつもりでしょうが、私はそれを望みません」
「私が?」
「国王に尋ねました。王女はこの結婚を見直すよう国王に頼まれなかった。私には説得を試みたと言われたのに」
それはあなたと結婚したかったからよ!イザベラは心の中で叫んだ。
「この宮殿は敵だらけで、どこにも私が安心して眠れる場所はありません。失礼させていただきます」
そう言ってドアを閉めると彼はどこかへ行ってしまった。
イザベラは茫然とした。新婚初夜に花嫁から逃げだす花婿なんてどこの世界にいると言うの?
翌朝新婚の二人は新婚旅行に出発したが、そこでも何事も起きなかった。二人は別室で眠り、決められたハネムーンの時間が過ぎると任務があるからと称して名のみの夫は職場である指令部に戻り、イザベラは宮殿に一人取り残された。
イザベラは彼の言葉を考えてみた。父が三国の国王に返り咲きたいという野望を持っているのは事実で、その野望を達成するためにいろいろと計画を巡らしていることは彼女も知っている。だが、彼を娘婿にしたことと三国統一の話が彼女にはうまくつながらなかった。ウォルフは国王にとって自分は捨て駒だと言った。国王や王女である妻に暗殺されるとでも思っているようだ。だが、彼の死と三国統一がどう関係するというのだ?わけがわからない。
自分とベッドを共にできない真の理由が言えないため、奇妙な理由をでっち上げて逃げたのだ、とイザベラは結論した。だが、その理由とは何だろう?
結婚から一年近く経過したが、休日にも夫が滅多に宮殿に顔を出さないのでイザベラの不満は募った。彼がこんなにも私を避ける理由はやはり他に女性がいるからではないだろうか?同性愛だという可能性も否定できない。あるいは何か身体的欠陥があるのだろうか?
イザベラは信頼のおける従僕にひっそりと夫の身辺調査を依頼した。彼の休日の過ごし方や交友関係を知りたいと言った。ウォルフがイザベラのもとを滅多に訪れないことを宮殿内で知らない者はいなかったので、この身分違いの結婚がおとぎ話のようなハッピーエンドを迎えていないことは誰もが知っていた。そしてイザベラ同様、多くの従者たちもウォルフには他に愛人がいると考えていた。
だが、届いた調査結果は意外なものだった。ウォルフには特定の女性がいるわけでもなく同性愛の友人がいるわけでもない。賜暇には自分が育った孤児院に行って孤児たちとの交流を楽しんでいる。その時の写真に写った彼の笑顔は彼女の前では見せない明るいものだった。イザベラは夫が大の子供好きで、子供たちと遊ぶ時間を本当に楽しんでいる、ということを思い知った。
「すべての調査結果はこれです。王女がご心配されるようなことは一切ございません。孤児院でのご様子からお子様がとてもお好きということが分かります。王女との間にお子さまが生まれればきっと毎週王女のもとにお帰りになられることでしょう」
従僕の善意から出た言葉にイザベラの胸は張り裂けそうになった。私は彼に自分の子どもと遊ぶ喜びを与えることはできない。彼のこのはじけるような笑顔を私は与えることができない。。。。
ウォルフの三十回目の誕生日を三か月後に控えたある日、イザベラは父からマスタフ大元帥と准将に昇格したウォルフがエストリアのダンカン大統領の夕食会に招かれていると聞いた。
王女と王家の一員になったウォルフとその養父の総大将のために晩さん会を催したいとのダンカンからの申し出は数か月も前になされたにもかかわらず、父がなかなか承諾の返事を出さず、また、娘に断りもせず勝手にイザベラの出席を断っていたことも知った。
本人に何も知らせず断るのも奇妙だと思ったが、その時はそれ以上考えなかった。だが、イザベラは数か月前に父が高名な薬学者を内密に宮殿に呼び、書斎で話し込んでいるのを目撃したことを思い出した。また、父がエストリアに高価なワインを送る手配をしていることも知り、考えるところがあった。
イザベラは大急ぎで夫への誕生日プレゼントを自らデザインして職人に特注し、同時に南米にいたとき個人教授を頼んだ学者宛てに手紙を書いた。返事が届くと、特注品に自ら手を加え、それを夫のいる軍司令部に送った。
思いがけずイザベラから手作りの誕生日プレゼントが届いてウォルフは戸惑ったが、中身を見てますます戸惑った。入っていたのはおもちゃのような指輪だったからだ。中央に見るからに安物の石がセットされている。同封のイザベラからの手紙を読まなければ捨ててしまいそうな代物だ。
だが、誕生カードを装った手紙には驚くべき内容が書かれてあった。手紙は読んだら直ちに焼却処分するようにイザベラは指示していた。ウォルフはその指示に従うべきか迷ったが、結局誰にもわからない秘密の場所にその手紙を隠した。
エストリア国に到着したルカシュ元帥とルカシュ准将は大統領府である宮殿の入り口で綿密な身体検査を受けた。両者とも武器がすべて没収されたのはもちろん、所有物も衣服も下着に至るまで入念に調べられた。だが例のおもちゃのような指輪に関しては、王女手作りの誕生日プレゼンだとのウォルフの説明に係員は微笑み、それ以上調べようとはしなかった。
貴賓室に通されるとエストリア国大統領のダンカンが待っていた。イザベラの父にとっては従弟に当たるが、国の分裂以来両者の仲はすこぶる悪い。だが、儀礼としてダンカンはウォルフとイザベラの結婚を祝福し、まずは乾杯しようと言った。
だが、ウォルフは酒が飲めない体質だと固辞した。元帥も年のせいで弱くなったので酒は控えている、と辞退した。するとダンカンは言った。
「閣下が心臓病にお悩みのことは聞き及んでおります。とはいえ、心臓よりむしろワインに毒が盛られていないかご心配なのでしょう。ですが、このワインはお国の国王から私たちへ贈られた物です。そのような心配は無用。それに、これは非常に上質のワインです。では、まず私から飲んで大丈夫かどうか試してみましょう」
そう言うと、大統領はデカンターからワインをグラスになみなみと次ぎ、飲み干した。三人はそのまましばらく待ったが、ダンカンの身には何事も起こらない。
「いかがですかな。これで疑いは晴れましたかな。ご心配ならあなたのグラスを私のものと交換しますか」
マスタフは苦笑いをした。
「大統領自ら毒見をして証明されたとなっては辞退するのはかえって失礼。しかもそのワインは滅多なことでは手に入らないもの。いただきましょう」
そう元帥が言うと大統領は元帥のグラスにワインをなみなみと注いだ。ウォルフは酒が飲めないのを体質のせいにして断ったのを後悔したが、今更あれはうそでしたとも言えないので仕方なく水で乾杯した。
しばらくは両国の文化についてのんびりした話題が続いたが、そのうち両国の国境付近で訓練する軍船の領海侵犯問題となり、ダンカンとマスタフの対立が明らかとなった。いつもは穏やかな大元帥も興奮を隠せなくなった。興奮しすぎて弱った心臓に障ったのか、総司令官は突然胸を抑え、真っ青になった。うめき声をあげたかと思うとそのまま椅子から崩れ落ちた。驚いたウォルフは養父を助け起こしたが、総司令官の顔にはすでに死相が現れ始めている。ウォルフはワインに毒が盛られていたと直感した。
「きさま、毒を盛ったな!」ウォルフは養父を抱えたままダンカンに向かって叫んだが、ダンカンは平然としている。
「なぜそのような言いがかりを。私も同じものを飲んでいるが、このとおり平気だ。総司令官はお歳だ。深刻な心臓病をお持ちだと聞いている。人は、特に老人は自然に死ぬものだ。領土の話で興奮し、心臓に負担がかかったのだろう」
「何をとぼけたことを言っている!毒をグラスに仕込んでいたのだろう、この人殺し!」
ウォルフは大元帥の体を椅子にもたせ掛け、ダンカンに殴りかかろうとしたが、そのときにはすでに大統領の手に拳銃が握られ、銃口がウォルフに向けられていた。
「まずは落ち着きたまえ。言いがかりをつけて私を襲おうとするなら君を撃つ。君は軍人で若くて力があるが、私は見ての通り、か弱い老人だ。君を殺しても正当防衛だ。敵国の大元帥と准将が死ねば我が国にとっては願ったりかなったりだがね」
「やはりこの会談は私たちを殺すために仕組まれた芝居だな!」
「何を言い出すのやら。イザベラの夫は偏執狂か」ダンカンは冷笑した。かっとしたウォルフは思わず彼に飛び掛かった。銃声が響き、控え室にいた護衛官たちが驚いて部屋に飛び込んできた。
彼らが目にしたのは何とも説明しがたい光景だった。アリトリア国総司令官は床に脚を投げ出し、椅子に上体をもたせ掛けた姿勢だが、すでに絶命している様子だ。そしてダンカン大統領は拳銃を手にしたまま床に仰向けに倒れ、全身に痙攣をおこしている。総司令官の養子である准将は肩から血を流して真っ青な顔をしているが、自分の足で立っている。
護衛官たちはまだかろうじて生きているダンカンを大急ぎで治療室に運んだ。負傷したウォルフは応急手当の後、事情聴取のため別室に監禁された。やがて、治療の甲斐なく大統領が亡くなったという知らせが入り、ウォルフは大統領暗殺容疑者となった。
「だれかエストリアの者がワインに毒を盛ったか、あるいは養父のワイングラスに毒を盛ったのだ。養父が倒れたため大統領を問いただそうとすると、彼は丸腰の私を拳銃で撃った。彼はおそらくその反動で後ろに倒れた。ダンカン大統領の突然死の理由など、私にわかるはずがない。あらかじめ飲んでおいたワインの毒消しが不十分だったのか、倒れたときの頭の打ちどころが悪かったのだろう。入念な身体検査を受けて部屋に入った養父や私が武器や毒物を持ち込めるはずがない。私が大統領を殺したなんて、冗談もほどほどにしろ!」
ウォルフはこのように言ったが、エストリアの人々は納得しない。ダンカン大統領とマスタフ総司令官の剖検が終わり、彼らの死因とワインに仕組まれた毒の特定ができるまでウォルフはエストリアに拘束されることになった。
マスタフ総司令官の死因は心臓発作だった。グラスに残ったワインから発見された薬物の同定は医師らには容易だった。その成分が司令官の服用していた心臓病薬と反応し、激しい発作を誘発したと考えられた。その成分は普通の人には何ら影響を及ぼさないものだが、特定の心臓病を持ち、その治療薬を服用している人には致命的である。だが、この情報は毒物を盛った者の正体が不明なため、軽々に公表できない。
ワインはアリトリア大統領からの贈り物だ。だが、瓶に残されたワインから薬物は発見されず、デカンター中のワインから発見された。つまり、薬物はエストリア内で盛られたのだ。
毒を盛る機会があった人物は宮殿内に少なくとも数人はいた。エストリア国内にいるアリトリア側のスパイが大統領の身辺に紛れ込んでひそかに毒を盛った可能性も否定できないが、自国の総司令官を殺害する理由がアリトリアにあるだろうか?毒殺のチャンスに最も恵まれていたのはダンカン大統領であり、敵の総司令官の死を願う理由も十分にある。たまたまダンカンは死んでしまったが、生きていれば同じワインを飲んで無事だったのだからそもそも毒が盛られていたなどとは誰も考えないから自然死として扱われただろう。考えにくいことではあるが、自国の大統領によるアリトリア総司令官暗殺の可能性が否定できない以上、事の詳細を公開することをエストリアは躊躇した。
一方、ダンカン大統領の死因に関しては医師団は頭をひねるばかりだった。ワインの薬物による影響は観察されず、転倒の際の脳出血も否定された。最後にダンカンを診た救急医によると大統領は深刻なアナフィラキシーショックを起こしているように見えたが、その原因となった物質、あるいは成分をだれも特定できなかった。ウォルフの所持品からは何も発見されず、おもちゃのような中空の指輪からも何もあやしいものは発見できなかった。
数時間後、エストリア大統領主催の晩餐会での大統領とアリトリア総司令官が急死したとのニュースが発表されると両国は大騒ぎになった。エストリアでは隣国の総司令官は自然死、大統領はウォルフ准将により何らかの方法で暗殺された可能性が否定できないと報道された。人気のある大統領を暗殺した容疑者であるウォルフへの疑念は大きく、それはアリトリア王国への反感につながった。
一方アリトリアではダンカン大統領が飲み物に入れた毒で大元帥を殺し、大統領を問いただそうとした准将は大統領に撃たれ、大統領は銃撃した反動で倒れ、くも膜下出血を起こして死亡したとの見方が発表された。人望ある総司令官を毒殺され、王女の夫も大統領に撃たれて危うく殺されかかった上に大統領殺人容疑者として拘束されたとあっては、アリトリアの人々のエストリアへの怒りは大きかった。
大統領急死の知らせは外国留学中の息子であるラウルにも伝えられた。彼はただちに帰国し、次期大統領候補として名乗りを上げた。しかし、ダンカンが選挙制度を変更していたため、旧王家による世襲大統領に反対する勢力が多数名乗りを上げ、ラウルがすんなり次期大統領として受け入れられるかは疑問だった。混乱に乗じて世襲反対派がデモを行い、ラウル支持者と対立して国内は混乱した。
アリトリアでもエストリアへの復讐を誓う人々のデモが日々行われた。グスタフ王がエストリア暫定政府に総司令官の遺体とともに、捕らわれの身となっている准将を一刻も早く解放し、帰国させるよう申し入れると、このままでは戦争に発展しかねないと恐れたエストリアは証拠不十分のままウォルフを釈放することに決めた。ルカシュ准将が大統領を暗殺したと信じるエストリアの国民は副大統領の率いる暫定政府の弱腰に大いに怒り、政府機関周辺では抗議デモが頻発した。
釈放され故国へ向かう道中、ウォルフはイザベラの手紙の内容を思い起こしていた。今となってはすべてが彼女の予想した通りの展開となった。
イザベラはこの会談で死人が出るかもしれないと警告した。ダンカン王が出すワインに薬物が入っている可能性が否定できないから、酒は断って水を飲むようにと忠告していた。なぜ同じワインを飲んで養父が死に、ダンカンが平気だったのかは理解不能だが、それはどうでもよい。いずれにせよ、ダンカンは自分をも殺す気だった。少なくとも死ねば都合がよいと言ったし、丸腰の自分たちに対して彼自身は護身用の銃を持ちこんでいた。
客の立場で会場に武器を持ち込むことは許されないので、最悪の事態に備えて指輪をはめていくようにとイザベラは忠告した。プレゼントされたプラスチック製の指輪は手を強く握ることで中央の石の先端部分に空いた小さな穴から昆虫の毒汁が飛び出る仕組みだった。
その毒汁がダンカンの皮膚にかかり、その生命を奪ったのは明らかだ。毒が皮膚から吸収されると人体は重篤なアナフィラキシーを起こし、短時間で死に至る。だが、エストリアの医師団が死因を特定することはできないだろう。なぜならば毒は短時間で蒸発し形跡が残らないし、南米の一部地方にしかいないその虫の存在や毒の成分を知る研究者はエストリアには存在しない、とイザベラは書いていた。
釈放されたウォルフは元帥の遺体とともにアリトリアに帰国した。国境には大勢の軍人が大元帥と准将の帰国を待っていた。彼は養父の遺体を彼らに託すと、自分は王女に会いに宮殿に向かいたいと上官に告げた。無事を一刻も早く妻に知らせたいのは当然のことと、上官は快く許可を与えた。彼が宮殿に到着したのはほとんど真夜中だった。
真夜中に前触れもなく突然自分の寝室に現れた夫にイザベラは驚いたが、無事に帰還した夫を歓迎した。
「ダンカン大統領に撃たれたと聞いて心配していました。大丈夫ですか」
「幸い軽傷で、エストリアの医師らによる手当も適切だったので大ごとにはならなかった」
「大元帥も大統領も亡くなられたとか。でも、あなたがご無事で何よりでした」
夫の無事を喜んでいる様子のイザベラを見て、ウォルフは初めて妻をいとしいと思った。
「あなたが予見していた通りのことが起きた。デカンターのワインには毒が入っていた。いや、ダンカンは飲んでも平気だったから、グラスに毒が仕掛けられていたのかもしれない。とにかく、この指輪が無かったら、今頃は将軍とともに遺体となって帰国していたことだろう」
「私はすべてを予見していたわけではありませんけれど、あなたの身に危険なことが起きるかもしれないと予感があったのです。妻の手作りの誕生日の贈り物と聞けば、奇妙な指輪でも調べられる心配はないと思ったのです。昔の毒物の勉強が役に立ちました」
「私は今まであなたを信用できないと思っていたが、それは愚かだった。イザベラ、本当に感謝している」
そう言って彼はイザベラを強く抱きしめた。イザベラは手にも昇るような気持ちになった。二人はそのままベッドに倒れこみ、彼は情熱的にイザベラを愛した。その夜はイザベラにとってはようやくウォルフの妻となれた記念すべき夜となった。
朝を迎えてイザベラは昨夜の余韻に浸っていたが、気が付くと隣に夫の姿がない。慌てて部屋を見回すと夫はすでに身支度を終えようとしている。
「お出かけですか?」
「大元帥の国葬、新元帥の選出、エストリアへの対応など、決めるべきことが山積みだ。新元帥選出の件については将官らと相談し、国王の意見も聞かなければ」
「新元帥ならすでに父が決定し、公表を待つばかりです。それはあなたです。准将であり、大元帥の養子であり、未来の王配ですもの」
イザベラが当然のように言ったのでウォルフは驚いた。
「しかし、それはネポティズムだとの批判を免れない。まず、カルヴァート副司令官が納得しない。いや、すべての将官、佐官も同じだろう。軍は実績がすべてだ。いくら王女の夫だと言っても、これといった実績のない私が突然元帥になれば反感を買い、軍の士気が落ちる」
「実績は後からついてきます。あなたは国の総司令官としてエストリアに宣戦布告します。国の宝である大元帥を殺され、将来の王配であるあなた自身も殺されるところだったのですから開戦の理由は十分です。エストリアは大統領を失い、あなたの釈放で反政府デモも起き、後継者選びも難航し、動揺していますから今がチャンスです」
「戦争するなどだれが決めた?第一、大統領を殺したのが私だという証拠がもし発見されれば。。。」
「そんな心配は無用です。この時期を逃せば今度はいつエストリアを併合するチャンスが来るかわかりません」
「併合のチャンス。。。なるほど、頭の鈍い私にもやっと事情が呑み込めた」ウォルフはそう言ってイザベラを見た。別の生き物を見るような目だった。
「ワインはグスタフ王からの贈り物だとダンカン大統領は言った。養父の暗殺はエストリア側の陰謀だと思いこんでいたが、実はすべて国王とあなたの仕業だったのだ。エストリアに宣戦布告するために、あなた方は自国の英雄であり私の大切な養父である大元帥を犠牲にした。そして、賢明な指導者と評判の高い敵国の大統領を私に暗殺させた。こうして戦争の口実はそろった。すべてあなたの計画通りに運んだわけだ」
そう言うと、ウォルフはあっけにとられた妻を部屋に残したまま宮殿を去った。
イザベラはショックだった。やっとウォルフと本当の夫婦になれたと思ったのに、彼はイザベラを事件の首謀者と決めつけ、まるで怪物を見るような目で見て宮殿を後にした。
だが、想像してはいたがあまり認めたくない事実が彼の言葉ではっきりした。ワインに毒を入れた、あるいはそう仕組んだのはエストリアを併合したい父に間違いない。父がエストリア大統領の身辺にスパイを送り込んでいたこと、側近を買収していたことをイザベラは知っている。彼らにはワインに毒を盛るチャンスがあったはずだ。
同じ毒ワインを飲んだダンカンがなぜ平気だったのかは不明だが、体質の差か、あるいは何かの薬物との飲み合わせが悪い毒物かもしれない。いずれにせよ、父は自分の野心のために自国の将軍を犠牲にし、そしてイザベラ自身は人望のあるダンカン大統領を殺したも同然だ。
おそらく父のシナリオでは養父が隣国の大統領に暗殺されたと考えたウォルフが激怒し、復讐のためにエストリアに宣戦布告することだったのだろう。父としては自分より人気があり、しばしば意見が対立して目障りだった老元帥が殺されても痛くもかゆくもない。今回イザベラの介入でダンカン大統領が死亡し、エストリア国内が混乱したことは父にとっては思わぬ僥倖だった。
ウォルフを新元帥に任じたのにも理由がある。戦争に勝てば彼を王女の婿にし、元帥にした国王の目は誤っていなかったと評価されるし、万が一戦争に負けた場合にはウォルフをすべての首謀者、戦争責任者としてエストリアに差し出し、好きに料理させれば自分の身は安泰だ。
父にとって他人はすべて自分の目的を達するための手駒なのだ。では、次の王位継承者が産めない、役立たずの娘である自分は。。。?
大元帥の国葬の後、国王の指名により新元帥となったウォルフは大方の予想を裏切り、エストリアと平和的に交渉すると言い出した。戦争をしかけたくてたまらない国王は怒り狂い、軍幹部のみならず一部の国民も失望したが、戦争を望まない国民も多くいたので評価は割れた。
事態は膠着状態のまま時間が流れ、エストリアでは国内が騒然となったまま次期大統領に向けての予備選挙が行われた。前大統領が急に亡くなり、混乱している今回の選挙では今までの王家出身者による世襲の大統領に反対する対立候補者も数多く名乗り出たため、ダンカンの息子であるラウルの圧勝とはなりにくい雰囲気だった。だが、同情票もありラウルは過半数を獲得し、次期大統領最有力候補となった。
ウォルフは次期大統領と目されるラウルのもとに自分の尊敬する先輩であるクーパー中将を派遣し、事件の解決に向けて話し合いをすることにした。会談はエストリアの一流ホテルで予定されたが、その場所は一部の者以外には内密にされた。なぜなら、エストリアでは反ラウル派の者たちが混乱に乗じてあちこちでテロ活動をしており、町中が不穏な雰囲気だったからだ。
だが、二人がホテルで秘密に会談を行っているまさにその時、玄関前に停車中だったトラックに搭載してあったパイプ爆弾が爆発し、炎上した。ホテルの別の場所に止めてあった車にも爆弾が搭載されており、それらが次々に爆発し、あっという間にホテルは火の海になった。パニックになって右往左往する人々のため消防隊によるラウルとクーパー中将の救出が間に合わず、二人は多くの犠牲者とともに焼死してしまった。
犯行声明はなく、エストリアの人々は内密に会談が行われていたホテルで起きたテロは偶然と考え、テロを阻止できない暫定政府の無能を責めた。だが、アリトリアではこれは偶然ではなく中将を標的にしたエストリア人からの攻撃だと多くの国民が考え、今度こそ戦争だ、という声が圧倒的多数になった。大元帥とクーパー中将の敵討ちを誓う国民の声と軍内部からの突き上げに圧倒され、ウォルフもついに宣戦布告せざるを得なくなった。イザベラはラウルと中将の死は戦争をしたい父の陰謀に違いないと考えたが、証拠はどこにもなかった。
国の内部が混乱を極めていたエストリア暫定政権は圧倒的な軍事力を誇るアリトリアからの攻撃を受け、三か月も持ちこたえることができなかった。中枢部を破壊され、壊滅的な被害を受けたエストリア軍はアリトリアに全面降伏した。かくてエストリアはアリトリアに併合され、グスタフを頂点とする絶対君主制に逆戻りした。
二つの国の専制君主となったグスタフは話があるからとイザベラを部屋に呼んだ。上機嫌だった。
「軍人のくせにお前の夫は意気地がないと一度は失望したが、この度はルカシュ新総司令官として責任を全うしてくれた。二国は統一された。将来お前が女王となれば残るウェスタリアとの約束が果たされ、実質的におまえは三国の女王となる。次の問題はお前の後継者だ」
イザベラは驚いた。
「私の継承者としてどなたをお考えですか」
「お前の子供に決まっている」
イザベラは父の気は確かかと思った。
「私には子宮がないことを父上はご存じでしょう」
「子宮はなくとも卵巣はあるから子供は持てる。今では代理母と言う手段がある」
驚いて口がきけない娘にグスタフは説明した。
「お前の卵を人工授精させて代理母の子宮で育てる。今や医学の発展でそれが可能になったのだ。おまえが産まなくともアリスティア王家の血を受け継ぐ子どもは生まれる。その子を名家の養子にし、王位継承者として指名すればよい」
「でも、ウォルフは賛成してくれるでしょうか?」
グスタフは心外だという顔をした。
「だれがあの男の子どもと言った。あれはどこの馬の骨とも知れぬ身分だ。お前は六百年続いた王家の血を引く王女だぞ。精子提供相手はそれなりの身分でなければならん。すでに候補者も絞ってある」
「そんな話、ウォルフが承知するとは思えません」
「あの男の考えなどだれが気にするというのだ。あれの役割はもう終わった。さっさと離婚し、今度こそお前は王女にふさわしい身分の男と再婚する。そして実子を養子とし、将来の王位後継者を確保する」
ウォルフの役目は終わった?離婚する?イザベラは彼女の方から離婚話を持ち出せば夫はさぞ喜ぶに違いないと思い、しばらく無言だったが、やがてこう言った。
「私は三国の女王になりたいなどと思いませんし、不自然なことをしてまで後継者を持ちたいとも思いません。もし私の代で王政が終わるならそれが神の思し召しでしょう。ウォルフと離婚する気はありません」
グスタフは急に不機嫌になった。
「お前がそんな考えとは知らなかった。それならば王家存続への残された道はただ一つ。私が再婚し、子供をもうける。おまえの役目はもう終わったと知れ」
ウォルフはエストリアの現状報告のために国王とイザベラの住処であるシオン城にむかった。報告後、ウォルフは久しぶりに妻と二人きりで再会することになった。
「見事な勝利、おめでとうございます」とイザベラは言った。
「ああ」と彼は言ったが、少しもうれしそうではない。
「何か気がかりなことでも?」
「エストリアでは多くの犠牲者が出て、町も破壊された。この国からも犠牲者は多数出たのに、喜んでいる者の神経が分からない。同じ民族同士が争うだけでも悲劇だが、最大の被害を受けるのはいつも最下層の者たちだ。国王もあなたも彼らのことなど何とも思っておられないようだが」
「戦争には多少なりとも犠牲がつきものです。幸いにもアリトリアの犠牲はわずかでしたし、あなたは総司令官として責任を果たし、立派な実績を積まれました」
「責任と言えばあなたは前線の兵士を慰問されたそうだな。兵士たちは感激し、泣いている者さえいた」
「慰問は王族の仕事です」
「あなたの慰問が王家に対するイメージ改善に大いに貢献したのは認める。何もかもあなたの思惑通りだ。あなたは常に冷静で、人が殺されても顔色一つ変えない。父上によく似ておいでだ。さぞ立派な女王におなりだろう」
夫の皮肉にイザベラは思わずかっとなった。
「ワインに毒を盛ったのは私だとお考えのようですが、それは違います。エストリアはワインの瓶から薬物は発見されず、デカンターから発見されたと先日ようやく発表しました。つまり薬物が混入されたのはエストリア国内です。私はあなたの身に何かあってはいけないと案じて自衛策を考えただけです。なぜ薬物をワインに仕込んだのが私の仕業だとお考えなのか、理由をお聞かせください」
「出された酒は飲むな、と私に助言したのはあなただ。最初からあなたは薬物が入っていると知っていた。毒はダンカンには無害だったから、おそらく養父が服用していた薬と飲み合わせの悪い薬物を使ったのだ。養父の病気を知っていたのは主治医や私や司令部の一部の人間を除けば国王やあなたくらいしか考えられない。そして、薬物に詳しいのはあなただ。あなたは南米でルクレツィアと呼ばれていたほどだからな」
「マスタフ総司令官はやはりご病気だったのですか?いったい何の?」
イザベラの驚いた様子は演技ではないとさすがにウォルフにもわかった。
「養父は心臓病のため薬を飲んでいたが、その病気のことをダンカンは知っていた。この耳で聞いたのだから確かだ。デカンターに入っていたワインから薬物が発見されたのなら、エストリア内で薬物が盛られたのだ。エストリアは未だに薬物の正体を発表していない。となれば犯人はやはりダンカン、もしくはその腹心だということなのか。。。」
ウォルフはしばらく沈黙していたが、やがてこう言った。
「許してほしい。国王とあなたを陰謀の首謀者と思い込み、大変申し訳ないことを言った。私はあなたのおかげで少なくとも養父の敵討ちができたのだから感謝しなければ」
「毒を盛ったのが私たちでないと分かっていただければそれで十分ですわ」
イザベラはそう言ったが、内心は元帥暗殺の犯人は父だと確信していた。父がマスタフ元帥の病気を知らなかったはずがない。薬物学者と話し込んでいたのも事実だし、エストリアにスパイを送り込んでいたのも事実だ。元帥が心臓病持ちだったとすれば暗殺に使ったのはおそらく強心配糖体だろう。
今回イザベラの介入でダンカンも死に、薬物を仕込んだのはダンカン自身だったという疑いをエストリア国でさえ消すことができず国内が混乱したのは父にとっては願ってもない幸運だった。つまり、彼女自身も父の野望に手を貸し、戦争をしかけた首謀者なのだ。イザベラは自分の手は多くの戦死者の血に染まっていると考え、一瞬背筋が凍った。
イザベラが黙ってしまって気まずいのか、ウォルフは話題を変えた。
「国王の希望通り二国は統合したが、そう簡単にエストリアの人々が併合に納得するはずもない。デモやテロ行為は増え、治安は悪化の一途だ。軍を派遣し、旧エストリアの軍とともに制圧に努めてはいるのだが。。。」
そう言ってからウォルフはイザベラを見た。
「あなたに子供が望めないことはむしろ幸いだった。あなたが王位を継いでも、その次の後継者は不在だ。となれば、最終的に旧エストリアとアリトリアの国民が国の形を選択することになる。それは祖国にとってむしろ幸いなことだ」
「あなたご自身は子どもを産めない女と結婚などしたくなかったでしょう。女として価値がありませんもの」
ウォルフはイザベラの言葉に驚いたようすだった。
「イザベラ、それは誤解だ。子供に恵まれない夫婦はいくらもいるし、そんなことで女としての価値がないと考えるのは愚かだ」
イザベラはウォルフの目を見た。澄んだ青い瞳は彼の純粋さを象徴しているようだった。イザベラは彼に愛される望みがないのに彼を諦められない理由をはっきりと自覚した。
「あなたとの結婚に気が進まなかったのは事実だが、子供のことが理由ではない。私は平凡な人生を歩みたかったのに、相手が王女となれば否応なく大きな運命の渦に呑み込まれてしまう。それが恐ろしかったのだ。そして、それは現実となった」
彼はため息をついてイザベラに背を向け、窓の外を眺めた。彼は不幸なのだ。その原因はイザベラと結婚したことだと訴えているようにも見える。イザベラはたまらなくなった。
「私もあなた同様、父の野望を叶えるための道具です。女王になりたくないと父に言うと、それなら自分が再婚して子供をもうけるといいました。私はもう用なしだとも。あなたは王家の捨て駒だと言われましたが、私も同じです」
「まさか。父親が実の娘を捨て駒だと考えるはずがない。ましてあなたは王家の血を継ぐ大切な一人娘だ」
「いいえ。子供を産めない王女など父には何の価値もありません。仮に父が再婚し、男子が生まれれば私は邪魔なだけ。けれど私を女王にしなければウェスタリアとの同盟が反故になりますから、私が死ぬことこそ父には一番都合がよいでしょう」
「あなたはずいぶん極端なことを言われる。仮にそうだとしても、国王にふさわしい結婚相手が容易に見つかるとは限らないし、再婚して男児が生まれるとも限らない。王妃を亡くされて以来国王はずっと独身だった。そろそろご自分の幸せのためにも再婚を考えてもよい時期だろう」
ウォルフはイザベラに向き直った。
「あなたは自分では気づいていないのかもしれないが、考え方が国王によく似ておられる。そして、国王から次期女王にふさわしい器と認めてもらいたいがために強迫観念に陥っておられるようだ」
思っても見なかった言葉にイザベラは何と答えてよいか途方に暮れ、茫然とした。私の考え方が父に似ている?父に次期女王としてふさわしいと認めてもらいたい、ですって?どこをどう押せばそんなバカげた考えが出てくると言うの?
だが、それで話は終わったとばかり、ウォルフはそのまま軍司令部に行ってしまった。
ワインに毒を入れたのは自分ではなかったと分かってはもらえても、夫と自分の距離は縮まるどころか遠ざかる一方だとイザベラは悲しく思った。
二国の専制君主として返り咲いたグスタフは避暑地にあるシノン城で自分のお気に入りのカルヴァート副司令官と内密の話をしていた。
「旧エストリアの反乱分子にウォルフは手を焼いておる。彼はダンカン大統領の暗殺容疑者だからエストリアではまるで人気がない」
「エストリアの人々は今やルカシュの傀儡となり自由な行動を制限しようとする旧エストリア軍に対して強い反感を持っているようですな」
「わが軍司令部の多くの貴族将校も成り上がりのウォルフ=ルカシュを嫌っている。そこでだ、旧エストリアとウェスタリアの人々を喜ばせる計画がある。彼はダンカン暗殺の容疑者だから、彼が死ねばエストリアの人々はさぞ溜飲が下がるだろう。また、メザリアンスに不満なウェスタリアの人々はイザベラが今度こそ身分にふさわしい夫と再婚することを歓迎するだろう」
「もちろん実力がないのに王女の夫であるという理由だけで元帥に出世したルカシュを快く思わない者はアリトリアにも多いですから、彼の死を歓迎する者は多いでしょう。だが、王女にとっては夫です。王女がどう思われるか」
「イザベラとウォルフが仮面夫婦だということは公然の秘密だ。あの二人の間に愛情など存在しない。それに、ウォルフの死はイザベラに好都合だ」
「と言いますと?」
「イザベラが離婚を渋るのは自分を愛さない夫が他の女と結婚して幸せになるのが許せないからだ。下らぬ女のプライドだよ。だが、夫が死ねばそんな問題は解決だ。娘はまだ若いし、あれだけの美人だ。時代も変わり、医学も進歩した。少なくとも三十五歳になる前に今度こそ王女にふさわしい身分の男と結婚させる」
「国王自身が再婚されるとのうわさも聞き及んでおりますが?」
「否定はしない。だが、イザベラが次の女王になることがエストリアとの同盟の条件だからそれを反故にするつもりはない。イザベラの帝王教育に私はずいぶん投資をした。それをムダにしたくはない。あれは美人でマスコミ受けするし、新しい時代に即した考えを持つ女王として国民に高く評価されると期待している」
「国王がそれほど王女を買っておられるとは意外です。では、王女に政治的な発言をすることを許しておられないのはなぜですか?」
「下手に政治的発言をすると政敵を作る。最悪の場合暗殺される恐れもある。だから時期を待っておるのだよ。時代が変わりあれが女王として登場する新たな舞台が完成する日を、な。そのためにも邪魔者はさっさと消えてもらわねば。さて、ウェスタリアとの合同軍事訓練の予定はどうなっていたかな」
旅行の途中でたまたまシノン城に立ち寄ったイザベラは反ウォルフ派の筆頭であるカルヴァート副司令官が父とともにウェスタリアとの合同軍事訓練を計画していることを知った。その訓練でウォルフが先頭の戦車に乗り込む予定だとも聞き、彼女は不安になった。父と副司令官はこの訓練を利用し、ウォルフを葬ろうと考えているのではないだろうか。
イザベラは父の書斎に盗聴器を仕掛けた。彼女が父の書斎に出入りしても誰も不審に思わないため楽な仕事だった。間もなくイザベラはまさに求めていた情報を入手することができ、暗号文手紙文で夫に知らせた。
その日の軍事訓練はウォルフの現場到着が大幅に遅れたために急遽一時間延長されることになった。時間を守らない司令官に現場の兵士たちは大いに不満を持った。ところが、その場に留め置かれた、彼が搭乗する予定の戦車は訓練開始予定時間から三十分後に爆発し、炎上した。無人だったため犠牲者はおらず、整備のために近くにいた技術者が軽いけがをしただけだった。
犯行声明はなかったが、アリトリアではルカシュ総司令官が乗る予定だった戦車に爆発物を仕掛けたのは旧エストリアのテログループだということになり、ウォルフは軍を大幅に増員してテログループ弾圧にかかった。多くのテロ首謀者が拘束され、指導者と目された者が処刑された。
強い弾圧のためテロ行為は治まり、治安が回復して旧エストリアの人々はとりあえず沈黙したが、アリトリア国王と軍、特にウォルフ=ルカシュ総司令官に対する旧エストリア国民の反感はますます大きくなっていった。
ウォルフはイザベラのいるシオン城を訪れていた。季節は初夏で、二人は花が咲き乱れる庭を散歩していた。はた目には美男美女の夫婦が愛を語りながら美しい庭園を散策している、一服の絵のように見えた。
「またあなたに命を助けられた。国王がそれほどまでに私を亡き者にしたい理由は何だ」
「それはあなたの存在が旧エストリア国民にとってのアリトリア国に対する反感の主因だからです。あなたがいなくなれば旧ダンカン派の人々も溜飲が下がり、王政復古を受け入れる気になるでしょう。また、父は穏健派の故ルカシュ元帥の一派をきらっております。反ルカシュ派の司令部と組み、あなたとあなたに味方する故ルカシュ元帥派を一掃できれば父にとっては軍を支配しやすくなります。軍を支配する者が勝者だとは昔からの格言です。あなたが言われたように、父は野望のためならだれでも捨て駒にします。今回密告したのが私とわかれば私も無事ではすみません。その前に手を打たなければ」
「私はともかく、国王が実の娘を殺めるなど考えられないが」
「いえ、私は子どもが産めない以上、価値のない娘です。それに、今度のことで内通者は身近にいると父は確信しました。それが私と分かるまでにそう時間はかからないでしょう。そうなれば私も終わりです」
「いくらなんでも、それはないだろう」
「いいえ、あなたはそう言われますが、父は裏切り者を絶対許しません。ぐずぐずしていれば私たちは二人とも殺されます。その前に反撃しなければ。毒殺、あるいは事故に見せかけるのです。もしあなたが実行することができないと言われるなら、私がこの手で。。。。」
ウォルフは驚いてイザベラを見た。
「あなたは本気で言っているのか」
イザベラは沈黙した。自分が内通者だと知ったら父はどうするだろう。もちろんただでは済まないだろうが、ただ一人の王位後継者である自分を殺すだろうか?だが、ウォルフに迫っている父の魔の手から彼を守らなければならない。
イザベラが何も言わないのでウォルフは言った。
「どちらにしても私がやるしかない。あなたはこの件についてはできるだけ関わらない方が良い。あなたを父親殺しにするわけにはいかないし、命を狙われているのは私の方なのだから」
彼は自分の手を見つめた。「この手はすでに多くの人の血に染まり、マクベス夫人のように、海の水で洗っても取れないほど汚れてしまった。今更少々増えたところでどうということはない」
そうさせたのは自分だ、とイザベラは思った。そして自分の手こそ血にまみれていると思った。彼はあれほど自分との結婚を嫌がったのに、私が彼と結婚したくて彼をこの運命に引き込んだ。そしてその結果、自分も彼も幸福な結婚生活とは全く縁のない生活をしている。。。
「今ならまだ父の詳しい予定やスタッフ配置などの情報は入手できますが、私が疑われればただちに入手できなくなります」
「わかった。できるだけ早く手を打つ。今月と来月の国王の詳しい予定をいつもの暗号文の手紙で送ってほしい」
そう言ってウォルフはイザベラを見つめた。
「あなたには何度も命を助けてもらい、感謝している。だが、あなたを妻として愛することはできない。戦争犠牲者に対しても何ら心を動かすことなく、自分の父親の暗殺を平気で語る、およそ人間らしい感情を持たない人を愛することなど私には不可能だ」
ウォルフはそう言うとイザベラに背を向けて足早に宮殿を後にした。イザベラは夫の言葉に衝撃を受け、その場に立ちすくんだ。そして心の中で叫んだ。
でも、私はあなたを愛している。だからこそあなたを守るため精一杯のことをしている。どうしてそれが分からないの?
それから間もなくグスタフ王とカルヴァート副司令官を乗せた車が暗い山道のがけから転落し、運転手を含む三人の死亡が確認された。突然の国王の死に国中は騒然となった。
ウォルフは王国の総司令官として弔辞を読み、グスタフ王の業績をたたえて丁寧な国葬を主宰したのだが、むしろそれは彼への反感を煽った。グスタフ王が必ずしも好きでなかった人々さえ王の死を悲しみ、イザベラに同情した。最初は旧エストリアのテログループによる殺人だとマスコミは報道し、多くの国民もそう信じた。現場調査でブレーキの欠陥を思わせる形跡が認められ、ますますテロの疑いが強まったが、なぜかそれ以上の調査が上部からの圧力で中止になったことが分かるとアリトリア国内の何者かによる陰謀説がささやかれるようになった。
国民の一部は次のように考えた。国王と副司令官はルカシュ総司令官に殺害されたのだ。あの成り上がり者は邪魔者を消して権力を独り占めしようとしている。イザベラ王女は外国育ちで国の政治が何もわかっておられないため成り上がりの夫にいいように操られている。一刻も早く夫の正体に気付いて離婚するなり、夫を追放してもらわねば困る。
人気があった国王とは言えないにしろ、アリトリア国内ではグスタフ国王の事故死により旧エストリアの反アリトリア派とウォルフ=ルカシュへの反感を高め、アリトリア王家支持者の間でも立場の違いが顕著となった。それはウォルフを離婚しようとしない次期女王イザベラへの不信にもつながり、国中が混乱した。そんな中、イザベラによる初の公式声明が行われると発表があり、全世界が注目した。今まで彼女は公式な場で政治的な発言をしたことは一度もなく、王室の広告塔として大衆を魅了することはあっても政治的には存在しないも同然の次期君主だったからだ。
記者会見は三国のマスコミ関係者を集めて行われた。記者会見は三国に同時中継される予定で、ウォルフもイザベラが何を言うつもりなのかと司令部でテレビに注目していた。会場に現れたイザベラは美しいだけでなく、堂々としていた。彼女は演台に立つと優雅に宮廷式の一礼をし、こう切り出した。
「この度の不幸な事故で父グスタフがいかに国民の方々に愛され、慕われていたかを知り、娘として本当にうれしく、また有難く思っております。それに加え、多くの方が私を次期国王として認めてくださっていることも有難いと思っております」
イザベラは一呼吸置いた。
「しかし、私自身は生得権により国王を名乗り、専制君主としてアリトリアと旧エストリアを支配するつもりはまったくありません。父の崩御とともに今までの専制君主制に終止符を打ち、私は王家の特権と称号を捨て、今後はイザベラ=アストリア=ルカシュと言う、皆さんと同じ、一人の国民、市民になることをここに宣言します。そして、父から受け継ぐ王家の資産はすべて国庫に帰属するものとします」
この爆弾発言に居合わせた報道陣もあっけにとられた。
「ウェスタリアの皆様には約束を果たすことができず申し訳ありませんが、今はもう君主制の時代ではありません。私は幼いころ外国で暮らし、様々な政治体制の下で教育を受けてきました。それぞれの国の歴史や文化にふさわしい政治の体制は様々でしょうが、それは国民の総意によって決められるべきだと考えるに至ったのです。仮にこの私が祖国を治めるとするならば、それは王家に生まれたからでなく、それにふさわしい能力がある人間として皆さんに認められ、選ばれたからでありたいと思うのです。ですから、私自身はこの国が国民の直接選挙で選ばれる大統領による共和制になることを望みます。ですが、どのような形にするかは国民の総意で決めることだと考えます。次期女王としての皆さんへの最初で最後のお願いは、今後一年間の服喪期間中に国民投票で国の政治体制を決めていただくことです」
しばらくイザベラは沈黙した。彼女の前のマスコミ陣は相変わらず茫然とし、ウォルフも驚いていた。イザベラがこんなことを言い出すとは想像もしていなかった。もちろん大多数の国民もそうだろう。イザベラは続けた。
「父の事故死について陰謀説が横行し、そのために国が乱れているのを大変悲しく思っております。国内の対立は内乱の原因、外国に付け入るスキを与えます。私はここではっきりと、父の死は不幸な事故以外の何ものでもないと断言いたします。根も葉もない陰謀説に踊らされ、国が分裂し、国民同士が争うことがないよう強く願います。そして、次の政治体制が国民の皆さんの意思で決定されるまでは私の夫、ルカシュ総司令官による暫定軍事政権を受け入れてくださるようお願いします。今、祖国が最も必要としているのは秩序だからです」
イザベラはカメラをまっすぐ見た。強い意志が感じられる瞳だ。
「そして皆さんにぜひ理解していただきたいのですが、夫は信頼に足る人物です。数々のうわさがあるのは承知しておりますが、私自身は夫の潔白を信じ、全面的に信頼し、彼の能力を高く買っております。思い出してください。彼は皆さんに敬愛されていたマスタフ=ルカシュ元帥がその人物を見込んで養子にし、亡き父が王配にふさわしいと考えた人物です。エストリアとの戦争も可能なら避けたいと彼は努力しました。戦争が不可避になり、その結果多くの犠牲者を出したことを彼が心から悲しんでいたのを私は身近で見て知っています。平民出身という理由で、あるいは秩序や治安を得るために武力を行使せざるを得なかったという理由で彼に偏見を持たないようにしていただきたいのです。残念なことではありますが、国の統治は武力無しでは不可能です。無差別テロを許さないという国の断固たる意志を示すために武力を行使することは最善策ではないかもしれませんが、秩序を得るためには必要なことです。私から国民の皆さんへのメッセージは以上です」
会見台から降りたイザベラは再び宮殿式のお辞儀をした。優美な女神のようだ。
テレビを見ていた大衆はその発言内容の意外さとイザベラの優美さに呆然としていたが、やがて「イザベラ王女万歳」という歓声がどこからともなく上がった。間もなく彼女を讃える声は怒涛のように全国に広がっていった。
イザベラの記者会見後、国内で起きていた暴動や対立が嘘のようにおさまり、君主制廃止後の政治体制が国民投票により決定するまでルカシュ総司令官による暫定軍事政権を受け入れることがすんなり決まった。ウォルフは長い歴史に裏付けられた王家の人気、イザベラの気品と威厳、カリスマ性、演説力に脱帽する他なかった。
会見を終えた妻をウォルフは司令部に招いた。称号を捨て平民となったイザベラは結婚後初めて自分より地位が上位となった夫のもとに現れた。
「お招きを頂きまして、閣下」とイザベラが言った。
「閣下?なぜそのように私を呼ぶ?」ウォルフは戸惑った。
「あなたは国のトップですが、私は一市民ですから、このようにお呼びするのがよろしいかと。それに、あなたもよくご存じのように、私たちは本物の夫婦とは申せない間柄ですし」
イザベラの皮肉にウォルフは顔をしかめたが、気を取り直してこう言った。
「あなたには本当に感心した。あなたは王家出身で大変な美人であるというだけでなく、生まれついてのスターというか、カリスマ性がある。あなたの発言であれだけ荒れていた国が落ち着き、私の軍事政権がすんなりと受け入れられた。私自身も三国が統一されるならそれがベストだと思う。どのような形にせよ、国民の総意で国の形を決めるのが一番望ましいと考えるのもあなたと全く同じだ」
そう言ってウォルフはイザベラに向き直った。
「あなたが国民の前で私の弁護をしてくれたのはありがたいが、国民の多くはあなたが女王になる前に何かと悪評のある私と縁を切るよう望んでいた。記者会見後、あなたの人気は全国でうなぎのぼりだから、あなたの希望通りこの国が共和国になり、初の大統領選にあなたが選出される確率は非常に高い。いや、確実と言ってよい。今や私との結婚を続けることはあなたに何のメリットもない。この際、離婚こそがお互いのためと思うのだが」
イザベラは動揺したが、それを悟られないように体の向きを変え、窓の外を見た。
「もし大統領に選ばれても、王家の特権を放棄した今の私には軍を統治する力もお金もまったくありません。政治を行うには閣下の財力と軍の後ろ盾がなければ不可能ですから離婚は私にとってマイナスばかりです。共同統治者となっていただくか、少なくとも配偶者として協力していただかなければ」
ウォルフはため息をついた。
「要するに汚いことをするための金と武力が今のあなたには必要だというわけだな」
なぜそんなことを言うの、私はあなたを愛している、あなたが必要だと言っているだけなのに、とイザベラは思った。だが、そう言ったところで妻を理解しない夫にはわかってもらえそうにない。
「よろしい。当分離婚はせず、天使のようにピュアで女神のように美しいあなたのイメージのため、全面的に汚れ役を引き受けよう。だが、私が他所に慰めの場所を、別の女性を求めたとしても不満は言わないでほしい」
そう言うと、ウォルフは側近に合図をし、妻の退出を促した。誇りを傷つけられたイザベラは冷静さを装って部屋を出て行くのが精いっぱいだった。
アリトリアと旧エストリアの人々は共和制を選び、大統領を国民の直接選挙で選ぶことで一致した。ウェストリアはとりあえず自治国にとどまり、仮にイザベラが大統領として選ばれた場合、政治家としての手腕があると証明できるなら共和国に加盟してもよいという結論になった。
初の大統領選挙にイザベラは当然のごとく名乗りを上げ、他の多くの候補者と争うことになった。しかし、人気、知名度、カリスマ性、どれをとっても若干三十三歳のイザベラを超える候補者はいなかった。選挙の結果イザベラは圧勝し、王家の家名であるアリストア大統領を名乗った。そしてウォルフは二国の総司令官として、そして大統領の夫として君臨することになった。
イザベラは側近に実務経験のある専門家を配し、彼らの意見に耳を傾け、世論にも耳を傾け、注意深く仕事をした。多くの外国語や文化に通じていること、外国で受けたリベラルな教育と国際感覚に加え、伝統的な帝王教育をも受けて自国の歴史、文化、法律に通じていることは非常に有利だったし、王女時代の人脈も豊かだった。教育や福祉に力を入れ、伝統的な男尊女卑を廃止し、男女に公平な社会体制を推進したため国民の受けは非常に良かった。王家の特権を自らすべて捨てたこと、美人であること、また上手な演説でイザベラは大衆を魅了し、その人気は衰えを知らなかった。
イザベラ自身もいまや政治に生きがいを見出していた。イザベラの母親の出身地であるウェスタリアではもともとイザベラの人気は高かったが、政治家としての能力が証明されると国民からアリトリア共和国への合併を望む声が大きくなり、国民投票でウェスタリアも共和国の一部となることが決定した。7年の任期を終え、二期目の選挙ではウェスタリアでも圧勝し、ついに三国はアリトリア共和国として統一した。これでグスタフの悲願であった三国統一が戦争ではなく国民の総意により実現し、イザベラは女王としてではなく、国民の総意に基づく大統領として三国に君臨した。
だが、政治家として成功する一方で、夫のウォルフは日々彼女から距離を置き、若い愛人に夢中になっている事実を妻に隠そうともしなくなっていた。
ウォルフの愛人については次々にいろいろな女性の名前がうわさされては消えたが、この何年か彼が熱心に付き合っている相手の名前はマイラと言った。イザベラも週刊誌でマイラの写真を見た。美人と言えば美人だが、下品な感じの小娘だった。自称女優だが、おそらく娼婦上がりと思われた。イザベラがその存在を知った時マイラは十九歳だったので、当時四十四歳になっていたウォルフにとっては娘と言ってもよいほどの年齢差だった。マイラはイザベラと同じ金髪、碧の瞳をしており、陶器のような肌の持ち主だ。若さを失いつつあるイザベラはマイラに嫉妬した。大統領の夫の愛人は若いころのイザベラに似ているとうわさする者がいることもイザベラの気に障った。
ルカシュ総司令官が娼婦上がりの若い女性と浮気をしているということは公然の秘密で、イザベラへの同情から彼への反感が高まっていた。エストリアではダンカン大統領とその息子のラウルを殺害したのはルカシュの仕業だという陰謀説が再びささやかれるようになり、軍部への反感から一部で暴動が再発した。旧アリトリア国軍の反ルカシュ派が暴動をあおっていることも考えられた。同時にアリトリアではグスタフ王の死は事故でもテロでもなく、国王暗殺を計画した者の手による陰謀だとする噂が再び公然とうわさされるようになった。今まで何かと夫を弁護してきたイザベラも、マイラのことが明るみに出てからは傍観することが多くなり、ウォルフへの批判は日増しに強くなっていた。国民から二人の離婚を求める声も再び強くなっていた。
それまでもウォルフは何度も妻に離婚を要請していたが、イザベラは意地になっているかのように承知しなかった。ついにしびれを切らしたウォルフは強硬手段を取るしかないと腹を決め、妻にこう宣言した。
「イザベラ、もう限界だ。あなたがどう出ようと、私はあなたと離婚してマイラと結婚する」
「あの、娼婦上がりの小娘と結婚?本気でおっしゃっておられるのですか?」
「もちろんだ。私たちは深く愛し合っている」
「それは本当なのでしょうか。いずれにせよ、いつも言っていますでしょう。離婚はしません。職務を果たすため私にはあなたが必要です。」
「それは違う。あなたはもう大統領として十分以上に実力をつけ、私の力など必要ない。あなたは軍部にも広く支持されているから私が辞めても何も困らない。総司令官の代わりなどいくらでも見つかる。どうしても離婚を拒否すると言うのなら、最終手段として昔のあなたの手紙を公表する。公表されれば今まで私が手を下したとされる悪事のほとんどがあなたとの共謀ということが明らかになる。あなたにとって致命的だ」
イザベラは驚いた。昔の手紙をウォルフが持っている?
「手紙はすべて焼却するように言っておいたはずです。ということは、後で私を脅迫するために取っておいたというわけですね」
「あなたを脅迫しようしているのではない。離婚に応じてくれるなら私が生きている間は手紙の公表は絶対にしない。私はただ、離婚を受け入れ、マイラとの結婚を許してほしいと言っているだけだ。政治資金が必要と言うなら、私の私有財産の三分の二をあなたに渡す。マイラのためなら何を犠牲にしてもかまわない。命も惜しくない」
「そこまでおっしゃるとは驚きです。マイラとかいう女のどこがそれほど魅力的なのか教えていただければ幸いですわ」
ウォルフは一瞬ためらったが言葉を選んでこう答えた。
「最初に会ったとき、彼女は十八歳だった。正直に言えば外見があなたの若いころに少々似ているので興味を持った。今でもあなたは十分美しいが、若い頃のあなたはまさに輝くばかりで、男ならだれでも夢中になった。もちろん私もあなたの美しさに目を奪われた。だが、生まれついての王者であり、支配者であるあなたには弱者への思いやり、優しさ、温かさ、そういったものが全く欠けていた。あなたのそばでは一日たりとも心の休まる日はなかったのだ。だが、マイラは違う。彼女がそばにいると私は幸福なのだ」
「そうですか。。。」
イザベラは敗北感に打ちひしがれた。彼女はウォルフを守り、彼に愛され、二人で幸せになりたいと強く願っていた。彼を生命の危険から守ることはできたが、彼を幸せにすることも自分を愛させることもできなかった。
これ以上離婚を拒否していても誰も幸せになれない。夫も自分自身もみじめになるばかりだ。もはや自分にできることは何もないとイザベラは観念した。
「わかりました。離婚に同意します。でも、私にも条件があります」
「なんだ」
「あなたがマイラとの間に子供を作らないことです」
「そんなことなら承知した」
それで離婚は成立した。ウォルフはすべての役職を降り、離婚の慰謝料として私有財産のほぼすべてをイザベラに譲った。一個人となったウォルフはマイラと結婚し、彼女の生まれ故郷であるウェスタリアの片田舎に移り住み、ひっそりと暮らし始めた。だが、彼らの穏やかで幸せな生活はそう長くは続かなかった。
国民は離婚を歓迎はしたが、ウォルフは何の落ち度もない立派な妻を捨てて若い愛人に走ったとして非難を浴びた。それのみでなく、彼がグスタフと副司令官を事故に見せかけて殺した確たる証拠を持っていると称する者が現れ、ウォルフの立場は非常に危うくなった。もはやイザベラが彼の立場を弁解する立場にないため、彼はグスタフ国王と副司令官の暗殺、ダンカン大統領暗殺、ラウル暗殺、果ては旧王国の公金横領容疑など、様々な罪で告訴された。
裁判ではあまり根拠のないうわさ話のような証言もあったが、少なくともグスタフ王事故死の件では国王の車を整備し、不審死を遂げた男性の息子が所有していた父親の残したメモ、さらに父親の友人による証言から整備士が車に細工をするよう命令されていたことが証明された。ウォルフは真偽があやしいものも含め、ほとんどの容疑をあっさりと認めたため有罪が確定し、銃殺による処刑が宣告された。妻のマイラはウォルフにもらった財産をすべて没収され、二度と国へ帰らないことを条件に国外追放になった。
死刑宣告を受けたウォルフが上訴する気がまったくないと知り、イザベラは平常心ではいられなくなった。すぐに獄中のウォルフに内密で面会する手配をした。イザベラの訪問は誰にも秘密だったため、ウォルフは面会人がイザベラと知って驚いた様子だった。
狭い面会室で二人は数年ぶりに顔を合わせた。ウォルフは痩せてはいたが、思ったよりは元気そうだった。
「処刑される前にあなたに一度会いたいと思っていたところだ。訪問してくれてありがたい」
「国王と副司令官の事故死に見せかけた暗殺容疑を含め、ありとあらゆる容疑を認め、死刑宣告を甘んじて受けられたそうですね」
「その通りだ。あなたも承知のようにほとんどが事実だから仕方がない」
「私は大統領ですから恩赦を与える特権があります。私の言うことを聞いてくだされば命を助けて差し上げます」
「ほう、私は何をすればよいのかな」
「あなたに差し上げた私の手紙ですが、いったいどこに隠しておいでですか。あなたの住んでおられた場所からは発見できませんでした。私にお返しくださればあなたを特赦にして差し上げます」
「手紙のありかは教えられない。あなたの恩赦を私は必要としない。私がこの手で多くの人を殺したのは事実だ。罪の償いをする覚悟はできている」
彼は自分の手を見た。イザベラも思わず自分の手を見た。ウォルフの罪は私の罪。二人の手はともに血にまみれている。。。
ふと、ウォルフが顔を上げた。
「だが、あなたに言っておくことがある。もしマイラにあなたが危害を加えるようなことがあれば手紙が公表される手はずになっている」
「私がマイラを殺すとでもお考えですか。それほど私は信用できないと?」
「信用したいとは思うが、状況は変わり得る。そして、私はマイラに約束した。どんなことがあっても彼女を守ると」
「そこまでマイラを愛しておられるのですか」
「そうだ。彼女も私を愛してくれている。あなたが離婚に応じてくれたおかげで、彼女との愛にあふれた時間を過ごすことができた。もう思い残すことはない」
「私と結婚したことをさぞ後悔しておられるのでしょうね」
「いや、今となってはそうでもない。自ら望んだことではないにせよ、捨て子の私が三国一の美女と評判の高い王女と結婚し、想像もしなかった地位と財産、権力を手に入れた。考えてみればこんな幸運な人生などめったにあるものではない」
「でもあなたは私との結婚を嫌がっておられた」
「メザリアンスだったのだよ、私たちは。うまくいくわけがない」
「マイラはあなたと同じ最下層階級出身ですわね」思わず言って、イザベラは失言を後悔した。ウォルフは苦笑いした。
「その通りだ。あなたと私では価値観が違いすぎる。マイラと私は考えが一致するのだよ。あなたは王家に生まれ、将来の統治者となるべく教育を受けた。そして、あなたはまさに統治者にふさわしい逸材だった」そう言ってからウォルフはこれが最後と、イザベラを見つめた。
「イザベラ、結婚の日に私はグスタフ王とあなたの野望のために捨て駒になるのはごめんだと言った。自分には関係ない王家の野心のために生贄にされるのはごめんだったからだ。だが、今はあなたのためなら喜んで捨て駒になろうと思う。あなたは亡き国王の悲願だった三国統一を果たし、故国を立派に統治している。しかも、生得権がある女王としてではなく、国民の総意に基づく統治者として、だ。あなたはまさに祖国の誇り、全国民の誇りだ。私はあなたの国家統一に多少なりとも役立てたことを名誉に思う。そして、私の死であなたの名誉が保たれ、あなたの地位が安泰になり、国家が安定するなら、それは望むところだ」
ウォルフは話すべきことはすべて済んだ、と言うように立ち上がり、ドアに向かった。イザベラは思わず彼の背中に向かって叫んだ。
「私はあなたを愛しています。ずっとあなただけを愛しているの。お願い!私のために恩赦を受け入れてください!」
ウォルフは立ち止まった。だが、振り返りはしなかった。
「ありがとう。だが、恩赦を受ける気は全くない。あなたの気持ちにずっと気付かないほど鈍い私でもなかったが、気づいたときには手遅れだった。あなたへの気持ちは冷え切っていたからだ」
彼はドアの方に進もうとして、また立ち止まった。そして、低い声でこう付け加えた。
「イザベラ、私たちは幸せな夫婦ではなかったが、常にお互いを必要とした共犯者だった。私は二人分の罪をすべて背負って死に、あなたの過去を葬る。あなたの愛に応えられなかった不甲斐ない私をそれで許してほしい」
そう言うと彼はドアの向こうに消えてしまった。イザベラは茫然としていたが、やがて涙がとめどなく流れてきた。彼女は声を押し殺して泣いた。
やがてウォルフが銃殺により処刑されたと全国ニュースが流れた。イザベラはすでに覚悟していたのでその知らせを受けても動揺はしなかった。
ウォルフはイザベラの罪をすべて自分のものとし、彼女のために死ぬと言った。これ以上の愛の形があろうか。イザベラはそう考えることで妻としては愛されなかった自分を慰めた。
イザベラは三期目の大統領選にも圧勝し、三度目の宣誓式の日を迎えた。大統領は最長三期までと定められているので、これが彼女にとって最後の宣誓式となる。自分が任期を終えたときにこの国はどのような人物を次期大統領に選ぶのだろうか。
考えてみれば自分は幼少時から一国の指導者になるべく帝王教育を受けてきたのだが、そのような人物はアリトリアにはもう存在しない。絶対王政がほぼ存在しなくなった現在、将来の指導者として教育され、その責任を全うできる人間は世界中にどれほど存在するのか。
会場に向かいながら、今までの宣誓式にはウォルフが立ち会っていたことを思い出した。彼を何度も助けたと思っていたが、実は彼の存在こそが自分を強くしていたのだ、とイザベラは痛感した。彼を失った今、犯した罪が自分一人に重くのしかかる。その重圧に押しつぶされそうに感じたイザベラは倒れかけた。傍にいたボディーガードがあわてて彼女を支え、心配そうにのぞき込んだ。
「ありがとう。慣れないハイヒールなので」
イザベラは微笑み、姿勢を正して会場に進んだ。イザベラの姿が会場に現れると集まっていた国民が一斉に「イザベラ万歳!」「アリストア大統領万歳!」と叫んだ。会場は熱狂の渦に包まれ、三期目を迎えてもイザベラの人気が不動のものであることを証明した。イザベラ自身もあまりの国民の熱狂ぶりに圧倒された。イザベラは国民の前でにこやかに手を振った。大きな歓声が上がる。
従弟叔父殺し、父親殺しで、父にも最愛の夫にも愛されなかった私を国民はこれほど愛してくれている。全幅の信頼を寄せてくれている。何と有難いことだろう。だが、大衆は気まぐれだ。この人気が三期目の終わり、つまりこれから七年間続くかどうか保証はない。民衆の心はいつか必ず私から離れる。それはマイラが手紙を公表し、私の犯罪が明らかになる日かもしれない。
ふとイザベラは、マイラは自分のことをどう考えているのだろうと思った。愛する夫、ウォルフを処刑台に送った憎むべき敵?それともウォルフに愛されることのなかった哀れな妻?いずれにせよ、マイラが心からウォルフを愛し、彼を幸せにしてくれたのなら恨むよりむしろ彼女に感謝すべきだとイザベラは思った。そして、もしマイラが愛するウォルフを死刑にした女に復讐するために文書を公開するならばその時は潔く罪を認めようとも思った。
だが、それまでは、私は国民への信頼と愛に応え、自らの責任を果たしていかなければ。それが王家に生まれ、将来の統治者となるべく教育を受け、国民に統治者として選ばれた自分の使命なのだ。イザベラは亡き夫に呼び掛けた。
「ウォルフ、どうぞ私に力を貸して。神の摂理の働く日まで!」