5、不思議な監禁部屋
その後、グレースとアルフレッドはとある部屋に案内された。
そこはイラジュールの『恋愛鑑賞』用の部屋だった。
見た目は普通の部屋である。
しかし、その奥にはガラス張りのもう一つの部屋があった。
ガラスの向こうは一通り家具が並べられており、風呂場や厨房、トイレやベッドなどがある。それぞれ普通の壁によって区切られていたが、それらの中はすべてこちらから丸見えだった。
「……」
グレースは絶句した。
ここに今から下男のアルフレッドと入れられる。別にアルフレッドのことはそれほど嫌いではなかったが、今までそういう目で見たことが一度もなかったため、どうしていいかわからなくなった。
「さあ、さっそく始めよう。ああ、安心しろ。向こうからこちらは見えないようになっているし、音もどちらからでも聞こえないようになっている。だから思う存分、愛し合うと良い!」
「あ、愛し合うって……」
「期限は明日の朝までだ。今夜中に交尾ができなければどうなるか……わかっておるな?」
「そ、そんな……」
アルフレッドの顔を見ることができない。
今、彼はどう思っているのだろう、とグレースは気が気ではなくなった。
しかし、無情にも二人はその中に放り込まれ、鍵をかけられてしまう。
「……」
「……」
しばらく、長い沈黙が訪れた。
どうすることもできず、ただただ立ち尽くすことしかできない。
「お嬢様――」
先に口を開いたのは、下男のアルフレッドだった。
いまだその顔を見ることはかなわないが、どことなく弱弱しくなった声に、グレースはいたたまれなくなる。
「ごっ、ごめんなさい、アルフレッド。まさか、こんなことになるなんて……。わたしがあの商人にうんと言ってしまったから、だから、こんな……」
「お嬢様。言ったでしょう。私はこの先、どんなことがあっても受け入れると」
「……え?」
その言葉に、グレースはようやく顔をあげた。
そこにはやけに落ち着きはらったアルフレッドがいた。
「ど、どういうこと? わたくしとその……あ、愛し合うことを――」
「お嬢様が」
「えっ?」
グレースの言葉を、アルフレッドはさえぎるように言った。
「何もなさりたくないというなら、それに従います。生き残るために体を重ねようとおっしゃるのなら、それにもお付き合いいたしましょう。ですが、ひとつだけご理解いただきたい。私は……そのどちらを選ばれても、最後までお嬢様のお心とお体を守ることを誓います」
「アルフレッド……」
そう熱く言い切る下男に、グレースは言いようのない「何か」を胸の奥に感じた。
これは、いったいなんだろう。
深く考える間もなく、アルフレッドは続ける。
「あの買主は、期限が明日の朝までだと言いました。ですが『処分する』と言っただけで、殺すとは言っていません。ですから、まだ何かできることがあるかもしれません」
「で、でも……そんなことは楽観的な推測で」
「お嬢様、どうかもっとよくお考えになってください。私はあなたに傷ついてほしくありません。……旦那様も、きっとそれを望まれておられないでしょう。ですからゆっくり、どうするかお決めになってください」
「そんな……」
今まで、恋らしい恋などしたことがなかった。
そのままこんな不惑の年まで生きてきてしまった。なのになぜ、今更こんな重要なことを決めなければならないのか――。
自分には荷が重すぎると思った。
人の生死をあずかるより、ずっと大変だ。
きっと、こんなことは他人から強制されてすべきものじゃない。
本来はもっとたくさん時間をかけて決めることなのだ。
人を好きになるということ。
そしてその人に触れたいと思うことは――。
そこまで考えたところで、グレースは突然、長旅の疲れと精神的な疲労からめまいを起こした。
ふらりと体が傾く。
「お嬢様!」
すかさず、アルフレッドがその背を支える。
今。そのことを考えようと思った矢先だったのに――。
グレースは思いがけずアルフレッドに体を触れられて、何も考えられなくなってしまった。
「お嬢様! 大丈夫ですか。少しその辺で休まれた方が……」
そう言って辺りを見回すと、ソファとベッドが視界に入る。
アルフレッドはそのベッドの方に連れて行こうとした。が、グレースはそれを予期して足を踏ん張る。
今そちらはまずい。まずすぎる。
「ご、ごめんなさい、アルフレッド。あっちの、ソファにして……」
「かしこまりました」
アルフレッドはグレースをさっそくそこに寝かせると、すぐにどこかへ駆けだしていってしまった。途端にあちこちひっくり返す音がしはじめる。
やがて、静かになると、アルフレッドが戻ってきた。
その手には濡らした布が乗せられている。
「お嬢様、これで手や顔をお拭きください。あと、お腹も空いているでしょう。今なにか作ります」
「アルフレッド……」
「大丈夫です。私も腹ごしらえしないと、頭が回らないようですので……先ほどは、すみませんでした」
ソファではなく、いきなりベッドに連れて行こうとしたことを詫びているのだろう。
自分も、あんな風に言わなければ良かったとグレースは後悔した。こんな風に気を使わせてしまうなんて、雇用側として不甲斐なさすぎる。
「あの、お嬢様。食料の他に、さきほど着替えも発見いたしました。ですので体力が戻られましたらさっそくお召し替えを……お、お嬢様?」
「う、うっ……」
なぜか涙があふれて止まらなかった。
どうして、自分はこうなのだろう。この人のことを守ると誓ったのに。結局、何もできていない。グレースは泣き顔を見られたくなくて、もらった布を目元に押し当てた。
「お嬢様……」
アルフレッドはグレースの側にしばらくいたが、やがてすっと立ち上がった。
「少々お待ちください。今、ご用意してまいります」
そうして、しばらくソファで休んでいると。
やがていい匂いが部屋に満ちてきた。
これは屋敷でよく出されていた、野菜スープの匂いだ。料理長が得意だったもののひとつである。もう食べられないと思っていたのに。アルフレッドはいったいこれをどこで覚えてきたのだろう。
グレースは涙をぬぐうと同時に顔を拭いた。そして、手や、他に気になっていた箇所も拭く。
そして、改めて部屋を見回した。
周囲はどこも白い壁だった。
入って来た入り口は確実に透明なガラスだったのに、今は不透明で他の壁と違いがまったくなくなっている。
どういう仕組みなのかわからない。
もしかしたら魔法の類が施されているのかもしれない。
「わたくしの国にも王宮に魔法使いがいたし、この砂の国にももしかしたらいるのかもしれないわね……。でも、魔法なんて本当はまったく関係なくて、ひとえにこの国の製造技術が高いだけかもしれないわ……」
でも、そんなことはどうでもよかった。
問題は、この変なガラスの向こうに、今もあのイラジュールがいるということ。
こちらからはまったく見えないが、きっと今もじっと自分たちのことを観察し続けているに違いない。
あと、なぜ早く交尾しないのかと、やきもきすらしている可能性があった。
あの男が言った通り、外からの音はまったく聞こえない。
でももしガラスがそのままだったり、音も筒抜けだったら、グレースは恥ずかしすぎてすぐに死んでしまいたくなっていただろう。
アルフレッドがいるから、最後までそんな選択はしないが。
彼を残して、死んでしまうことはできない。
どうにかこの局面を乗り越えないと。
グレースはそう思って、不思議なガラスの壁から視線をそらした。