憑りつかれたキャロル
舞台の真ん中に立っていたのは、淡青色のドレスに身を包み、亜麻色の短い髪を晒した、キャロルであった。
彼女は、一歩進み出ると、ゆっくりと歌い始めた。普段とは違って地声の、それでいて透き通るような声。でも、どこか、狂気すら孕んでいるような、不思議な感じ。
強く袖を引っ張られる。ライリーが、いつになく真剣な、殺気立った表情を浮かべている。
「あいつ、憑かれてる」
「え?」
「行くぞ」
警備の人の静止を振り切り、舞台の裏側を目指して走る。
「取り憑かれているって、本当ですか」
「会ってみれば分かるだろ」
扉を見つけた。関係者はここから出入りしているのだろう。小声だが、せわしなく動く声が聞こえる。襟を整え、羽根飾りが曲がっていないことを確かめると、扉を小さく叩いた。すぐに衣装を着た女の人が出てきた。僕達を見るなり
「ここは関係者以外立ち入り禁止です」
と小声で話す。
「今舞台に出ているキャロルさんに用があるんです。彼女、求道所の人で、僕達は、この通り」
胸元の羽根飾りを見せる。思い当たる節があったのか、納得してくれた様子。
「出番が終わったら急いで連れてきて欲しい」
「挨拶とかの後でもいい?」
「できるだけ早く」
ライリーの気迫に押されたのか、ぶつぶつ文句を言いながらも、分かったわよ。と言った。拍手の音が遠く聞こえる。女性が一旦奥へ行く。扉を開けたまま、僕達は待ち構える。程なくして、手を引かれたキャロルが表れた。足取りはしっかりしているように思う。しかし、ライリーの方を見た途端、彼女は女性の手を振り払って逃げだそうとした。すかさずライリーが腕をつかみ、引っ張り出す。
「兄弟!」
僕も慌てて回り込み、彼女を扉の外へ押し出した。彼女は驚くほど力強く、振り払おうともがいている。驚いた女性の、叫び声が聞こえる。申し訳無く思いつつも半ば無理矢理中庭まで連れて行く。
本来の彼女がここまで抵抗するとは思えない。やはり、今の彼女は、キャロルではないのだろうか。
ライリーは懐から杖を取り出し、地面に円を描く。その中に彼女を押し込む。爪が腕に食い込んできた。
「キャロルさん、キャロルさん。一体どうされたんですか」
彼女は唸るだけで何も言わない。ライリーが彼女の頭に載せられていたヴェールを取っ払って聖水を掛け、祈りの言葉を唱える。
「さっさと出て行ったらどうだ。セイレーン」
彼が、杖を彼女の喉元に突きつける。彼女の呼吸が荒くなり、そして、膝から崩れ落ちた。抑えていた腕に彼女の体重がかかる。ゲホッ、ゲホッと激しく咳き込む姿は痛ましい。背中をさすりながら、木の陰が掛かっている所へ、ゆっくりと横向きに寝かせる。顔から首筋には脂汗が浮いていた。
ハンカチで軽くぬぐってやり、羽織を上から被せる。その頃には、穏やかな表情を浮かべ、静かな寝息を立てるようになっていた。良かった。無事みたいだ。そして、やはり何か、否セイレーンが取り憑いていたみたいだ。
ほっと一息吐き、ライリーの方はどうしているのか見てみる。なんと、なんと水が人の形を作っていた。あれは本当に水なのか。水だ。透明だが、確かに実態があり、人型を作っているが、耐えず揺らいでいる。それが、噴水の上に浮き上がっていた。
「あれが、セイレーン?」
「巷ではそう呼ばれているわ」
「わ、喋った」
前もそんな事を言った気がする。というか、それ以上に不可思議なことが。
「僕にも、見えてる……? 何で」
「お前は人の姿も取れるはずだ。何でわざわざ取り憑いた」
「別に、貴方には関係ないでしょう」
「あるから聞いてるんだ」
「あら、そう。なら話してあげてもいいけど。だって、誰も私の歌を聴いてくれないんだもの」
そうか。セイレーンの歌声を聞いた船乗りは、皆、沈んでしまう。たとえ、純粋に思いを伝えたかった
だけだとしても。決して許容できる事ではないが、人の肉体を通してなら、最後まで聞いて貰えるとでも、考えたのだろうか。
「さっき沢山の人に聞いて貰って気が済んだだろ。もう二度とするなよ」
「なんか怖ーい。この子いつもこんな感じなの?」
「いえ、いつもはもっと能天気なんですが……」
「あら、そう。じゃあね」
そう言い残し、水でできた物体は跡形も無く消えた。彼女が消えた後も、小石が胸に沈んでいくような、もやもやしたものが胸に残っていた。
横になっていたキャロルが、寝返りを打つ。小さくうなり声を上げた。急いで駆けよる。うっすらと目
をあけた。
「キャロルさん」
彼女は一回瞬きをして、跳ね起きる。そしてキョロキョロ辺りを見渡した。目が合う。
「マルク……さん?」
「大丈夫ですか?」
「ええ。でも私、夢を見ていたような。見ていなかったような。わあ、やだ、恥ずかしい」
彼女は自分の来ている衣装を見て、髪の毛を抑えながら、顔を真っ赤にする。
「別に恥ずかしがらなくても、お綺麗だと思いますけど」
「止めて下さい。こんなはしたない格好」
「おーい、痛いところとかないか?」
ライリーが近くにしゃがんで話しかける。ぶんぶん横に振っていた顔がぴたっと止まる。
「あ、はい。大丈夫です。あの、すっかりご迷惑おかけしてしまって」
「まあ、別にそれは良いんだけど」
その時、ちょっと、という呼び声と共に、黒を基調とした派手なドレス姿の人が近づいてくる。彼女はちらりと噴水の方を見ると、裾をたくし上げて駆けよってきた。よく見たらフランだった。
「聞いたわよ。控え室で一悶着あったって」
「ああ、もう大丈夫、ちょっと具合悪かっただけだよな」
「はい。ご迷惑おかけしました。皆さんにも謝らないと」
そう言ってキャロルが立ち上がろうとしたとき、フランが勢いよく彼女に抱きついた。
「良かったわ、無事で。貴方のおかげで劇は大成功だったのよ。皆すっごく喜んでいるわ」
「そんな、私」
「ありがとう」
キャロルは顔を真っ赤にしながら、瞳にはうっすら涙を浮かべていた。
「こちらこそ、あ、憧れの人に、あ、会えて、嬉しかったんです。その、ずっと、会いたいと思ってて、ずっと一緒に歌えたらいいなと思ってて、ひ、ひ、広場で、見た時から、どうしても、また会いたくて、フランさんみたいになりたくて――」
声にならない声が、彼女の口から零れ落ちる。そんな彼女の思いを全て拾い集めるように、もう一度フランは強く抱きしめた。




