(2/12)市役所戸籍課からきたレイン
しかしなぜかナンシーは本が読めました。字がわかりました。書くことはできないけど、畑仕事の合間にこっそり本を見ながら土に字を書いて練習しました。家には3冊しか本がありませんでした。
本というのはとても高いそうです。大事に大事にして子や孫に渡すのだそうです。街まで行けば専用の『本の修理屋』までありました。
それなのに家の本はボロボロでした。
お金持ちになると本棚いっぱいに本が詰まっているのだそうで『そんな場所に行けたら夢みたいだわ!』とナンシーは密かに思いました。
ナンシーは勉強が好きでした。繰り返し繰り返し3冊の本を読み、ときには近所の人に畑でとれる野菜と交換して借りることもありました。
でもあまりできなかった。アンナおばさんも、ジムおじさんもナンシーが外に出るのを嫌がりました。買い物に行くおばさんの荷物持ちとして出られるくらいでした。
街まで飛んでいけば『図書館』というものがあるんですって!
『夢みたい。行きたいわ』と思ったけれどナンシーに遊ぶ時間はありませんでした。
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1年たってもおじさんにもおばさんにも家にも畑仕事にもなれず『ここはわたくしの居場所ではない。違う』という思いは離れませんでした。
何が違うかは説明できない。
しかし。何かが決定的に違う。
けれど誰にもそんなこと話せませんでした。だって羽化した子どもは全てを忘れてしまうのでしょう?
何の記憶もないのに違うも何もないでしょう?
そんなときです。
家に1人の女性が訪ねてきました。
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「市役所戸籍課のものです」とそのほっそりした女性は言いました。
ブロンドの青い目でした。紺のワンピースドレスに白いレースの縁取りがありました。金のボタンを胸に3っつ止めています。市役所の制服なんだそうですよ。素敵です。
唇は小さくキュッとしまっていました。
「1年前に羽化されたお子様の状況を確認して回ってます」と言われました。
アンナおばさんはソワソワしていました「ナンシーですか? 元気そのものですよ」と。
「しかしナンシーさん。聞いたところだと学校に行ってらっしゃらないそうですね?」と戸籍課の女性が言いました。名前は……そうレイン。
アンナおばさんはますますソワソワしました。
「勉強が嫌いなんですよ。この子!」
『違うわ!』とナンシーは心の中で叫びました『何度頼んでも行かせてくださらないのよ!』
戸籍課のレインは「ナンシーさんと2人でお話させていただけますか?」と頼みましたが、いい終わらない内にアンナおばさんが「ダメだよ! この子何にも話しゃあしないんだから!!」と言葉をさえぎりました。
レインはにっこり微笑んだ「要請に従っていただけませんと。上に報告しなければなりませんが」
アンナおばさんがグッとなりました。
「学校に行くのは子供の権利なんですよ?」
ダーンと立ち上がるとナンシーの腕を(レインから見えない角度で)つねり耳元で「余計なこというんじゃないよ!」と鋭く言って立ち去りました。台所からナンシーたちの部屋を睨みつけています。
レインが優しい笑顔になりました。
「庭を見せてくださいますか?」
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庭といっても草ぼうぼうの野っ原で鳥が何羽か地面の虫をついばんでいるだけのものです。
野生の百合の匂いが立ち込めていました。
ナンシーの服だってボロボロでした。色あせた赤のワンピースにすそがほつれたエプロン。
パリッとしたレインの制服の前に少し恥ずかしい思いをしました。
2人で庭に出るとレインの顔が急に真面目になりました。
「ナンシーさん。すみませんが、あなたの今までの状況をできるだけ詳しく教えていただけますか?」
「え? アタシまゆから出てきたところからの記憶しかないんだけど(口調はおばさんを真似ました)」
「結構です」
ナンシーは出来るだけ詳しく話しました。船の中で羽化したこと。4人の大人がいたこと。何日かして船からおりたこと。畑仕事が辛いこと。学校に行かせてもらえないこと。
それから。とても迷いましたがレインを信じて思い切って言いました。
「あの……それから………変なこと申し上げてごめんなさい。なんとも言えない違和感があるんです」
微笑んでいたレインの小さな口が一瞬キュッと引き結びました。
「違和感とは?」
「あの……本当に…………ごめんなさい……。なんだか……最初から……この家わたくしの家ではない気がして………」
「『ない』とは?」
「ですからその……。おばさんや、おじさんが知らない人に見えると言いますか………いえ。わたくし記憶を失っているわけですから当たり前なんですけど………」
「そうですか。質問があります」
「はい。なんでしょうか?」
「ナンシーさんの周りの大人で1人でも自分のことを『わたくし』という方はいますか?」
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「え!?」
なんでしょう。その質問。質問自体が奇妙です。
「いえ……あの……どなたも……。みなさん『アタシ』とか『オレ』ばかりでして。いえ。ここは田舎の村ですし」
「ではなぜあなたは先ほどからご自分を『わたくし』とおっしゃっているのですか?」
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ナンシーは慌てて口を閉じました。失態です! あれほどおばさんに『スカした喋り方すんじゃないよ』と注意されてきたではありませんか。
「あ! ゴメン。間違えた。いつもは『あたし』って言ってるんだよ。今日は緊張してたまたま……」と取り繕おうとしました。
「緊張されてるんですよね?それでいつもの『演じた』喋りができず素でお話されたのではありませんか?」
ナンシーは黙り込みました。
「ナンシーさん。あなたのことは近所の方からうかがってますよ。ほとんどお話にならないそうですね。なぜですか?」
「いや。だって。アタシおしゃべり苦手だし!」
「カイコ(子どもの頃の総称)のときは口から生まれたというくらいおしゃべりだったそうですね? 羽化した途端急に性格まで変わられたわけですか?」
ナンシーは下を見ました。背中に冷たい汗が流れる。視界の隅に餌を探す鳥の影が見えました。
ボロボロのエプロンをキュッと握りしめました。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。おばさんに叱られる。
レインは青い瞳でじいっとナンシーを見つめます。ゆっくりした口調になります。
「うっかり。周りの方と違う話し方をするのを予防しているのではありませんか?」
ナンシーはもう。ただ首をブンブンと振るばかりでした。
「ナンシーさん。私実はあなたのおばさんに嘘をついているんです」
「え?」
「本当は羽化して1年の子供を訪ね歩いているのではありません。羽化して1年の『紺色の瞳』の子をだけ訪ねて回ってるんです」
紺色の瞳の子『だけ』?
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「え? なぜですか? どうして瞳の色で分けてるんですか?」
意味がわかりません。瞳の色で分けるなんて意味ないでしょう。
レインはナンシーの耳にささやきました。
「驚かないで聞いてください。1年前。紺色の瞳の子供が1人行方不明になったんです」
え?
【次回】『ローレンヌはすでにいる』
〈登場人物紹介〉
【デルタストン市】
ナンシー この物語の主人公。緑の髪の毛。15歳。
アンナ ナンシーの叔母
ジム アンナの夫
ルネ ナンシーの叔母
ダイク ルネの夫
レイン デルタストン市役所戸籍課職員
【オルトリア市】
ロバート=ゲートリンガン(ご当主)街一番のお金持ち
パトリシア=ゲートリンガン(奥様)ロバートの妻
ローレンヌ=ゲートリンガン ゲートリンガン夫妻の一人娘。朱色の髪の毛。15歳
リベルタ ゲートリンガン家のメイド
ミンティ ゲートリンガン家のメイド
ダッタ=ヘッジ オルトリア市戸籍課職員