秋 その2
じきに夜が開けようかという刻限。空は濃紺から橙の絹にその衣を変え、一日の始まりを告げる。町屋であれば朝の早い棒手振りたちが身支度を整え、下駄に足を突っ込んでいる頃合いだろう。だが花街たるこの吉原では遊女と客が深い眠りを貪る、一番静かな時間だった。
風が吹きわたるだけの道に、ふたりの男が向き合って立っている。イタチ獣人の男は柄に手をかけたまま、静かに声を放った。
「あんた、何が狙いだか知らねえが…もう、太夫には近づかないでくれないか。あのひとは…あのひとには、財産なんかない」
冷静な、だがどこか必死さが感じられる声を聞き、狐の青年はすっと目を細めた。
「あたしが、そんなふうに見えるのかい。あんたには見くびられたもんだねえ瑞波」
太夫のまえでは決して出さない、低い声と荒っぽい口調だった。
瑞波は腰を落とした。いつでも剣を抜けるように構えながら、歯をくいしばる。
「相手が俺じゃないことなんてどうだっていい。気にくわない大店の息子でも、いい。……けど、太夫には本当に幸せになってもらいたいんだ」
その言葉を聞いた狐の青年が動いた。その細い体からゆらりと影のようなものが立ち上る。
と、思った瞬間、きぃんと高い音が響いた。青年は瑞波の後ろに背を向けて立っていた。刀を鞘に納める、かちんという音が妙に間抜けに聞こえた。はっと振り返った瞬間に浅く切られた手の甲から血がひとすじ落ちた。
「うっ」
瑞波は呻いてぱっと青年に向き直った。
「剣を抜くなよ。お前の腕前はわかったが、その剣はひどく貴重なものだ。むやみに傷をつけるんじゃないよ」
青年は静かに言った。
「竜化した竜王の牙から削り出されて鍛えられた剣など、滅多にあるものではないからな」
瑞波はなにも言わずに唇を噛み締めた。全てにおいて負けた気分だ。自分には太夫を守る力はない、と言われた気がした。
「それから銀菊のことだが」
青年の声に力がこもった。今までの冷静な声には似つかわしくない声だった。紫の目をすっと瑞波に向ける。真摯な光がそこにはあった。
「あたしが、幸せにしてみせる。絶対に」