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花魁と懐刀  作者: ニビ
6/13

夏 その2

 朝から容赦なく日差しが照りつける夏の一日。座敷の奥にいても汗がふきでるような日だった。瑞波も銀菊もつらさは一切見せずに黙々と日々の仕事をこなす。

  風向きが変わったのはこのときだった。

  昼見世を終えたところで楼主から太夫とともに呼ばれたのだ。

「銀菊、東雲屋の若旦那が来ているよ。お前の夫となるかもしれないひとの1人だ。顔を出しなさい」

  威圧的な口調に銀菊は綺麗な金色の目を一瞬曇らせたがすぐに頭を下げた。

「あい、わかりました。すぐに参ります」

  楼主が去ると銀菊は東雲屋の待つ部屋に入っておくよう瑞波に命じた。

「わたしもすぐに行くわ。でも先に待っていて」

  瑞波は怪訝な顔をした。

「なぜすぐにいらっしゃらないのです? 東雲屋さんは親戚も連れているのですよ」

  銀菊はあっけにとられたような顔をした。次の瞬間、我慢できずに吹き出す。

「やあね、お客様とお会いするのにこんな格好で行くわけないじゃない。着替えてくるのよ」

  見れば銀菊は江戸むらさきの古着姿だ。下働きと間違えられてもおかしくない格好だった。

「すいません」

  瑞波は赤くなって頭を下げた。ほおがかっと熱を持つのがわかる。

  銀菊はまだころころと笑いながら瑞波を置いて廊下を歩いて行った。と、不意に振り返っていたずらっぽい笑みを浮かべてみせる。

「のぞいちゃあ、だめよ。わたしの裸は高いんだから」

「そんなことしませんよ!」

  いっそう赤くなった瑞波がかみつくように言うと銀菊は大げさに肩をすくめて衣装部屋に入っていった。

  柔らかな後ろ姿を見送り、瑞波は東雲屋の待つ部屋に入る。

  客はすでに待っており、5人ほどの狐獣人が正座して並んでいた。この部屋は花魁と話をしたり遊んだりする部屋であるため、5人は和やかに談笑している。今日は懐石の膳がそれぞれの前に置かれている。ひとつ、誰も座っていない膳があり、それが銀菊の席らしかった。

(おや)

  瑞波はひとりの青年にすいと目をやった。灰色の毛と、青みがかった紫色の瞳。

  夜明けの色だ、と瑞波は気づいた。曙の色とは異なるが、それより少し前の晴れる日の夜明けを思わせる。

  この男が東雲屋に違いない。

  瑞波はその男から目を離さずに部屋の隅に控えた。気配を消し、ほかの客にも意識の網を広げる。普通の客であれば用心棒など気にもかけないのが普通なのに、東雲屋とおぼしき男が幾度となくこっちを見ているのが癪にさわる。瑞波は奥歯を噛み締めて気持ちを抑えた。

「銀菊太夫、お呼ばれいたしんした」

  鈴を振るような声が部屋の向こうから聞こえた。きらびやかなふすまが音もなく開き、三つ指をついた銀菊が姿を現した。深く一礼し、なめらかにおもてをあげる。一分の隙もないその姿に、5人の客は思わず見入った。

  同族の客だからか、銀菊は今日も獣面人身の姿を取っていた。夏らしくすっきりとした藍白と瑠璃色の着物が白い毛と金色の瞳によく似合っている。耳の間に飾りつけられたびいどろの花飾りも涼しげだ。

  顔を上げた銀菊が一瞬目を見開いた。その視線が辿る先を瑞波は見ていた。

(太夫…)

  呼びかけたくなる気持ちをこらえ、また奥歯を噛み締める。

  その視線の先にいた彼もまた、太夫を見ていることを知っていたから。

  ふたりの視線がかち合った、その瞬間が異様に長く感じられた。

  なぜかはわからない。だがその一瞬でふたりが惹かれあったのを瑞波はたしかに感じていた。運命の出会いというものが銀菊にあるならこの瞬間だと、奇妙なほど冷静に瑞波は思っていた。

  他の客は美しい花魁の登場に色めきたち、ふたりの視線には気づいていないようだった。初老の男が立ち上がってにこやかに声をかける。

「おお、噂に名高い伊岐楼の銀菊太夫。お待ちしておりました。さあ、」

  男の言葉が不意に途切れた。座敷にいたみながはっと男を見る。二、三度口を動かしたかと思うと男は急にくずおれた。荒い息をつき、ひどく苦しそうに胸を押さえる。

  一瞬、だれも動けないときが流れた。


  ただひとりを除いて。


  誰よりも早く動いた銀菊は素早く男の状態を確認した。意識ははっきりしている。頭の異常ではなさそうだ。ひとまず動かしても大丈夫なことを確認すると呼吸を観察する。

  呼吸は荒いが息そのものはしっかり吸えている。舌の色も鮮やかだ。落ち着かせるのが先決だろう。

「早く。布団を敷いて。この症状はおそらく心の臓が荒れているもの。発作が落ち着いたときに他国のオオバコ草を煎じたものを飲ませる方がよいです。」

  てきぱきと指示を出す花魁をあっけにとられたように見ていた客はなんとか動き出した。

「ここでよいですか。水も持ってきました」

  一番若い狐の青年が手伝ってくれた。こういった患者を見るのに慣れているのか、動揺したそぶりもない。遠慮なく手を借り、てきぱきと手を動かす。できるだけ動かさないようにしながら気道を確保し、息と脈を確かめる。ありがたいことに、乱れていた脈はすぐに落ち着いてきた。銀菊はほっと息をつく。

「少し落ち着いたようですので寝かせましょう。あとは東雲屋の手代さんにお任せします」

  薬を持ってきた手代に向けて最後の言葉を言うと、銀菊は立ち上がった。上客の1人が倒れた以上、今日の宴席はおしまいだ。花魁が残っていても気詰まりだろう。植えてある薬草になにか役立つものはないか、庭でも見てこよう。銀菊は障子へと向き直った。

  不意に開けようとした目の前の障子に影が落ちた。

「お庭に行かれるのでしょう? 私もご一緒しますよ」

  驚いて振り返ると先ほど最初に動いてくれた青年だった。紫がかった不思議な瞳はあたたかく輝いている。

「宴席の主たる花魁を放ってはおけませんから」

  言葉遣いは丁寧だが、言葉選びに軽さが垣間見える。

  銀菊はくすりと笑った。自分の心の臓がどきどきと脈打っているのがわかる。不快な感情ではなかった。親戚をほうっておいて、悪いひと。命に別状はないし、あとは休ませるだけだからよいのだけれど。

「じゃあ、お願いするわ」

  青年の目が嬉しそうに細められた。その顔を見て、胸の奥があたたかくなるのを銀菊は感じていた。

「お名前を伺っても?」

  明るい日差しを浴びて輝く庭に出てすぐ、銀菊は青年にたずねた。東雲屋の一員だと見当はつくものの、名前までは把握していない。黙っていても気詰まりだし、と自分に言い訳するように心の中でつぶやいた。

「東雲屋裕次郎といいます。お気楽な次男坊ですがね。以降お見知りおきを」

  狐の青年はにこやかに答えた。夜明けの色の瞳があたたかく輝いている。

「いい名前ですね」

  銀菊は微笑んで答えた。

  銀菊に微笑み返し、庭を見ていた裕次郎は植えられている植物のひとつに目を止めた。

「これはホタルブクロですね? これは嬉しい。それこそ心の臓にようく効く薬になるのですよ。残念ながらさっきの症状に使えないが。綺麗に育っているし、買い取りたいくらいだ」

  心底嬉しそうな声をあげ、つやつやした葉を天に伸ばしている薬草にそっと触れる。慈しむような手つきが、薬種に通じていることと薬種を愛していることを物語っていた。

「この薬草をご存知なのですか?」

  銀菊は思わず声をあげた。ホタルブクロは滅多にある薬草ではなく、伊岐楼に入るときに薬種問屋を営んでいた生家から種を持ってきて植えたものだった。銀菊にとっては生家を偲ぶことができる数少ないよすがでもあった。

  裕次郎は一瞬不思議そうな顔をしたが、うなずいた。

「ええ。東雲屋は薬種問屋ですからね。自慢ではないですがそこいらの店にはないような薬種まで手広く扱っていますよ」

  茶目っ気たっぷりに言う青年の言葉がおかしくて、銀菊は笑い声をあげた。常ならば薬種の話を聞くのは胸の痛みを伴うのに、彼の話はすんなりと聞くことができた。

  生家の商いだけではなく、もともと薬種のことを考えるのは好きだったから、心ゆくまで薬種の話をするのは楽しかった。

  裕次郎も楽しそうに話してくれたが薬草を見る目は真剣で、好感がもてた。薬種を商うだけではなく、薬種そのものの扱いを考える姿は銀菊の父に似ていた。

「源三郎さんが起きましたよ」

  不意に母屋から顔を出した狐の老人がふたりに声をかけた。東雲屋一行のひとりだった。名前すら知らなかったが、源三郎というのが先ほど倒れた老人だったのだろう。

「何事もなくてようございました。戻りましょう」

  ほっとした銀菊は口調を違えて裕次郎に言った。怪訝に思ったのか裕次郎は一瞬目を細めたがすぐにうなずいた。他の客の前で友のような口調を保つことの危うさを悟ってくれたようだ。

  ふたりが宴席の間に戻ってすぐ、迷惑をかけた詫びを口にして東雲屋一行は伊岐楼を辞した。

  楼主とともに見送りをしながら銀菊は自分の目がただひとりにだけ吸い寄せられていることを感じていた。銀菊の視線に気づいたのか、裕次郎がふっと振り返る。目を細めて銀菊に笑みを送るとすぐに前を向いた。

  久しぶりの楽しい出来事に銀菊の胸はいつまでもあたたかいままだった。

(また…会えるかしら)

  あの、ひどく惹きつける目をしたひとに。

 

 


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