夏 その1
ゆるやかに季節は進んでいく。桜の花びらは短い春の命を散らし、弱々しい翠の芽を出したと思いきやすぐに立派な葉桜へと姿を変えていった。あたたかい日差しも肌を焼く強さの光へとうつろい、雲も白く高く積み重なる。
銀菊と瑞波が変わらぬ日々を過ごすうち、季節はすっかり夏になっていた。
「暑いわね」
ひたいの汗をぬぐいながら銀菊はつぶやく。暑い暑いと言うほどに暑さを感じるから言いたくはないのだが、どうにも口からこぼれるのだ。
「ええ、本当に」
使い終わった桶を洗って抱えなおした瑞波は同意した。まだ日が昇ってすぐだというのに井戸水の冷たさが心地よかった。正午にかけてまだ暑くなるのだと思うとうんざりする。
「本物の水無月を口にできたら随分と違うのでしょうねえ」
ふと思いついたように銀菊は言葉を重ねた。そのまま瑞波に楽しげな笑顔を向ける。
「ああ、あれですね」
瑞波も口のはしだけで微笑んで答えた。先日の夏越の大祓の日、これも趣向だと言って銀菊が客からもらってきた水無月という和菓子をふたりで分け合って食べたのだ。白いういろうに甘く煮た小豆を乗せた和菓子は氷を模したもので、一年の半分を無事に過ごせたことを感謝し残りの半分も無事に過ごせるよう祈りを込めた菓子と聞いていた。
たしかにあの菓子は美味しかったし、なにより太夫が気にかけてくれたことが嬉しかったが本物の水無月──氷を食べることができれば暑さなど感じないだろう。
「無いものを嘆いても仕方ないわ。早く終わらせて日陰に逃げましょう」
からりと明るい口調で言うと、銀菊は瑞波に微笑んで見せた。
ふたりできびきびと動いて片付けを終える。ふと顔をあげるといつになく周囲がざわめいていることに瑞波は気づいた。
朝の強い日差しが照りつけるなか、向かいの店に多くの人が出入りしている。この時刻には珍しく、いくつもの衣装を抱えた禿や呉服屋の奉公人らしい下働きなどが駆け回っていた。
「ああ、今日は八朔なの。遊女たちが白無垢を着る日よ」
瑞波が見ているものに気づいたのか、銀菊が説明してくれる。八朔は夏の吉原の名物でもあった。白無垢を着た遊女たちが吉原じゅうを練り歩く行事だ。八月の朔日、つまり一日に雪のように白い衣装を着た遊女たちの姿を八朔の雪と呼ぶ。見物人も多く、吉原では大きな行事だった。
もうそんな時期か、と瑞波は妙な感慨を覚える。だが銀菊が支度をするそぶりがないのが気になった。花魁の支度ともなれば髪結いなども呼んで朝早くから用意するものだが。
「太夫は普段通りの着物のようですが」
つい気になって口を出す。
銀菊が苦笑したのが視界の端にうつった。
「私はいつか楼主のお眼鏡にかなった相手に身請けされることが決まっているから。そんな私が白無垢を着ていても嫌味だと思われるみたい」
なにげなくそう言った言葉に過去の不快な記憶が垣間見えて、無遠慮に質問した自分がいやになる。
「でも…白無垢を着た太夫はお綺麗でしょうね」
考えるまでもなく、するりと言葉がすべりでてきた。
銀菊は驚いたように瑞波を見つめたが、やがてふっと笑った。
「ありがとう、瑞波」
少し悲しそうな、美しいその笑顔を見て瑞波は誓った。
いつか、必ずこの人に白無垢を着せてみせる。…その相手がおれではなくても。
瑞波がぐっと唇を噛み締めたとき、不意に目の前ですっと影が止まった。特に考えることもなく、八朔の前に出歩く遊女だろうか、と顔を向ける。
まだ幼さの残る山猫の遊女だった。白無垢とは対照的なつつじ色の艶やかな衣装に身を包み、金糸を散らした葡萄色の帯がまた存在感を放っている。帯留だけは落ち着いた白緑の翡翠だったが、いったいどういう色の取り合わせなのかと瑞波は内心呆れていた。
綺麗な斑の入った薄茶色の毛並みは美しく、金を溶かし込んだような瞳も見事だったが嘲りを浮かべたその表情が全て台無しにしていた。
「あら、あんたまだいたのね。落ち目の花魁を置いておくなんて、伊岐楼も落ちぶれたものだこと」
山猫は瑞波には目もくれず、まっすぐに銀菊を見ていた。言葉遣いが吉原のものではないぶん、言葉がやわらげられずに刺さってくるようだった。そのきつい言葉に銀菊は唇を噛み締めるだけだ。常の銀菊なら言い返すところなのに、と思いつつ瑞波が割って入ろうとしたとき遊女が鼻を鳴らして肩をすくめた。
「あんたなんてあたしの敵じゃないけど。伊岐楼で一番だか知らないけど、吉原一の花魁になるのはあたしよ」
綺麗な顔を歪めて吐き捨てるように言うと、山猫の遊女は返事も待たずに歩き去ってしまった。
瑞波はちらりと銀菊を見た。主人である花魁は無表情で何事もなかったかのように遊女を見送っている。
「太夫、あれは…」
気になった瑞波はついたずねてしまった。銀菊は苦笑する。
「ああ、水原屋にいる遊女の悠星よ。なにかとわたしを目の敵にしているのよね」
花魁は面倒そうにため息をついたが、些細なことでも常に向けられる悪意は心を蝕むものだ。銀菊の言葉を聞き、瑞波は眉をひそめた。
「水原屋なんて伊岐楼からすれば小店じゃないですか。楼主に頼めばこんなつまらない嫌がらせ、すぐにやめさせられるでしょうに」
「それはだめよ。ただでさえ破格の待遇を受けているわたしがそんなことをさせたら伊岐楼の格を下げてしまうもの。店同士の付き合いは難しいのよ」
打てば響くように銀菊は答えた。そのよどみない口調に主人の固い決意を感じ取り、瑞波は口を閉じる。 これ以上言葉を重ねても、頑固な銀菊は考えを変えないだろう。
「あなたが気にすることはないわ、瑞波。言わせとけばいいのよ」
さ、そろそろ中に入らないと、という銀菊になにも言えないまま、足元に視線を落として瑞波は主人の後に従った。道の上を舞う乾いた土ぼこりが妙にざらざらして見えた。