銀菊の思い出
闇の中、きいきいとむしろが軋む音がする。人足の歩みに合わせてかごが揺れるたび、取りつけてある小さな鈴がちりり、ちりりと儚い音を立てた。
おぎんは屋根に近い小さな窓をほんの少しあけてみた。払暁の空はまだ暗く、淀んだ青黒い空にはぽつぽつと星が浮いて見える。視線を前にうつすと盛り上がった筋肉に乗せるようにしてかごを運ぶ駕籠かきの姿が見えた。半獣の姿になったひぐまの獣人のようだった。
外を見ていたことがばれないように静かに小さな窓を閉めるとおぎんは目を伏せた。呻くように謝罪の言葉を繰り返していた父と兄、泣きながら娘にすがりついていた母の姿が蘇る。
「すまない、すまない…おぎん、おれが火を出しさえしなければお前が身を売ることもなかったのに……」
「ああ考え直しておくれ、おぎん。お前ほどの器量があればどこぞの大店の若だんなに見初められることもできるというのに……。あたしがなんとかするから、どうか、身を売るのは嫌だと言っておくれ──」
そのとき、母の言葉を遮るようにしておぎんは家族に笑ってみせたのだ。
「いいの。あたしが決めたことなの。いくらこの倭邦が庭園水晶竜王さま、豊穣の国ラマンを統べておられる竜王さまのお護りで緑が強い土地でも、火を出してはひとたまりもない。あたしたちのお店がお取り潰しにされても仕方ないもの」
そう言って、ことさらにっこりとまた微笑んで見せた。大好きな家族に、別れと感謝の気持ちをこめて。
「あたしが身を売ることで、伊岐楼の楼主さまがお金を出してくださる。たしかに伊岐楼は女郎屋だけど、約束は必ず守るというお話よ。これで店はまだやってける。あたし、家の助けになれるのが嬉しいの」
こうしておぎんは伊岐楼に入った。駕籠が出る寸前、母親はうるんだ目をしたままおぎんの手になにかをにぎらせた。
「女郎は目を病むことが多いと聞くわ。これ、もしなにかあったら使ってほしいの。これくらいしかできなくて、ひどい母親で、ごめんなさい──」
「ありがとう、ごめんね、おっかさん」
がくんと一瞬大きく駕籠が揺れた。母親との思い出に浸っていたおぎんははっと我に返った。
手の中には銀の星をあしらった眼帯と、同じように銀の星が刻まれた鞘を持つ守り刀があった。びろうどの柔らかい生地に銀糸で星を縫いつけてある眼帯は目を病んでも生きていくためのもの。そして艶やかな漆に螺鈿をはめこんだ星を持つ守り刀はいつでも自らの命を絶つことができるものだった。
おぎんは二つの贈り物をそっと撫でた。裕福だった頃の貯えを削りに削って作られたものだろう。一目で高価とわかるものだった。命を絶つものをくれたのは、逃げてもいいという母親の最後の愛情だった。
「ありがとう、おっかさん」
おぎんは贈り物をたもとに隠してそっと目を閉じた。
おぎんは荒い息をついて布団の上に飛び起きた。嫌な夢だ。母親の思いやりはわかっているが、家族との離別は何度も味わいたいものではなかった。
おぎんはなかば狂ったようになりながら枕元の守り刀を探した。行灯もない闇の中、なんとか探りあてると夢中で胸に抱き込む。
「はあっ…はあっ…はあっ!」
(いや、いや! 助けて…瑞波!)
声を出せば彼はすぐに駆けつけてくれる。それがわかっていたから、おぎんは決して彼の名前を呼ばなかった。
おぎんは荒い息をしたまま、ぎゅっと目をつぶった。
固い小刀の感触を感じながら、対になるもう一つの銀星、それをつけた鼬の青年のことを考えていた。