春 その2
日が昇ったばかりの朝焼けのなか。ふんわりとした優しい風が家と家の隙間を吹き渡っている。霞がゆるく巻いているぼんやりした空は穏やかな水色で、今日もよく晴れそうだった。
「ちょいと瑞波、こっちを手伝っておくれな」
吉原の中でも数多くの遊女を抱える大店、伊岐楼。その店おもてで土埃の舞う道を掃いていたテン獣人の女が店の奥から出てきた影に声をかけた。
みずは、と名を呼ばれた影は右目に銀星の模様がある眼帯をつけたイタチ獣人の青年だった。花魁・銀菊に拾われたあの少年だ。この一年ほどでずいぶんと背が伸び、青年へと変化していた。黄色みの強い金色の毛並みはつややかに輝き、片方だけの青い目は澄んでいる。健康な暮らしをしている証だった。
声をかけてくれた下働きのテン獣人の女に向かってあいよ、と答え、差し出された桶を受けとる。いつものように朝一番の仕事である掃除の始まりだ。
桶に水を満たすと瑞波は一度ぐっと腕を伸ばした。あたたかい空気が心地よい。春は好きだ。花魁に拾ってもらったのはこの季節だったな、と思いをめぐらせる。
「あなたの名前は瑞波よ。その美しい目の色にちなんだの」
花魁の言葉は今でも覚えている。元の名前はどのみち捨てるつもりだったし、イタチ族ではよくある目の色を認めてもらえたのは初めてだったから嬉しかったものだ。花魁からもらったこの名も、ずいぶんと身に馴染んだ気がする。
腰にさげた刀を邪魔にならぬよう整え、桶を持ち上げる。名刀『緑燕』。この刀は自分で手に入れた愛着のある品だった。珍しい真珠色の刀身はほかに見たことはないが、斬れ味は並ぶものがない。花魁の用心棒という役割を担う今の瑞波にとって、なくてはならないものだといえた。
「瑞波!」
よくとおる明るい声が聞こえた。瑞波は桶を抱えたまま声の主を振り返る。思ったとおり、銀菊だった。獣面人身で狐の素顔をあらわにしている。強い陽射しのもと、真っ白な美しい毛と金色の瞳が輝くようだった。洗いざらした淡い海老茶の小袖姿で、真っ白なたすきをかけている。いつものことながら、下働きとたいして変わらない姿に瑞波は顔をしかめた。
「吉原でも有名な花魁ともあろうお方が。なんという姿でこんなところに出てくるのですか」
瑞波のきつい声にも銀菊はけろりとしていた。手にした掃除用の布切れを桶の中にひたし、手早く絞って準備を終える。
「昨日はお客もつかなかったし、退屈なんだもの。まったく、背が伸びてからかわいくなくなっちゃって」
布で店のおもてを拭きながら、銀菊が軽い調子で答える。瑞波は黙って花魁の掃除を手伝った。やはり、変わった方だ。この伊岐楼で一、二を争う遊女でありながらこんなくたびれた普段着の着物で下働きにまじってるなんて。
そう思いながらも瑞波は銀菊が今日来てくれたことに少しほっとした気持ちになっていることに気づいていた。銀菊は花魁だから、楼主のお眼鏡にかなった客しか会うことができない。だから客を取らない日があるのはそう珍しいことではなかったが、銀菊が朝の掃除に出てこない日はやはり気持ちが沈んだ。そういう日は客が帰ったあと朝寝をしているとわかっているからだ。
「よし、終わり!」
町家の娘のようなくだけた口調で銀菊が声をあげる。こっちを見て満面の笑みを浮かべる彼女に、口のはしだけでほほ笑んで見せた。
なぜ銀菊が客をとった日は気分が沈むのか…それはまだ、考えないようにした。