到着と一悶着
島の名は、コハントルタ。
穏やかな気候に恵まれたこの小国は、代々、コハントルタ家当主のコハントルタ国王によって治められている。
町は涙の形をしており、最北に国の中枢を担うコハントルタ城がある。島は南から北へと上り坂になっており、南から始まるたくさんの道は途中で交差し、淘汰されながら城へとつながっていく。
ロカがいる場所は島の最南端。他の客船や貨物船が何隻も横付けされ、人の往来が多い活気のある港だった。
肩の上で揃うロカの髪を散らしながら、風が吹き抜ける。
いつもより高らかに脈打つ胸からはキラキラがこぼれ始め、蒼天と同色の瞳を閉じたロカは大きく息を吸った。向かい風は少し強く吹いているが、この島はきっと自分を歓迎してくれていると、彼女は良い方向へと考えることにした。
空の旅路へと振り返って微笑みを贈ったロカは、重そうなトランクを持ち上げると元気よく歩き始める。ロカの乗ってきた船の停留所はこの港で一番右端にあり、彼女は港の中央から発車する乗り合いの車を目指した。
そのとき、どこからともなくよじれた風がロカの背後に迫ると、彼女の髪の先を捻り摘んでは引き戻す。それはトランクに飾られた一粒の白い花が頭を揺らすようなほんの微かな信号だったが、ロカは引かれるがまま風の匂いを辿って空へと振り返る。彼女の目は、港の東、貨物船専用の船着き場とその前に建つ郵便配達所の上空に行き着いた。船から岸に荷物を上げている何機ものクレーンは船着き場から突き出し、その赤い色は晴天の空によく映えている。
けして自分の名を呼ばれたわけではないし、辺りを見渡しても行き交う人々には何も変わりはないのだが、誰かの何かの囁きが、跡を残さない透明な風に乗って響いてきた気がした。しかし、世界の時の流れは普段どおりに進むだけで、しばらく天を仰いでいたロカだったが、再び乗り合いの車へと向き直った。
次の瞬間、空を裂くほどの鋭い風切り音が港へと落下する。
驚いて音の突き刺さった場所を見たロカの目に映ったものは、一機のクレーンの鉄の骨が無惨にひしゃげ、その首が己と抱えた荷物の重量に耐え切れずに傾いていく様だった。突然の事態に、船着き場で働いている人々は倒壊する赤い鉄の塊から逃げ回るばかりだった。
「っ」
唇を噛んだロカの背に冷たい電流が駆け上がる。
彼女は戸惑う時間を飛び越えてトランクの見張りを花に頼むと、混乱の中心へ向かって勢い良く走り出した。
金切り声を上げながら折れ曲がっていくクレーンだったが、成すがままの運命に逆らうようにぐっとその動きを堪える。しかし、クレーンの先にぶら下がるがっちりとした木箱が空中で大きく揺れる度、裂けた鉄筋から小さな悲鳴が聞こえてくる。緩やかに空気を切り裂く木箱は、島と空の境界を区切っている少し高めのレンガ造りの塀の外側へと、徐々にその姿を沈めていく。傷を負ったクレーンが耐え切れなくなれば、諸とも二度とこの島へ戻ってくることはできないだろう。
そんな中、ロカは流れてくる人の波に逆らい、走り抜けながら危険なクレーンへと近付いていく。
「危ねぇぞ、嬢ちゃんっ!」
ロカの信じがたい行動を目撃した体格の良い人夫の男性が両手を広げ、彼女の道を遮った。しかし、ロカは構わずに彼へと突っ込む。
男性がその逞しい腕を振り被りロカを掴まえようとしたと同時に、体を低く沈めた彼女は柔らかい髪をふわりと浮かばせながら一瞬だけ重心を落とす。
足の指に力が込められた。
「おじさん、肩を借りるわ」
そう呟いた女の子の声を、男性は上から聞く。
肩に軽い衝撃を受けたと共に、彼の目の前にいるはずのロカの姿が消えていた。彼女は跳び上がりながら男性の肩を手で押し、そこを中心に体を回転させて天高く舞い上がっていた。
そこは島の端。
世界は上下逆さまの姿に変化し、レンガの塀の外へ飛び出したロカの白く小さな体は空の中へと吸い込まれていく。
「嬢ちゃん!!」
慌てて塀に駆け寄った人夫はレンガによじ登り、今更届かないと分かっていながらもロカに手を差し伸べる。彼の目の端を何か影が横切ったが、そんなことなどに構っている余裕はなかった。
落ちる……!
眼前の恐怖が男性の喉を締め上げて声を握りつぶし、ただ、その唇だけがはっきりとそう形作っていた。
そのとき、さらさらと光の粒子同士がぶつかり合うような囁きの音色が響く。
人夫は目を疑った。
体勢を整えたロカが何もない虚空に足を着き、その場からさらに歩を進めていくのだ。
彼だけでなく、そのやり取りを見ていた船着き場の周囲の人間も逃げる足を止め、青空の中に浮かぶロカの姿を呆然と眺めていた。
船着き場のどよめきなど気にする素振りもなく、ロカは地を走るのと同じに空を駆ける。
彼女の足首から後方へと、光の糸がなびいていた。虹が混じる黄金色に輝くそれは翼を象っており、柔らかいシフォンの生地が風にたゆたうような滑らかな動きで、儚くも強い光のラインを描いている。
彼女が空を蹴る度に、足下に光の波紋が作られては消える。
その細い足首からこぼれる光の粒が幻想的な軌跡を残す。
その不思議な姿から目を離せない人夫は所在なさげに差し出していた太い腕を下ろしながら、いつの間にかある単語を呟いていた。
「ソラリコだ」
時の止まった島内を尻目に、クレーンの我慢の限界が近付いていた。
ロカは荷物の真下まで走ってくると、クレーンを助けるために宙吊りの箱に向かって細い手を振り上げる。瞬時に手の甲から光の帯が生まれ、彼女の足首を装飾している翼と同じように羽ばたき始めた。ロカの手に絡まる光の群は、まるで主を守るかのように暖かく発光している。
ふわっと、クレーンと荷物の間で引き千切れそうになっていたロープがたわんだ。
「危なかった」
軽く息を吐いたロカは、手のひらにある確かな感触ににんまりとする。
自身が支えている木箱の重みなど皆無であるかのような、穏やかな表情だった。
この子、空を渡れるんです。
風が吹き抜ける青空は気持ちよくていいなーなんて思いつつの超高所に立ってます。