38 愛しい人
クリストファー
秋の柔らかい日差しの、明るい午後の日だった。
部屋のドアが開き、愛しい顔が覗いた。
「クリス」
まだ恥ずかしげにクリストファーの名前を呼ぶ彼の婚約者、ジョージアナだ。
「ジョージィ。どうしたんだい?」
クリストファーが立ち上がっていそいそと迎えると、彼女はおずおずと近づいてきた。胸元には、偶然に倉庫で見つけた亡き母のペンダントが輝いている。あの時、軽率だったと自分を責めたが、こうして使ってもらえるのを見ると、嬉しくてたまらない。
愛おしさに溢れ、クリストファーは思わず彼女を抱きしめた。
「愛しいジョージィ……顔が見れて嬉しいよ」
「あの……今日は天気がいいから、お庭でお茶をしようかと思って……」
目を白黒とさせるジョージアナが可愛い。クリストファーは思わず顔を寄せそうになり、思いとどまった。これ以上は不謹慎だ。
「庭でお茶?」
「ええ、今日は、ジュリアンが来るそうなの。会うのは久しぶりでしょう? だから、庭でゆっくりお話しするのもいいかなって」
「そうだね」
「それで、クリスがどんなお茶とお菓子がいいのか、聞きに来ましたの。やっぱり、イチゴがいいかしら?」
「イチゴ?」
「ええ、クリスのお母様が唯一作っておられたのがイチゴのタルトで、それをよくお食べになられていたって」
「……それは……執事か? 女中頭か?」
「え? え、あの……」
「怒らないから」
「女中頭ですわ」
「……あまり僕の不名誉なことは、君に伝えないように言っておかねばな。恥ずかしくてたまらん」
「まぁ。そうですの? 私、お話を伺ってから、完璧で素敵なクリスがとても近しく感じて、嬉しく思いましたわ。本当にクリスは、使用人たちに愛されていて……私もそれに恥じないように、心がけたいと思います」
「未来の侯爵夫人として?」
すると、ジョージアナは頬を赤らめ、微かに頷いた。
「……えぇ」
身もだえするほどに愛おしく、クリストファーはジョージアナの頬に手を添えた。そうだ、唇を重ねるくらいなら、大丈夫。それ以上は求めない、結婚するまで待つんだ。彼女は愛する人で、手順を踏んでしかるべき、大切な女性だ。でも、そう、キスならば……
「旦那様、お仕事の書類が……ひっ」
ウィルが扉の前で足を止めた。どうやらクリストファーの視線が恐ろしかったらしい。表情が固まったまま、それでも動揺を最低限に抑えた態度は評価に値する。
クリストファーは理性で欲望を押しとどめると、ジョージアナが首を傾げた。
「どうなさったの? イチゴタルトでよろしいの?」
「あぁ、……それを頼む。準備に行くかい?」
「ええ! お返事ありがとうございました!」
無邪気な様子で、ジョージアナはクリストファーの腕からするりと抜けて、ウィルの向こうへ駆けていく。
「申し訳ありませんでした」
「なにがだ?」
「……いいえ、なんでもございません。差し出がましい言葉でした」
ウィルが頭を下げ、書類をクリストファーの手元まで持ってくる。クリストファーは自席へ向かいながら、その書類を確認した。
ベイル・ウィルクス及び、その妻モニカ、娘のクラリッサ、その周辺の現在の状況をまとめたものだ。ようやくこれで一段落つきそうだと、クリストファーは安堵のため息をついた。
ジュリアンが『勅令』をベイルたちに読んだ後、スペンサー子爵夫妻は諦めて領地に戻り、その地を去る準備をした。そして、ジュリアンの父、ジャックの温情で、伯爵領地にそれなりの家を持ち、静かに暮らすこととなった。ジュリアンの兄は渋ったが、それも二人に会うまでだった。ベイルもモニカも、ジャックに反発していた時の面影はなく、何も気力はないようで、おとなしく従ったからだった。
そして、クラリッサはボビーとすぐに結婚をした。男爵領地にできるだけ早く行き、夫婦で社交界に出て、示し合わせた設定の噂をばらまいた。それはすぐに反響を起こし、彼女たちはもてはやされたが、二人はそれを淡々と受け取っただけだった。周囲は不思議に思ったが、疑われないところを見ると、謙遜と見られるよう、注意深くできているのだろう。
クリストファーは、まだ舞踏会には出ていない。ジョージアナもだ。婚約したと友人には報告し、これまでの矛盾の辻褄を合わせて噂を流したが、ベイルやクラリッサたちが落ち着くまでは、動くつもりはなかった。自分はいいが、ジョージアナに傷はつけさせない。そのためには、時間が必要だった。
だが、それも今日までだ。
クリストファーは報告の内容にようやく満足できた。
奔走してくれたジュリアンもねぎらわねば。彼が助けてくれなければ、自分たちはすれ違ったままだったのだから。
これで、晴れて、ジョージアナと一緒に舞踏会に行ける。結婚の話を進められる。ジョージアナを自慢できる。『僕の最愛の婚約者だ』と。
次回、最終話です。




