素敵なプレゼント
その日も帰宅したのは、深夜の二時ごろであった。このところ午前様が続いている。仕事が忙しいのだ。土曜日曜も出社することが珍しくなかった。大変ではあるが、仕事に不満はなかった。むしろやりがいがあると思っている。ベンチャー企業である勤務先の会社は今が伸び盛りで、忙しいのは義則一人でなく、社長以下全社員同じであった。
自宅のマンションの扉をそっと開ける。妻の理香子が寝ている洋間を覗いてみる。軽やかな寝息が聞こえる。ぐっすり寝ているようだ。理香子はある建築設計事務所に勤めている。子供はいないので、DINKSということになる。住宅ローンが残っているが、経済的には余裕があった。
“子供がいれば、その寝顔を見て、にっこり笑う場面なのだが”
と思いながら自分の寝室にしている部屋に行き、背広をぬぎパジャマに着替えた。理香子とは出社時間、退社時間が異なっており、いわゆるすれ違い夫婦である。寝室も別であるから、家庭内別居のようなものだが、結婚してすでに十五年になる。これまで喧嘩らしい喧嘩もせずにやってきた。理香子もそんな生活に満足しているようであった。義則は充実感と心地よい疲労感の中で眠りに落ちた。
義則が目覚めたのは翌朝の九時過ぎであった。理香子はすでに会社に出かけている時間である。リビングルームの食卓の上には、簡単な朝食の用意がしてある。いつもの通り、義則はスマホを取り出しLINEを見る。
夫婦の間のコミュニケーションは専ら、LINEでなされていた。義則はこんな夫婦のあり方をあじけないとは思っていなかった。むしろ現代にマッチした新しい生活スタイルと前向きに受け入れていた。
LINEを開けタップすると、Happy Birthday to Youのメロディが流れ出した。画面に“誕生日おめでとう”という文字が浮かびあがる。今日は義則の誕生日だったのだ。ここ数年は互いに忙しいこともあって、夫婦間で誕生日のお祝いをしたことがなかった。理香子がこんな気の利いたことをしてくれるとは、思いもしなかっただけに嬉しかった。画面には、更なるメッセージがあり、冷蔵庫にお祝いのケーキがあると記されていた。冷蔵庫を開けると、小さいが誕生祝い用のケーキがあり、その傍らにグリーティング・カードが添えられていた。
『Happy Birthday dear YOSINORI To Veranda』
書かれた文字を見て、一瞬何のことかと考え込んだが、ベランダに行ってご覧なさいという意味であろうと見当をつけた。義則は益々楽しくなってきた。理香子は中々手の込んだことをしている。それもゲーム感覚で事を進めようとしているらしい。
“そう言えば、今、会社で開発中のゲームのことを、LINEに書き込んでおいたので、それを見た理香子がゲーム風の演出をしているのだろう”
義則はわくわくしながらリビングルームのガラス戸を引き開け、ベランダに出た。南向きのベランダには陽が燦燦と降り注ぎ、鉢植えの観葉植物の緑が美しい。ベランダの隅にピンクのリボンのついた、蘭の鉢植えが置いてある。花に興味の無い義則はその蘭が何と言う種類か分からぬが高価そうな代物であった。ピンクのリボンには、またしてもカードが添えられている。
『PRESENT FOR YOU VERANDA OUTSIDE』
義則は、「あなたへのプレゼントは、ベランダの外側」だとすぐに察して、ベランダの手摺から身を乗り出すようにして下を見た。義則の部屋は八階にある。高所恐怖症の義則にとって、あまりやりたくない行為であるが、ゲームにはスリルが付き物だと自分に言い聞かせ我慢した。
あった。赤いリボンが飾られた小さな箱が義則の眼下の空中に浮遊している。いや浮遊していると見えたのは間違いで、その箱は細い紐でぶら下げられていたのだ。あの箱の中に、本命のプレゼントが入っているのであろう。高所恐怖症なので下をまともに見られない。それに早く箱を開けてみたいという気持ちから、よく確かめないままにベランダの手摺に結ばれた紐を引揚げようとした。ところが何かにつかえているらしく、引揚げることが出来ない。
義則は仕方なく、もう一度身を乗り出して、下を見た。胃のあたりがぞくぞくする。箱を引揚げられない訳が分かった。紐の途中がガムテープで壁面に固定されているのだ。多分、箱が風で揺れて落下するのを防ぐためにこんなことをしたのだろう。もちろん手を伸ばせば届く位置にガムテープは貼られている。高所恐怖症でない人にとって、手を伸ばしてガムテープをはがすことは訳も無いことであったが、義則にとつては大変である。義則は自分が高所恐怖症であることを理香子に隠していた事を後悔した。夫婦の仲で、隠し事はやはりよくない。しかしこうなれば思い切ってガムテープを剥がすより仕方ない。覚悟を決めた義則は身を乗り出し、手を伸ばした。
次の瞬間、義則はベランダから落下していた。義則自身は何がなんだか分からないまま、吹き上げてくる風圧を全身で感じ、目は幾何学模様のような映像が高速でスクロールしているのを知覚していた。そして黄金色の光が炸裂した。
義則は薄れ行く意識の中で“ゲームは終わっていない、コンティニューだ。コンティニューのボタンをクリックしなければ”と念じていた。
音が聞こえる。光は無い。ここはどこだろう、死んだのか。それとも...
音は人の話し声のようである。聞き覚えのあるあの声、そうだ、あれは理香子の声だ。目を開け身体を動かそうとした。しかし思うようにならない。というより自分の肉体の存在感がまるでないのだ。やはり自分は死んで、霊的な存在になったのだと義則は思った。
「こんなことになるなんて思いもしなかったわ」
理香子の声である。義則の気持ちが落ち着いてきたせいか、話の内容を聞き取ることが出来るようになったようである。
「仕方ないさ、人間がやることだ。パーフェクトにはいかないさ」
男の声だ。親族や友人の顔をいろいろ思い浮かべたが、該当するような人物はいなかった。
「でも植物状態のままこの先ずっと生き続けられたらたまらないわ」
「ふむ、それもそうだ。完璧なる殺人計画だと思ったが・・・それにしてもあんたの亭主はしぶとい」
亭主とは私のことではないかと、義則は思い当たる。
「あの人がゲームの開発で忙しいとかいうから、あんな殺し方を思いついたんだけど、結果は最悪」
義則は混乱した。自分はどうなったのだろう。激しく動揺しながらも理香子の言った言葉を必死に考えた。
そして得た結論は、自分は理香子に殺されようとしたが、一命を取り止め、植物状態で生かされているということだった。そう言えば、ベランダから身を乗り出してガムテープを剥がそうとした時、誰かに両足をすくわれたような感触が記憶のどこかにある。足をすくって転落させたのは理香子だったのか。
「もう一度殺せばいいさ」
抑揚の無い陰気な声である。義則はその声の主を不意に思い出した。理香子の勤務する建築設計事務所の所長である。義則は理香子と所長の関係に思い至り愕然とした。
「そこにある装置がちょっとの間、休止すりゃあ、こんどは間違いなくあの世行きだ」
「そりゃそうでしょうでけど、病院が不審を抱けば、警察に通報するわ。警察にあれこれ聞かれるのは、この前でもうこりごりよ」
これらのやりとりを聞いた義則は怒り、そして絶望した。これ以上、理香子達の会話を聞くに耐えられなかった。義則はこのまま死んでしまいたいと強く念じた。
「あら、何か鳴っているわ。生命維持装置の警報音じゃない」
「ああ、そうだ。やや!容態が急変したぞ、心拍グラフが横一線に流れている。心臓が止まったんだ」
義則は、暗黒の中から光り輝くものが次第に大きくなってくるのを眺めていた。やがてそれは、七色のオーロラのようになって視界を覆った。そして甘美な音楽が流れてきた。“ゲームは終わったんだ、こんどこそ本当にエンディングを迎えたのだ”と義則は悟った。その途端、不思議なことに怒りも絶望感も、潮が引くように無くなり、心は安らぎに満ちた。すべてが、ゆっくりとフェイド・アウトして行く。