麻生 孝介(あそう こうすけ)
チャンスの女神には前髪しかない。
チャンスの女神は物凄い速さで走っている。
チャンスの女神が来たら迷わず掴め。
これは、チャンスを掴むための格言だ。
チャンスの女神に気付くのが遅れてしまえば、後ろから捕まえようにも、物凄い勢いで走っているうえに、後ろ髪が無いから捕まえられない。
と、いう事は、チャンスの女神が来たと分かってから行動しても遅いという事だ。
チャンスの女神を捕まえようとするならば、いつでも待ち構えていて、来たと分かった時点で捕まえに行かなければならない。
ただ俺は、走っている女神の前髪を掴むような乱暴な真似はしたくない。俺だったら、女神の走行進路に入り、両手を広げて待ち構え、抱きしめるように捕まえる。あくまでもスマートに。
そのために大事な事は二つ。チャンスを捉まえる準備を整えておく事。そして、チャンスが来た事に、いち早く気付く事、だ。
俺は、この事を、仕事でもプライベートでも、いつでも気にかけている。
俺の前に来たチャンスは必ずモノにしてきた。それが、普通だった。一度でもチャンスを逃すようなことがあれば、悔しくて夜も眠れないだろう。ヤケ酒を浴びるほど飲んでしまうかも知れない。
知り合いが、
「しまったー。チャンスを逃したー」
なんて言っているのを聞くと、馬鹿な奴だ、と思ってしまう。
そんな俺でもチャンスを逃したことが一回だけあった。
誤解の無いように言っておくが、チャンスが目の前にあった事には気付いていた。見逃したわけではない。当然、捕まえにもいった。しかも、何度も。それでも、逃げられてしまった。
その時の話をしよう。
俺は一流商社に勤めている営業マンだ。もちろん営業成績はトップクラスだ。
俺が争っている他社の営業マンも優秀なのだろう。普通に営業しているだけでは、中々契約は取れない。
人より営業成績を上げるためには、人とは違うことをしなければならないと俺は考えている。
では、具体的に何をやっているか。
俺は、自分の業種と全く関係の無い分野の企業に飛び込みで営業をかける。まあ、門前払いは承知の上だ。話なんか聞いてもらえることなんて無いと思った方が良い。
それでも、やり続けるのは、稀に大きな話が埋もれているからだ。
その日も、いつものように通常の営業業務をこなしてから、新規開拓を狙って、飛び込みで初めての会社に乗り込んだ。
その会社は自社ビルを持っているような大企業だが、俺の会社の業界とは縁遠かった。
入り口を入って、だだっ広いロビーの奥の方にあるカウンターの中にいる二人の受付嬢に向かって、
「アポは無いのですが、担当者様はいらっしゃいますか?」
と聞く。受付嬢が、俺の事をどのような相手か判断している間に、二人の受付嬢をチェックする。
右に座っている方は、地味な感じだが、顔は整っている。特に目を引くわけではないが、悪い印象を受けるわけではない。平均点は高いが、総合的には普通だ。
俺の対応をしてくれたのは主にこちらの受付嬢だが、俺への応対を見ると、俺に好感を持っているようだ。こういう受付嬢がいる会社は飛び込みでも入りやすい。
左に座っている方は、黒髪ストレートで、一見地味だ。が、その佇まいには何故か目を引き付けられた。
背筋がピンと伸びて、まっすぐ前を見て微動だにしない。茶道や華道をたしなんでいると言われても驚かない。いや、実際にやっているのかも知れない。
そのうちに右の方が、
「担当は外出中の為、お会いすることは出来ません」
と、申し訳なさそうに言ってくる。
大丈夫。そのぐらいの対応は想定内だ。こういう時は下手に粘らず、サラッと引き上げるのが俺のやり方だ。
しかし、何もしないで帰ることも無い。この左の女に興味を奪われた俺は、この女の反応を窺うことにした。
「あ、大丈夫です。こちらもアポも取らずに伺ったものですから。それでは、失礼いたします。あ、それと、駅へ向かいたいのですが、道順を教えていただけないでしょうか?」
と、左の女に向かって聞いてみた。
駅への道順など、すでに俺の頭の中に入っている。わざと、知っている質問をする。この問いに対する返答と表情で、俺への好感度がわかるというわけだ。
すると、左の女は、
「正面玄関を出ていただいて、右に向かって百メートルほど進んでいただきますと……」
え?
駅へは左に向かうはずだが?
「……タクシー乗り場がございますので、運転手に駅までと申し付けくださいませ」
と、さも当たり前というような感じで答えた。表情は先ほどまでと変わらず笑顔は無い。もう、俺の事はいないものとして、まっすぐ前を見据えて座っている。
このままでは何の成果も無いと焦った俺は、さりげなくその女の名札を盗み見た。
『森村』という名前らしい。どこかで聞いた事があるような気がしたが、その時はそれほど深く考えていなかった。
しかし、駅への道順を聞いて、タクシー乗り場を教えられるとは思わなかった。益々、森村さんに興味を持つことになった。
そして、しばらくしても、森村さんの事が頭から離れず、ひと月ほど経ってから、また、あの会社に行ってみた。今度は契約など関係なく、森村さんに会う事を目的にしていた。受付には前回と同じ受付嬢がいた。また、前回同様、担当者がいるか聞いてみると、案の定、不在という事だった。居留守を使われている可能性が高いが、森村さん目当ての俺にとっては、むしろ好都合だった。
そして、満を持して森村さんに話しかけようとしたところで、
「駅へはどのようにして行ったら、よろしいのでしょうか?」
と、声を掛けられた。四十代と思われる男性で、キチッとスーツを着ているが、サラリーマンには見えない。不思議な雰囲気を持った男だった。
最初、受付嬢に聞いているものだと思って、答えずにいると、その男は俺の顔を覗き込んで、もう一度聞いてきた。
「駅への道を教えていただきたいのですが……」
なぜ俺に?
と、思ったが、二人の受付嬢の前で邪険に扱うわけにもいかず、仕方なく俺が、その男と一緒に駅まで行くことになってしまい、その日は森村さんとの距離は縮まらなかった。
駅までの道すがら聞いた話では、その男は『小野寺』という名前で、職業は執事だという事だった。俺は職業柄、色々な職種の人間と接する機会があるが、執事に会ったのは初めてだった。物珍しさから、名刺を渡して自己紹介もしておいた。
それから、ひと月くらい経った頃に、また、あの会社に行ってみた。
相変わらず受付には、いつもの二人が座っていた。断られる前提の挨拶を済ませ、森村さんに話しかけようとしていたら、
「麻生様にお話がございまして……」
と声を掛けられ、振りむくと、小野寺さんがいた。
「ここでは、なんですので……」
と、近くの喫茶店まで連れていかれた。何の話だろうと怪訝に思っていると、
「麻生様にビジネスのお話です」
と、話始め、内容を聞くと、とてつもない大きなビジネスで、俺が今までに取ったどんな契約よりも大きい話だった。
どうやら、以前に駅へ案内したことを感謝しているらしく、その時に俺の仕事内容を教えられていたのを思い出し、依頼主に話を通してくれたらしい。
そのビジネスは、トントン拍子で進み、他の営業に手が回らなくなるほどの忙しさだった。実際、俺の得意先を何件か同僚に回した。それでも、俺の営業成績は圧倒的な差を保っていた。
そんな忙しい日々が、ひと段落した頃に大きなビジネスをやり遂げた自信を備え、森村さんに会いに行こうと思い立ち、あの会社に行ってみると、二人いる受付嬢の左側には、見たこともない女が座っていた。
いつもいる右側の女に森村さんの事を聞いてみると、帰ってきた答えは、
「彼女は退社いたしました」
と。右側の女の言う事には、森村さんは森村財閥のご令嬢で、今回は社会勉強のために、期間限定で受付の仕事をしていたそうだ。
やはり、俺の本能は気付いていたんだ。森村さんはチャンスだったと。まんまと逃げられてしまったが。
それからというもの、小野寺さんと会う事も無く、そちらのチャンスも去って行ってしまった。
そこで、やっと気付いた。
小野寺さんは、森村さんの執事だったと。
小野寺さんは、俺の企みに気付いて、お嬢様を守るために俺の邪魔をしていたのではないかと。




