戦後も脈々と続く日本の「敗戦システム」②(小室直樹『日本の敗因』より)
小室直樹『日本の敗因』第六章部分より。
「官の無謬性」、つまり国の政治家や役人が過ちを犯すことは絶対にないのだという、完ぺき主義の理想を掲げることによって、そのせいでかえって一切ミスを認められないようになっていってしまうという話。
● 戦前・戦中日本の「皇軍不敗神話」教育とドイツの軍国主義教育との違い
・戦前・戦中日本の「皇軍不敗神話」教育
戦前、戦中において、「皇軍(天皇の軍隊)不敗」の神話がどんなに根強かったは、いまとなっては想像しにくいかもしれない。
天皇の軍隊は絶対に負けない。この神話が、どんなに広く浸透していたか。
大日本帝国の教育の淵源は、ここにあった。
子どもたちに、この神話を教え込み、たたき込むこと。
それが、戦前、戦中の教育の重要な部分を占めていた。
・幾度の敗戦にも挫けず何度も立ち上がったフリードリッヒ大王を手本としたドイツ
この点、同じく「軍国主義教育」とはいうものの、ドイツの場合とはまったく違った。
ドイツ、とくにプロイセンでは、1945年の敗戦に至るまでは、フリードリッヒ大王(1712~86年)がドイツ人の手本として用いられていた。
フリードリッヒ大王の戦積は、主要な会戦で11勝7敗だが、
それも、当時は零細だったプロイセンが、オーストリア、フランス、ロシアなどの大国を相手にしての戦争で、横綱や大関を相手にした十両の勝負みたいなものでありながら、
金星だらけの殊勲賞で、大したスコアだった。
おかげで、戦後、プロイセンは列強の地位にのし上がった。
とはいっても、小国プロイセンにとって、大国相手の「7敗」は痛いく、
フリードリッヒ大王はもちろん、苦心惨憺し、「もはやこれまで」と思ったことも一度や二度ではなかった。
だが、フリードリッヒ大王は、何回も何回も、どん底から立ち上がった。
不可能を可能にして、倒れんとするプロイセンを、よく一木で支えて、究極的勝利に導いた。
これが戦前のドイツ的教育法だった。
苦難の極限においては、フリードリッヒ大王から学べ。これが教育のテーマとなった。
・「皇軍不敗神話」の絶対無謬性によって、負けや過ちを認められなくなった日本人
しかし日本の教育は、これとは違う。
皇軍不敗の神話では、日本軍は絶対に負けてはならない。
敗けた戦闘では、何とかとりつくろって勝ったことにするか、それすらできないときには伏せておくことにしたのである。
敗けたときも不屈の精神で盛り返した、と諭すドイツの教育とは、えらい違いだった。
たとえば、日露戦争における、旅順閉塞戦は明白に失敗だった。
これは世界共通の評価で、
それなのに、日本では失敗とされなかった。閉塞隊員の勇気だけが称えられた。
また、太平洋戦争開戦まもなくの水雷戦も失敗だった。
それなのに、成功したかのごとく、報じられた。
「不敗の神話」が高じてくると、歴史上の敗戦すら、教科書から姿を消した。
白村江の大敗は、国史の教科書には載っていなかった。
秀吉の「朝鮮出兵」では、陸上における勝利については記してあっても、海上における敗戦については何も述べられていない。
・戦前の「皇軍無謬の神話」は、戦後の「官の無謬性」へ
徹底して「皇軍腐敗の神話」をもり立てていった結果、皇軍の持つカリスマ性は、輝くばかりとなった。
「皇軍不敗の神話」は、「皇軍無謬の神話」と「天皇の絶対性」と、分かちがたく結びついていたことに特徴があった。
皇軍無謬。つまり、天皇の軍隊には、間違いがない。誤りがない。
このあたりは、戦後の「官僚無謬」とも無関係ではない。
官僚の下す判断には誤りがない。そう信じられ、そして誰よりも官僚自身がそれを信じ切って、戦後の日本を引っ張っていった。
・「誤ることはありえないと」信じ切ることが生む危険性
しかし、誤ることはありえないと信じ切ることほど危いことはない。
誤ったときに、その誤りに気づかない。気づいても、「誤った」ということにはできない。
日露戦争や昭和の戦争で、あれだけ大きな作戦ミスを続けた日本軍の指導者が、そのミスに気づかない。
あるいは気づいてもミスとは認めない。そのこととも通じる。