表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/2

戦後も脈々と続く日本の「敗戦システム」①(小室直樹『日本の敗因』より)

小室直樹 (著)『日本の敗因―歴史は勝つために学ぶ 』(講談社プラスアルファ文庫) 文庫 – 2001/5 よりのまとめ。

本書の第六章 "戦後も脈々と続く「敗戦のシステム」" の部分より、

日本の現在の民主主義や政治システムの実態についての解説の抜粋・要約。


● 戦後も脈々と続く「敗戦システム」


・デモクラシーから生まれる全体主義


自由もデモクラシーも自らの力で獲得すべきもので、他人から与えられるものではない。


アメリカは、イギリス相手に独立戦争を戦い、自由を勝ち取った。

フランスはさらに困難な道のりを経験し、ブルボン王朝を倒しただけでは、自由もデモクラシーも実現せず、大革命は大ナポレオンに乗っ取られ、二月革命はナポレオン三世に乗っ取られた。


デモクラシーとは、これほどまでにもろいもので、少しでも気を許せば、いつ独裁者に乗っ取られるかわからない。


また、独裁者による全体主義とは、デモクラシーからしか生まれない。

ある意味では、デモクラシーのなれのはてが、全体主義であるともいえる。


独裁者と人民とのあいだに、何回も何回も、権力の奪い合いのゲームが行われ、その末にやっと、人民の手に、権力が渡されることもあれば、

反対にそのままずっと独裁者の手に渡ったままになってしまうことも多い。



・日本の役人はヒットラーである。


戦後、多くの植民地が独立した。独立後、それらの国々は、旧宗主国を真似る。

これらの国を植民地としていた西欧の国々の憲法を真似て、このうえなくデモクラティックな憲法を作る。

しかし、これら多くの国のその後は、デモクラシー的でもなんでもなかったりする。

形のうえではデモクラシーなのだが、このデモクラシーがちっとも機能しない。

いつの間にか独裁者が現れて、気がつけば独裁国になっていたりする。

それは真似て作ったデモクラシー憲法だからで、形だけ真似ても、少しも機能しない。

このような例があまりにも多く、というよりも、大概はこうなっていく。


第一次世界大戦に敗戦した後に誕生したワイマール共和国もそうだった。

第一次世界大戦に敗れたドイツでは戦後、

"デモクラシーの宝石を集めたような"ワイマール憲法が作られた。

しかしこの憲法の上に成立していたワイマール共和国は、ヒットラーに乗っ取られた。

1933年、ヒットラーへの全権委任を定める法律が成立したとき、ある歴史家は、

「ドイツのデモクラシーは、バリケードで獲得されてのではなかった。

だから、ことのほか脆弱であったのだ」

といった。

人民の手によって、実力で獲得されなかったデモクラシーほど弱いものはない。

砂上の楼閣、蜃気楼にすぎない。


日本の戦前にも、憲法はあった。

しかしこの次期に行われていた日本のデモクラシー(当時は「民本主義」と呼ばれていた)は、自由民権運動と藩閥勢力と戦って打倒した結果ではなく、当時のデモクラシーは両者妥協の結果によって得られたものでしかなかった。

憲法も欽定憲法(天皇が下し給える憲法)であって、主権者(天皇あるいは国家)と人民との契約ではなかった。

つまり与えられた民本主義だった。

それゆえ、戦前の日本のデモクラシーは途方もなく弱かった。

汚職が頻発するや、権力は軍部が握り、日本全体が軍部に持ち去られてしまった。


大東亜戦争が終わって、アメリカに占領された日本では、新しく「戦後デモクラシー」が始まった。

が、このマッカーサーによって与えられたデモクラシーの運命、果たしてその終焉は、日を数えて待つのみ。

日本でのこの戦後デモクラシーは既に、ガソリンの切れた自動車のように、ほどなく動かなくなってしまった。


デモクラシーの要諦の一つは「三権分立」にあるが、

立法、行政、司法の三権が分立し、相互に抑制し合うというこの、デモクラシーの根幹が、

日本ではないがしろにされて久しい。

現在、日本では、役人が法律を作り、解釈し、施行する。

つまり、立法、行政、司法の三権が、ことごとく役人に簒奪された状態にある。

分立していなければならない三権を、すべて役人が握っている。

日本はデモクラシー国家ではなく、役人の国家で、役人はすべてヒットラーなのである。



● 民主主義の要となる「自由討論」を、自ら"不要"だといって議会の場からなくした日本


・戦後の国会法第七八条の「自由討議法」


現在の日本には、デモクラシーが存在しない。

イギリスのマーガレット・サッチャーは、

「民主主義の眼目は、率直で力を込めた討論である」と再三力説した。


ここでいう「討論」のまず第一は、「議会での討論」である。

議会の最大の機能は、自由な討論を通じて、国策を決定することにあるが、戦後日本ではそうではないのである。


戦後まもなく、新国会法が制定され、その第78条には、

「各議員は、国政に携わる議員に自由討論の機会を与えるため、少なくとも二週間に一回その議会を開くことを要する」

との条文が書き込まれた。

これは「自由討論フリー・トーキング」と呼ばれ、デモクラシーの鍵となるもの。

だが現実は、当時の日本のほとんどの議員たちにはその重要性がサッパリ理解できず、戸惑うばかりだった。

一回目の「自由討論」は、低級で感情的な野次に終始した。

これに対し、田中角栄議員は、

「明治大帝陛下も、よきをとり悪しきを捨てよと仰せられましたごとく、他議員の発表はこれを聴き、しかして、その賛否は自由なのであります。おのれのみ正しいとして、他を容れざるは民主政治家にあらず。それをもし一歩譲れば、戦時下における、あの抑圧議会の再現を見るのであります」

と絶叫したが、

しかし多数の議員は聞く耳を持たなかった。


その後、この「自由討論法」である国会法第七八条は空文化した上、

「実益なし」

として、それから8年後の1955年(昭和30年)、国会法第五次改正で、削除される結果となった。


空文とするか、そうでないかは、議員たちの見識にかかっていた。

自分たちの見識のなさを棚にあげて、「実益なし」などとは、よくいったものである。

こうして、国会における自由討議の芽は、育てられることなく、双葉のうちに摘まれてしまったのだった。


自由討議の思想は、戦後日本で決定的に欠如していたものだった。


イギリス憲法は、十八世紀なかばに完成したといわれているが、その中核となったのが、1689年の「権利章典」である。

時のイギリス仮議会が、ウィリアムス三世とメアリー二世に、即位条件としてこれを提出。

その眼目となったのが、

「国会議員の自由討議は妨げられてはならない」との主張だった。

清教徒の革命の発端も、チャールズ一世が、議会における自由討議を妨げるために、兵を率いて議会に闖入したことだった。

議会における自由討議こそ、自由主義リベラリズムの淵源である。

自由討議なくして、デモクラシーは機能しない。


ところが、日本人は、その重要性に気づかない。

それは日本のデモクラシーが勝ち取ったものではなく、突如として与えられたものだから。


自由討議を捨て去る議員たちによって成り立つ議会など、デモクラシーの議会とはいえない。


そんなニセ議員のうえに、デモクラシーなど成り立つはずもない。

立法の権利を役人たちに取りあげられてしまうのも、日本の政治家がそのような有様だからだ。


だけでなく、当時の日本には、自由討議を定める国会法第七八条が空文化し、廃止されようとしたとき、これについて論じた学者もジャーナリストもいなかった。


マスコミ、そして学者たち、彼らは、デモクラシーが、日本において、どのように守られ、機能していくかを見守る任務を持っているといっていたのに、その任務は一体どうしたのか。


こうして、日本の議会は、「自由討論」というきわめて大事なものを自ら捨てた。

議員たちは、自由討議とは無縁の衆生となり果てた。


そして国民のほうもまた、そんな状態に慣れて何も感じなくなり、官僚が書いた原稿を棒読みする閣僚をみて、いつしか呆れ果てることも忘れ、政治家とは所詮役人の木偶人形にすぎないのだと諦めてしまった。


しかし、自由とデモクラシーが欲しければ、闘い取るしかない。


大正時代に芽生えた「大正デモクラシー」も、それは、

横暴そのもでしかなかった明治維新の元勲たちによる薩長藩閥政府に対し、自由民権運動家たちが闘って、獲得したものだった。

彼らは藩閥政治に代わって立憲政治と、民本主義を樹立し、彼らの気概の前に、さしもの藩閥もその「横暴」をやめたのである。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
cont_access.php?citi_cont_id=639153509&s
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ