第八十六話 君の声 1
少し時は遡って。
ラナディアは無邪気にマコトの腕に自分の腕を絡めると、柔らかな素材の裾をふわりと翻して、涼しげな素材で編まれた椅子に、案内した。
少し戸惑いつつも素直に従うマコトを座らせるとその隣に寄り添う様に、自分も腰を下ろす。顔見知り程度の距離としては近すぎる距離だったが、特に何も思わなかったのは、ラナディアが母に似ているせいだろう。マコトは照れ隠しに伏せた目線でラナディアの横顔を伺った。
マコトの母は、いつもどんな時も笑っている人で、時々子供っぽくもあるような無邪気な人だった。思えばこの世界に来て母の事をこんな風に思い起こすのは、随分久し振りだ。
(……元の世界の時は、思い出さない日なんて無かったのになぁ……)
毎日何かしら母の面影を見つけては、遺影の前で報告していたのに、こちらに来てからは、慌ただしく日々が過ぎて行くせいか、時々、ポケットに忍ばせていた鈴の音が、母との記憶を優しく揺り起こしてくれるだけだ。辛さや寂しさよりも、ただ懐かしさと優しさを穏やかな心地で感じる。それは一体いつからだったのか。
少し感傷に浸りながらラナディアを見つめていたマコトに、彼女は、一瞬不思議そうな顔をして、小首を傾げる様に覗き込んで来た。はっと我に返ったマコトが誤魔化す様に笑みを浮かべると、ラナディアは、それを受けてにっこりと微笑む。
「待ってね。今イルディがお茶を持って来るから」
そう言って、離宮の方角に首を向け、肩に掛かった髪を払った拍子に、最初に会った時にも感じた独特の匂いに気付いた。それを誤魔化す様な強い花の匂いに、一瞬目眩を感じ、目を瞬かせる。
「どうかした?」
そんな些細なマコトの動きに気付いたらしく、ラナディアはまた首を傾げたが、その途中で思い当たったのだろう、胸元に垂れた髪に触れ、指先でくるくると絡めとり、その毛先を億劫そうな、と言うよりは苦いものを見るような動きで見下ろした。
「ああ、染め粉の匂いね。ヨナと言う花を磨り潰して染めるのよ。一昨日染めたばかりだからまだ匂うわね」
「染めてるんですか?」
よくよく見ればラナディアの密に揃った長い睫毛には、銀色が混じっており、瞬きする度にきらきらと輝いていた。と、言うことは、ラナディアの地毛はカイスやサラと同じ銀髪なのだろうか。ラナディアの小造りながらも目鼻立ちが整った顔に、神秘的な銀の髪はきっととてもよく似合うだろう。月の女神の化身だと言われても、納得するかもしれない。
(……黒い髪より似合うと思うんだけどなぁ)
そう心の中だけで呟き、比べる様に自分の重たく見えるであろう髪の毛を見下ろす。この世界では王族特有の色だと言うし、流行っているのだろうか。べったりと濡れた様な不自然な艶が光るラナディアの髪を見て、勿体無いと思うのは余計なお世話なのだろう。
(あ……そっか……)
けれど、最初に会った時に感じた違和感の正体は、その髪色の不自然さなのだと思い至る。
ラナディアはマコトの言葉に毛先を見下ろしたまま、ゆっくりと頷いた。
「あなたは、黒髪がよく似合っているわね」
羨ましげな口調にマコトが返事に困り黙り込むと、ラナディアはそれに気付いたのか、がらりと話題を変えた。
「まぁそんな事はいいのよ。それより、ねぇ。少し聞きたい事があって呼んだのよ。『イール・ダール』」
よく聞けばその声も母に少し似ている。故に彼女の口から出された『イール・ダール』と言う呼び掛けに違和感を感じ、反応が遅れた。
「えっと、聞きたい事ですか?」
(……相手は王妃様なんだから、親しく話しかけてくれても、失礼の無いようにしなきゃ)
仕切り直すようにマコトはがそう問い掛けると、ラナディアは、藍色の瞳をゆっくりと細めた。
「アドルの事、好き?」
瑞々しい唇の端を微かに持ち上げて首を傾げる。
同性であるマコトもどきりとする程、愛らしい仕草で、年上なのに純粋に可愛いなぁと思う。けれど、その名前に思い当たる人はいなかった。
(……アドル……聞いた事ある様な気もするけど……)
マコトは失礼にあたるか迷いつつも、素直に尋ねた。
「すみません。心当たりが無くて、アドル様、ってどなたでしょうか」
マコトの言葉にラナディアは、虚をつかれた様に目を見開き、そしてすぐに口を開いた。
「王の事よ。……本当に知らなかったの?」
「ああ! 王様でしたか」
そう言えば、北の兄弟と会った時に、王の真名がどうとか聞いた気がする。
申し訳無さそうに眉尻を下げたマコトの表情を注意深く観察していたラナディアは、どうやら本当だと分かったらしく、張り詰めた固い表情を和らげると口元に手を当てた。
「真名も知らないのあなた」
ラナディアは、責める口調ながらもどこか嬉しそうに笑った。言動と口調のちぐはぐさに、マコトは違和感を感じ、心の中で首を傾げる。ラナディアの話は、王の真名についてなのだろうか? 女官からの伝言を思い返し、頭の中で反芻する。
「……あの、王様の事でお話があるって伺ったんですけど、その事ですか?」
ころころと笑い続けるラナディアに、遠慮がちに尋ねた。
「ええ、そうよ?」
ラナディアの言葉に、マコトは一旦口を閉じる。
……微妙に困った。好き嫌いという対象にするには、あまりに王との接点が少ない。しかしそれをそのまま王の妃であるラナディアに言うのは、些か失礼だろう。
「あまり話した事も無いので、分からないのですけど……立派な方だと聞いています」
当たり障りのないマコトの言葉に、そう、と溜め息を漏らす様にラナディアは笑いを収めた。どこか安堵した様な態度に、ラナディアの立場を思い出し、頭を巡らせる。
王の『第二』王妃。
マコトの感覚からは想像も出来ない事であるが、王の寵を競うライバルと思われたのだろうか。
そう気付いてぎょっとする。確かに王は綺麗で優しい人だと思うが、そんな対象では無く、候補者以上に雲の上の人間だ。
「マコトは、わたくしの事、好きかしら?」
確認する様な問い掛けに、マコトが真面目な顔でしっかりと頷いたのは、「だから、好きにならないでね」と言われている気がしたからだ。
……そういえば学生の頃に同じ様な事をクラスの女の子に言われた事がある。その時は、一体何を言われているのか分からないまま、どこか切羽詰まった様な彼女に押されるように頷いたのだが、――つまりは今と同じ様に牽制されていたのだろう。
「本当に?」
念を押すように繰り返したラナディアを安心させる様に、マコトはしっかり頷いた後、口を開いた。
「はい。好きです。あの……失礼かもしれないんですけど、ラナディア様って、私の母にすごく似ていて親近感を感じています」
自分の言葉に納得して欲しくて、マコトは軽い気持ちでそう告げた。
「母……?」
戸惑ったような呟きに、マコトは再び頷いて言葉を続ける。
「もちろんラナディア様の方がお若いし綺麗なんですけど、雰囲気が似ていて――」
唇を笑みの形に辿ったまま、ラナディアは動きを、その息すら止めた。
(え……?)
目を見開き、見つめるよりは強い視線で凝視され、マコトは「だから、大丈夫です――と、続ける筈だった言葉を途切れさせる。
(あ……やっぱり、失礼だったかな)
ラナディアは実年齢よりも若く見える。
自分の母親に似ているなんて失礼だったかもしない。
謝罪を、と口を開きかけたその時、ゆるりとラナディアの時間が動き出した。
「ラナディア様?」
藍色の目はマコトを捉える様にしっかりと定められた。
「あの……?」
その強さに目を逸らす事すら出来ず、息が詰まる様な沈黙が続く。
「ねぇ、お母様の名前は?」
大きく喘ぐ様にゆっくりと言葉を紡ぐ。
その表情は、よく整った人形の様にただ綺麗で硬質。
握られた手に痛いほど力が籠もり、マコトは一瞬眉を顰めたが、ラナディアは緩める気もないようで、それどころか答えを急かす様に身を乗り出してきた。
ただでさえ近かった距離が一気に縮められ、強く香る薬の匂いに痺れすら感じる。
何故、ここで母の名前が出てくるのだろう。聞き慣れないであろう名前を興味本位で尋ねているにしては、ラナディアの様子がおかしい。
「ねぇ。名前は何?」
ラナディアは、焦れた様子を見せながらも、幼い子供をあやす様なゆっくりとした甘い声で問いを重ねた。
「……佐々木、香奈です」
マコトは、手の痛みを堪えて呟く様に答える。
「ササキカナ……カナ?」
雷に打たれた様にラナディアの身体が、大きくしなり、小刻みに震えだした。
握られた手の甲に桜色に染められた長い爪が食い込んで、赤い線が滲む。
「似てる、わ。すごく似てる……その、媚びる目が」
「ラナディア様……?」
「どうして戻って来たの?」
「戻って……?」
一体、何だと言うのか。
食い込む爪に薄い皮膚が破られ、赤い血が流れ出す。マコトは咄嗟にラナディアの手を払いのけ、立ち上がった。
「すみません……っでも、あの」
――怖い。
席を立ったものの、続ける言葉に詰まりマコトは首を回し、側に控えている筈のナスルの姿を探した。ようやく視界の端に捉えたその場所に誰かが蹲っているのが見えた。
目を凝らすよりも先に、見覚えのある衣装に、それがイブキだと気付く。
まさか、あんな場所で蹲っているなんて、階段を転げ落ちたのか、それともお腹の赤ちゃんに何かあったのか。
「失礼します!」
恐怖心も瞬時に飛び、マコトはラナディアに振り向く事なく、駆け出そうとしたその瞬間、
どん、と鈍い衝撃が背中から響き、マコトは背中を反らせた。
次に感じたのは、――熱。
体中の血が一気に背中に向かって集まり、最初は火傷したのかと思った。
手足が鉛のように重く、自由が利かず、スローモーションの様に視界がゆっくりと落ちて、太陽に焼かれた砂に身体が沈んだ。
熱いお腹を見下ろす事も出来ず、頬の下にあった砂が、最初は赤くやがて黒ずんでいくー――。
それが自分の血だと気付くまで、少しの間があった。
「――……」
一体、何が起きたのか。
咄嗟に溢れた悲鳴は音にならなかった。
「カナぁあああああ!」
耳のすぐ近くで聞こえたひび割れた声は、鼓膜に焼き付き、思考を途切れさせる。
(……なに――……?)
ゆっくりと振り返った美しい顔が真っ赤に染まり憎悪に歪んでいた。母とよく似た顔立ちは、今や見る影も無い。こんな顔など知らない。母がこんな恐ろしい顔をした事なんて無い。
遠慮の無い力でぐいっと髪を掴まれ、髪の根元が引き攣る痛みよりも、背中の熱が膨らむように強まった。力の籠もらない身体が揺れ、再び振り下ろされたナイフの赤い刃先が太陽に被って鈍く光る。
目を逸らす事も出来ないまま、マコトは真っ直ぐにその刃先を見ていたその一瞬、ラナディアの顔もナイフも。衝撃と共に視界から消えた。
「マコトさん……!!」
叫ぶような呼び掛けと共に、再び砂に落ちようとした身体を誰かが抱きとめる。――違う、これは、誰かじゃない。
マコトはほっとして、身体から力を抜いた。
微かな喧騒も鳥の声も遠ざかっていく中で、彼の声だけが鮮明だった。
――サハルさん。
大丈夫、よく分らないけれど、彼がいるなら。
視界一杯に映ったのは、顔を歪ませたサハルの顔だった。いつも穏やかな彼のこれほど狼狽えた姿を見たのは初めてかもしれない。吊り上がった眉の優しい大地のような目の縁が赤い。――泣きそう、だ、とぼんやりと思った。
――泣かないで。
重い手のひらを精一杯上げて、サハルの頬に触れる。
「――サ……」
あれほど熱かった感覚が遠ざかって、今度は全身が氷に覆われた様に身体が冷えていく。ガタガタと投げ出された手足が一人でに震え出す。
そこまできて。
(死ぬの……?)
唐突に、理解した。
――いや。
嫌だ。
嫌だ。
死にたくない。怖い。嫌だ、死にたくなんてない。
「サ、ハ……」
この人にこんな表情をさせたくない。
いつも迷惑を掛けてばかりで、何も返せなくて。大丈夫だと言いたいのに。
「――……」
声は掠れるだけで、音にならない。
なのに涙だけが溢れて、煙る様に白くなっていく視界を滲ませて何も見えなくする。
待って。言いたい事があるの。
どうして、今までチャンスはたくさんあったのに、言えなかったのだろう。
こんな自分を好きになって、優しさをくれて有難う。
私もあなたの事が――。
叫ぶようなあの人の声がして、意識は砂に埋もれるように沈んでいった。




