第八十五話 世界が壊れる音(ナスル視点)
何か倒れる様な派手な音がして、ナスルは驚いて飛び起きた。
小窓から零れてシーツの上に落ちるのは、未だ優しい月の光。
兄が帰って来たのだろう。『あの人』がいなくなってから兄は多忙を極め、ナスルと暮らしているこの家にも滅多に戻らなくなった。
暫く外出しない様に言われているせいで、王城での仕事の事は分からないが、疲れでいるであろう兄に『おかえりなさい』を言いたい。ナスルは重い瞼を擦って寝台から抜け出した。裸足の足に感じる床の冷たさによく日に焼けた小さな爪先を見下ろし、靴を履けば良かったと思うが、それよりも兄に暖かいお茶を淹れる方が先だ。
台所を横切り、居間代わりに使っている貸家の一番広い部屋に入ると、もたれかかる様に兄は、片手を机の上に置き、床に座り込んでいた。
微かに聞こえるのは獣の様な唸り声。
「……っ」
ふいにがつん、と固く握った拳が机を打ち付けた。その凶暴な音は部屋を揺らし、びくっと身体を震わせたナスルは暗い部屋の中央に目を凝らす。
冷たい床に蹲る兄の姿。
小刻みに震えている肩に泣いているのか、と思い、まさか、と目を疑う。
ナスルは兄が泣いている姿など見た事は無い。まさかよく似た別人では無いか――そう思い、自然と部屋の入り口で足は止まった。恐々と呼びかける。
「兄さん……?」
くぐもった返事はやはり兄の声だ。
ほっとして近付こうとしたナスルに、ザキは再び口を開いた。
「お前、アイツが好きか?」
アイツ? 首を傾げたナスルに、ザキはようやく顔を上げた。涙の跡が無い事を確かめ、やはり聞き間違いだった事にほっとした。きっと珍しくお酒でも飲んで来たのだ、と胸を撫で下ろし、その腕を両手で掴む。
「――アドル……王の事だ」
掠れた声に、微かな迷いと何か、複雑な響きが交じる。
「王様の事? 好きだよ」
――兄さんの次に、だけど。
兄は幼馴染でもあった王を『真名』で呼ぶ。そんな兄が誇りで、いつだってナスルは兄の事を尊敬していた。
続けようとした言葉は照れ臭さが邪魔をして、結局伝えることは出来なかったが、後悔はしなかった。
次の日もそのまた次の日も同じ日が続くと思っていたから。
幸せが零れ落ちる音は、世界が色んな音で溢れていた幼いナスルには聞こえない。
その翌日、ザキは家も一族も地位も幼い弟も何もかも置いて、姿を眩ました。
――大事なものは、いつだって自分の指先から零れ落ちる。
* * *
付かず離れずの距離で、ナスルはマコトの背中を追っていた。
一昨日の王との謁見とはまた異なり、肩の辺りまで伸びた髪は、自然に下ろされ少し強い風に揺れていて、少女を一層幼く見せた。ふと、華奢な首が少し傾いて振り返った拍子に目が合い、黙礼すれば、マコトは少し嬉しそうに笑ってぺこりと頭を下げる。
少し焦った様な女官がイブキの部屋に入り、程なくしてマコトが部屋から出てきた。
聞いていたよりも早い退出にナスルは問う様に、マコトを見ると、人と会う約束が入ったんです、と遠慮がちに答えた。
戻ってきた女官からスカーフを受け取り、そんな彼女の後ろに従ったのが少し前の出来事だ。
いつも姦しいほど騒ぐサラはおらず、他族の来客の際にいつも同席するカイスもいない。
おそらく個人的な約束なのだろう。――候補者の一人かもしれない、と思ったナスルは敢えて、その人物の名前を聞かなかった。自覚出来る程に軋んだ胸の感覚の名前について、ナスルは深く考える事を放棄し、無言のまま足を動かした。
幼く見えても彼女は、自分と変わらない年齢なのだ。その辺りの若い娘と同じ様に恋愛も結婚も出来る。
候補者の誰かと懇意になる事は、『イール・ダール』を慈しめば慈しむほど栄えるというこの世界では歓迎すべき事である。
(……見なければ良かったのだ)
安心しきった、心からの笑顔など。
心の中で呟いて、吐息を漏らす。
自分が、自分だけがその胸に引き込んで守りたくなる。自分だけのものにしたくて手を伸ばしたくなる笑顔だった。それはナスルの中の彼女を『イール・ダール』からただの少女にし、ナスルの感情を波立たせた。
見たく無い。――しかしまた見たい。相反する自分の感情に惑う。
また笑ってくれないだろうか――と、期待はするが、やはりその術は分らなかった。朝の挨拶の時も少し残念そうな顔をされたが、結局何が悪かったのか分らないまま、目の前の少女の背中を見つめる。
少女は躊躇い無く謝罪を受け入れ、また自分も少女の謝罪を受け入れた。ナスルは深く落ちていく思考を引き上げ、何か足りない、と漠然と思う。
(鈴……)
転がる様な小さな鈴の音。もう持ち歩く事を止めたのだろう。彼女から、あの愛らしい小さな鈴の音は聞こえなかった。
既に鈴の一件は王に報告済みだったが、『イール・ダ―ル』の私物と言ってもただの古ぼけた鈴だ。きっと拾った誰かが他意なく捨てたのだろうと片付けられた。十年振りに現れた『イール・ダ―ル』に取り入るならまだしも、敢えて不興を買いたがる者もいまい、と言う判断だろう。
しかし。何か引っ掛かるものがナスルにはあった。
少女は渡り廊下を横切り、庭を通り抜け、緑の深い場所へと入っていく。
この先は、と考えて、待ち合わせ場所は第二王妃の花園に思い至った。マコトの足に迷いは無く、迷い込んだ訳では無く、目的はその場所で合っているのだろう。
ナスルは少し考え、確認の為にマコトに尋ねると、マコトはまた振り向いて頷いた。
「はい。何かお話があるみたいです」
――確かに、王との謁見の時に、マコトはラナディアに誘いを掛けられていた。
しかし、先に予定していた前の『イール・ダール』との歓談を切り上げなければならない程、それは急ぎだったのだろうか。
閉まる扉の隙間から見えたマコトの嬉しそうな顔に、随分懐いているようだと思った。イブキの方も自分に向けるものとは正反対な優しい眼差しでマコトを見ていた。あんな表情が出来るのか、と思う程に。
ナスルはイブキが苦手だった。むしろ嫌悪していると言ってもいい。
『イール・ダール』という身分を嵩に、王を敬わず、王が何か言葉を送っても無言のまま睨んでいるだけで不遜極まり無い身の程知らずな女。
十年前の悲劇の元凶である前の『イール・ダール』と、イブキは姉妹の様に仲が良かったのだと言う事は有名であり、故に想いを返さなかった王を愚かにも逆恨みをしているのだと思っていた。
王が何も言わないのもナスルの苛立ちに拍車を掛けていたのかもしれない。彼女が王を睨む度に、ナスルも冷たい目で彼女を見る様になったのだった。――しかし、それもまた終わるのかもしれない、彼女が現れた事によって、自分の中で何かが急速に変化し、予想のつかない方向へと動きだそうとしていくのを、ナスルは確かに感じていた。
ナスルが花園に足を踏み入れたのは、初めての事だった。特に王が言葉にした事は無いが王はラナディアを避けており、当然ながらその護衛であるナスルも、この辺りには滅多に近寄らない。昼間とは思えない程の冴え冴えとした冷気は心地良さよりも、薄気味悪さを覚えさせる。
(ラナディア様の――)
しかし確かに賓客が一度は訪れると言われるのは分る程に、美しい花園だった。その色の洪水がまるで一つの咲き誇った花弁の様で幻想的な雰囲気を纏っていた。
その軸となる中心に、埋もれるように赤い衣を纏ったこの冷たい花園の主がただ一人で立っており、ナスルは思わず目を瞠る。
どうやらマコトの逢瀬の相手は候補者などでは無かったらしい。
ラナディアはこちらに気付くと、子供の様に長い裾をはためかせ手を振った。ふうわりと膨らんだ袖が彼女の表情を隠す。
(一人……?)
ラナディアは普段、煌びやかに飾り立てた女官を引き連れて歩いているのが常であった。王の関心を得ようと周囲の者を着飾らせるのは、さほど珍しい事では無いが、その数は年々増えており、王族の警備にあたる親衛隊としてはよく頭痛の種として話題に上がっていた。
そんな彼女が誰一人として共をつけずに、ぽつんと立っている事にナスルは違和感を覚えて、マコトを伺い見た。
「お待たせしました」
マコトはラナディアと目が合うと、階段を駆け下りていく。
その笑顔はどこか懐かしむような、嬉しそうな控え目な笑顔だった。それほどマコトはラナディアに面識があるとは思えず、ナスルはより一層眉を顰めて、マコトを追いかけようとした、その時。
「お前はそこでお待ちなさい」
当然の様に投げかけられた命令に反射的に足を下げ、頭を下げたナスルの肌が粟立った。どくん、と心臓が大きく跳ねて呼応する様に頭の隅から灰色の過去がじわりと滲み出る。
――この声。
確か、あの時の。
『貴方、実の兄に捨てられたのですってねぇ』
子供の様に小首を傾げて、吐き出された言葉は、幼いナスルの息を止めた。
心の奥底の見えないように隠していた柔らかな部分に爪を立てられたかの様な、鋭い痛み。
ラナディアとは滅多に顔を合わせないまでも、確かに聞いた事があるはずなのに、ナスルは今の今まで、あの女がラナディアだと気付かなかった。その奇妙さに眉間に皺を寄せ、すぐに答えを見つけた。
――毒。
あの時と、今の彼女の甘い声には、嫌悪感を覚えずにはいられない程の、毒が含まれている。
「『イール・ダール』こちらにいらっしゃい」
マコトはナスルを振り返り「そこで待っててくれますか?」と、申し訳無さそうに頭を下げると、どこか照れたような嬉しそうな顔をしてラナディアを見た。どうやら彼女はラナディアの事を好いているらしい。胸の奥がちりりと焦げ付く様な嫌な感じがした。
「……『イール・ダール』」
大きな花弁のその中心へ、飲み込まれるように駆け下りるマコトを呼び止めたのは、不安からだった。
「……はい?」
再び階段を下りていたマコトは振り向いて首を傾げる。
ふいに零れたように呟いた自分の言葉に、少し驚いていたナスルは、しかしその理由が分らず結局首を振った。
「……何でもありません。お呼び止めして申し訳ありませんでした」
マコトは不思議そうな顔をした後、もう一度頭を下げ、今度こそラナディアの元へ駆け寄った。二人はすぐにその少し奥に設置してあった椅子に座った。 黒髪の二人が並んで顔を寄せ合えば、まるで仲の良い姉妹のようにも見えた。……それでも何か奇妙な違和感がある。
暫くその場で二人の様子を伺う。
背を向けて話すマコトの表情は見えないが、ラナディアは子供のように無邪気な笑顔を浮かべて、仲良く談笑しているようだった。
(気のせいか……?)
あの頃自分に敵意を向けてきた人間は、それこそ数え切れない。
世界の調停者である王族からすれば、自分は確かに呪われた男の弟で憎むべき存在だろう。ラナディアの態度も敵意も当然で、幼かった故に それが異常に恐ろしく感じたのかもしれない。
ふいに騒がしい足音が聞こえ、ナスルはマコトとの間合いを詰めながら、後ろを振り返る。
走って来たのだろうか、そこには息を乱したもう一人の『イール・ダ―ル』――イブキがいた。
彼女は身重であり、ナスルから見ても子供っぽい所があるが、医者と言う立場からもあまり無茶をするとは思えない。その必死の形相に何事かと様子を伺えば、いつも側にいる西の護衛も夫のラーダもいなかった。その不自然さに眉を顰めると、ふいにぐらりとイブキの身体が傾いた、ナスルは素早く階段を駆け上がり、イブキの身体を抱きとめる。
「……イブキさん!?」
どうやらマコトも気付いたらしく、こちらを見ていた。遠目からでもイブキの顔色の悪さに気付いたのか、マコトは一度大きく目を瞬くと、すぐに立ち上がる。駆け寄ろうと大きく揺らした腕に不吉なほど白く細い手が絡まった。
大きく膨らんだ裾から太陽に照らされた刃が反射し、光る。
視線を滑らせた、ラナディアの目は、酷く淀んで――明らかに正気を失っていた。
まさか――。
「……っ逃げろ!」
その理由を考えるよりも先にナスルは吠える様に叫ぶ。叫んだ声にマコトは驚きにラナディアよりもナスルを見て、失敗に気付く。しかしそれももう遅い。
そして。
その無防備に晒された背中に向けて、甲高い笑い声と共に、ナイフが振り下ろされた。
「――ッ!!」
振り絞った声はマコトに届かない程、掠れて。
痙攣する様に大きく顎を引いたマコトがそのまま空を仰ぐように、ゆっくりと倒れていく。
凍りついた花弁がばらばらと割れてその軌跡を追い、翻った穢れの無い白い衣装に赤い色が広がって。
――大事なものは、いつだって自分の指先から砂の様に零れ落ちて、
自分の無力さを呪うのだ。
「――ッ『イール・ダール』……ッ!!」
あの日の様に。




