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不死症候群

眩しい笑顔と優しい声

作者: 譚月遊生季
掲載日:2016/09/04

 遊覧船が行き交う海の上をグラスボートが進む。客も少なく寂れた船内はがらんとしており、人目はあまりない。そのせいか、大企業の令嬢でありながら、有栖川エリカはいつになくはしゃいで身を乗り出している。名門である女子校は今日も授業のはずだが、隣のボディーガードが何とか都合をつけたと、朝早くに言ってきた。

「綺麗なお魚がいっぱい! あれはオニカサゴね! それで、あれはガンガゼ!」

「ガンガゼ? ウニじゃないんで? お嬢様」

「ええ、ウニの一種よ。でも、毒があるの!」

 ボディーガードの須川充彦は、「こんなとこ初めて」「充彦から遊びに誘ってくれるなんて」などと喜んでいるエリカの隣で感慨深げな微笑を浮かべながら、彼女の指さす先を見ていた。しかし……

 エリカたちの向かいに座る女性は青ざめ、全てに絶望しているような顔で俯く。美しい魚など彼女の目には映っていない。恋人である男性は何も言わず、そっと彼女の手を握った。しばらくして、ギリィ、と女性が歯ぎしりをし、恋人が何かを尋ねる前に、彼女の喉からは妬みに満ちた声が絞り出された。

「……良いわね。楽しそうで、気楽な立場の『おじょうさま』?」

 場の空気が、凍った。

「智恵!」

 男性がたしなめるように言い、冷や汗をかきながらエリカたちに向けて謝罪する。しかし、エリカは自分に悪意が向けられていると分かって智恵と呼ばれた女性をきつく睨みつけた。

「……何ですって?」

「お嬢様! 気にしねぇ方が良いですって」

 充彦が止めるのも構わず、エリカは智恵に食ってかかる。

「人の楽しみに水を差すのってどうなの!? 自分が楽しくないだけでしょ! 八つ当たりなんてバッカみたい!!」

 智恵は、エリカの方など全く見ようとせず、ぼそぼそと言葉を続ける。

「あなたは良いわね、どう見ても恵まれているわ。優しそうなお付きの人もいるし、どうせ将来だって、何もかも約束されているんでしょうね」

 ぽろりと涙を落としたのは、智恵ではなくエリカだった。涙は次々にぼろぼろと溢れ、抑えることなどできなかった。彼女にとって一番触れられたくなかった、「将来すら約束されている」という事実が深く心に突き刺さる。

「恋人がいる、って……それだけで、うらやましい。私には絶対できない。だってみんな私のことは特別扱い。皆私のことを「有栖川の令嬢」としてしか見ない! 学校では腫れ物みたいに扱われて本当のお友達なんてできないし、家に帰ればお勉強に、お稽古……。私から見たら、あなたこそ十分恵まれてる! じっと手を握ってくれてる恋人が、どれほど素敵なのかすら分からないの!?」

 船内がシンと静まり返る。

 智恵は顔を上げ、まじまじとエリカを見た。彼女の脳裏に浮かんだ少女時代の残像。厳しかった両親の姿。ひたすら勉強させられたあの日々。目の前の、おそらく中学生ほどの少女が、どこか過去の自分と重なる。啓介がぼそりと呟いた。

「僕は、優しいわけじゃないよ。ただ、智恵がいればそれで良いだけなんだ。母さんが死んでから、本当は寂しいし、辛い。だからこの手を離したら、……智恵まで遠くに行ってしまいそうで、怖いんだ」

 智恵の瞳から、涙が溢れた。

「……ごめんなさい」

 自分の手を握る恋人……啓介の手を、握り返して呟く。その様子も、エリカの心にチクリと刺さった。


「申し訳ありません。楽しんでいただくつもりだったのに……」

 泣きはらした目のエリカに、充彦は深々と頭を下げた。先程までとは違い、仕事用の口調になっている。それに不快感を示すように睨むと、砕けた態度と苦笑が戻ってくる。

「……そうね。悪いと思うなら、まだ付き合ってもらおうかしら」

 彼女の笑顔も、嬉しそうな言葉とともに戻ってきた。

「さっきのこと……本当はね、「皆」じゃないのよ」

 その言葉は声に出さず、胸の中にしまっておいた。他の人間ならまだしも、充彦ならそれぐらいは知っている。


***


「それでお嬢様、今度はどこに行きたいんで?」

 停車したレンタカーの中、充彦が助手席のエリカに尋ねる。エリカは観光パンフレットを凝視して考え込んでいたが、しばらくしてあるページを指差した。

「動物園はどうかしら? 今日は天気もいいし、動物たちもきっと元気よ」

「……お安いご用です」

 一瞬だけ躊躇いつつも、それを気付かれないよう、充彦はアクセルを踏んだ。


「知ってる? 象は仲間の死を悼むらしいわ」

「へぇ。……死、ですか」

「骨を撫でたりするらしいの。ロマンがあると思わない?」

「あー、確かに」

 象が、大きな鼻を使って干し草を食べる。エリカはその様をキラキラと目を輝かせて見ていたが、ふと充彦の方を見ると、象など眼中にないかのようにぼんやりとしている。象が高らかに鳴き声を上げたが、それでも反応がない。

 それからしばらく周っているうちに、エリカは完全に充彦の異変を感じ取っていた。返事がどこか素っ気なく、上の空のように見える。明らかにおかしい。

「……充彦、楽しくないの?」

 ついに、エリカの声が震える。充彦がハッとして彼女の方を見ると、俯き、ぎゅっとスカートの裾を握っている。

「嫌なら、嫌だって言ってくれてよかったのよ。……それとも何? 無理してついてきてくれたの? 私が有栖川の令嬢だから? 私、あなたは「私自身」を見てくれていると思ってたし、仕事とか、そんなの以上に大事にしてくれてるって……。でも、違ったの……?」 

 泣きそうなエリカの様子に、充彦はしまった、という顔をする。それでも、しばらく何か言うのを躊躇ってしまうが、エリカの瞳に涙が溜まり出したのを見て、申し訳なさそうに頭を掻いた。

「いや、その……。実は俺、ちょっと前……いや、だいぶ前なんですけど、離婚してるんです。家族で最後に行ったのが動物園だったもんで、つい思い出しちまって……。もう、子どもとは二度と行けないんだな、って」

 頭を下げ、充彦は更に続ける。

「離婚したとか、……最初は娘とお嬢様が歳近かったから気にしちまったとか、そんな情けない事情、知られたくなくて……。お嬢様の前では、俺は頼りになるボディーガードでいたかった。……弱いとこなんて、見せたくなかったんです。……不愉快な思いさせちまって、本当にすみません」

 すべて話し終わると、エリカはふるふると首を振った。

「……こちらこそ、嫌なことを話させてしまってごめんなさい。……でもね」

「でも……何です?」

 少しだけ身構えた充彦を見て、エリカは涙をぬぐい、悪戯っぽく笑った。

「私、充彦が頼りになるカッコイイボディーガードだなんて、いちっども思ったことないわ。優しくて、一緒にいると楽しいっていつも思ってるけど」

 その言葉を聞いて、充彦は苦笑した。

「誰も、カッコイイなんて言ってないじゃないですか……」


 その後、夕方になると、二人は動物園のショップの中にいた。

「これ、可愛いわね!」

 ウサギのストラップを持って声を弾ませた後、エリカは隣のパンダのストラップも手に取る。

「ちょっとこれ、充彦にそっくりよ? 間抜けそうな顔とか」

「どこが似てんですか。俺はもっとハンサムですよ」

「あははっ、鏡を見て言いなさい!」

 軽口を叩きあっていると、エリカの目に、黒い熊の置時計が飛び込んできた。先程のパンダのストラップと見比べてみる。

「……これ、素敵ね。……でも、ちょっと高いわ。持ってるお小遣いじゃ厳しいかしら」

「意外とカッコイイのがいいんで?」

「カッコイイのも好きなの! それに直感でいいなって思ったのよ!」

「珍しいこともあるっつうかなんというか……まあ、お嬢様みてぇな大金持ちの令嬢でもお小遣い制ってのが、既に意外な話ですよねぇ」

「本当よ。お父様とお母様は厳しいわ。経済観念を身につけるのが大切ーだなんて、もう知ってるのに」

 苦笑する充彦に口を尖らせながらも、エリカはその時計を大事そうに持って、棚に戻そうとしない。

「……俺が買ってやりますよ」

「えっ?」

 エリカが充彦を見上げると、既に財布を取り出していた。中の札を数え、ほっとしたのが隠していても丸わかりだ。

「良いんです。どうせ金があるのなんて慣れないんで」

「……あなた、そのせいで離婚されたんじゃないの?」

「……余計なお世話ですよ」

 図星を突かれて少し不機嫌になった充彦だが、エリカの楽しげな笑顔のおかげか、すぐに口元が緩む。

「ありがとう、充彦!」

「……お安いご用です」

 優しく笑って、充彦は心の中で呟く。

「お嬢様のおかげで、俺はそこそこ幸せだったんです。……そのお礼ですよ」


***


 エリカはレンタカーの中で、置時計とストラップの入った袋を抱き締める。特別な思い出ができた、と嬉しそうだ。

「今日はありがとう、充彦。とても楽しかったわ」

 夢見心地な声。充彦は、微笑みながらも少しだけ眉をひそめた。これから先、彼女はまた息苦しい生活を強いられるのだろう。有栖川の令嬢として、孤独感に苛まれながら。何とかしてやりたいと思っても、彼はもはや、何も持ち合わせていない。

 充彦の家は貧乏だったが、それでもその生活をそれなりに謳歌していた。エリカも、そうであれば幸せだったのだろうか。

 外からの光に照らされたエリカの顔が、寂しげになる。レンタカーを返却してしまえば……楽しい時間は、終わりだ。

「……ごめんなさい。こんなに遅くなって……。無理をさせてしまったんじゃないかしら」

「そんなことないですぜ。ちょちょいと電話入れたら済んだんで」

 正直なところ、最初からかなり無理を言って、今回の計画は始まっていた。だが、先ほどのエリカの笑顔は、それだけの価値があったと彼は思う。……これからあの笑顔を見ることは、絶対にできないから。

「ねぇ、充彦。……私に、恋ってできるかしら」

 突然エリカが、ぽつりと呟いた。

「……あの二人のこと、気にしてるんですか」

 グラスボートで出会った、恋人たち。彼らは一見不幸そうにも見えたが、お互いがお互いを必要としていた。それは「依存」という形かもしれないが、エリカにはそれすら羨ましい。無言で俯いたエリカ。ちょうど赤信号になり、充彦は思わずエリカの頭を撫でていた。

「……大丈夫です。きっといつか、素敵な恋が出来ますよ」

 ただの慰めだった。きっと彼女は、これからもまともな恋愛すら許されないだろう。だが、彼は他に気の利いた言葉を持たなかった。

 エリカは大きな充彦の手に撫でられ、嬉しそうに目を細める。一時的な慰めでも、まだ幼さの残る彼女だからこそ、ほんの少しだとしても効果があった。……レンタカーが店に入る。明日からのことを思い、無言となる時間が訪れた。


***


「誰か、迎えに来ると思っていたわ。……でも、こういうのも良いわね」

 エリカの家へと向かう道を、二人で歩く。豪邸が見えてくると、不意に充彦が立ち止まった。

「どうしたの?」

 エリカが不思議そうに尋ねると、充彦は持っていた動物園の土産をエリカに渡し、泣きそうな顔で笑う。涙は、最初から見せないと決めている。

「……そろそろ、俺はお別れです」

「え……?」

 意味が分からない、という顔のエリカを真っ直ぐ見つめ、充彦は続ける。……拳を、ぎゅっと握りしめて。

「お嬢様。忘れねぇでください。俺みたいに、あなたを大事に思ってる人がいたことを。これから辛いことも、苦しいこともあるでしょう。……俺は残念ながら、もうそばにはいられません。でも、乗り越えてください。人生を、諦めねぇでください。……幸せに、なってください。それだけが、俺の望みです。……これを伝えたくて、俺は無理を言ってこの時間をもらったんですから」

 今度は、一時的な慰めなどではなかった。落ち着いた声色でも、魂が必死に叫んでいるような、充彦の本心。充彦が何を言っているのか、エリカには分からない。いや、分かる。充彦がもう自分と会えないということも、最後に勇気づけようとしてくれていることも分かる。けれど、けれど……

「充彦……?」

 呆然と呟くしかできないエリカの背後から、バタバタと足音が二つ近づいてくる。

「お嬢様! どこに行ってらしたんですか!?」

「お父様もお母様も心配なさっていたんですよ……!」

 振り返ると、充彦と同じ警備会社で、充彦と同じように有栖川家の担当である二人の姿がそこにあった。混乱しながら充彦の方を見るが、もうその姿はない。まるで消えてしまったかのように、どこにも見当たらない。

「充彦は、充彦は!?」

 嫌な予感がした。半狂乱になって尋ねると、二人は顔を見合わせ、黙り込む。やがて、重い沈黙を破るように、片方が口を開いた。

「須川は……昨日、仕事で……刺されて、ええと……その……。……皆、油断してたんです。だって、そうじゃなきゃ……っ。……すみません。…………古株で、お嬢様もお気に入りのようでしたから、私どもの口からは、とても……」

 感情をできる限り抑えた声でも、すべてを悟ってしまえた。エリカはその場に崩れ落ちる。耳元で確かに響くのは、低くて優しい声。小さな頃から傍で自分を励ましてくれた、父よりも、誰よりも、ずっとずっと大好きな声。

「俺は昔から、あなたの笑顔に救われてた。……ありがとう、エリカ」

 エリカの中で、堰を切ったように溢れだす想い。感謝も哀悼も悲嘆も何もかも、すべて嗚咽と涙に変わる。夜空に一つ、星が流れた。

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