星辰が揃う時
僕がその少女の姿に気づいたのは全くの偶然だった。歩いていた僕は、ふと空を見上げてたくさんの見たこともない鳥が飛んでいることに気づいたのだ。夕暮れの橙色に染まった空を無数の黒い点が行きかい、美しいがどこか不吉な景色を生み出している。
それをぼんやりと追っていた僕の視線は、既に取り壊しが決定してる廃ビルの屋上で止まった。髪の長い華奢な少女が、所々にひびが入った古い建物の上にいたのだ。
時刻は夕暮れ時を少し過ぎたころ、家路につく人々と車が安堵と疲労が入り混じった独特の喧騒を作る時間。そのざわめきの中、少女はただ空を見上げていた。
その姿を見た僕は不自然なものを感じた。どうしてあの少女はあんな廃ビルの屋上にいるのだろう。そして周りの人々は何故、少女の存在に気づかないのだろう。こんなにたくさんの人が歩いているのに、屋上に注目しているのは僕一人だけなのだ。普通あんな少女が廃ビルの屋上などに立っていれば、飛び降り自殺だと言って騒ぐ人が必ずいるはずなのに。
何となく、本当に何となく僕はその廃ビルの中に入っていき、屋上に続く階段を上り始めた。何故そんなことをしたのかは自分でも分からない。少なくとも自殺だと思って止めようとしたのではない。少女がビルから飛び降りるつもりなら、それはそれで放っておくべきことのはずだった。見知らぬ他人の決断に口を出す資格など僕にはない。
奇妙な行動をとっている人物への好奇心? いや、それも違う。少なくとも普段の僕は、他人が何をしていようが気にしないはずだ。僕が何をしていても、例えばこんな廃ビルに入っていっても、他人が気にかけないのと同じように。
結構苦労して屋上にたどり着いた僕の目に、少女の後ろ姿が映った。暗くなりかけているのでよく分からないが、その長い髪は黒かそれに近い色なのだろう。
「あの…」
少女に話しかけようとした僕は、急にこんな場所に来たことを後悔し始めた。何故自分はあの少女に話しかけようとしているのだ。考えてみれば少女が何をしていようと彼女の勝手ではないか。
ひょっとしたら少女は一人になりたいので、こんな場所にいるのかもしれない。だとすれば僕がしたことは失礼かつおせっかいだ。
「何?」
少女は振り向いた。顔は暗いのでよくわからない。少女がゆっくりと近づいてくる。僕は狼狽した。いきなり話しかけたことをどう説明すればいいのだ。そう僕はただ、何となくここに来るべきだと思った。それだけだ。
「いや、何をしてるのかなと思って。」
結局僕はそう言った。そうとしか答えようがなかったのだ。周囲からはまだ鳥たちの鳴き声が聞こえる。ねぐらにはいつ戻るのだろう。
「星を見ているのよ。」
少女はそう答えた。僕は少し混乱した。まだ星が出る時間ではないし、大体こんな街中では星など見えないはずだ。
「星なんかここじゃ見えないはずだけど。」
僕がそう言うと、少女は黙って空を指さした。その先を見た僕は唖然とした。そこは満天の星空だった。無数の星々が瞬き、天の川がその間を横切っている。街灯りが星をかき消す現代では絶対に見ることができないはずの光景だった。
そう思いながら、下にあるはずの街のほうを見た僕はさらに唖然とした。そこにあるはずの無数の光がない。街灯、車のライト、家やオフィスビルの照明、すべての光が消えている。
停電? いやそんなはずはない。停電だとしても車のライトや非常灯は点いているはずだ。それも全て消え、真っ暗闇だ。まるで全ての光が上の星空に移されてしまったように。
「君がやったのか?」
僕は混乱しながら目の前の少女に話しかけた。こんな現象が起きた理由は全く分からない。ただ彼女が空を指さしたとたんに、星空が出現した気がしたのだ。
「違うわ。」
少女は答えた。
「ただ、そういう局面になっただけよ。」
「局面?」
僕は思わず聞き返した。どういう意味なのか全く分からなかった。
「ヨグ=ソトースの扉は今開かれた。世界が次の局面に入った。」
そう言って少女は再度空を指さした。相変わらずの満天の星空。その中で明滅する星々が段々大きくなっていく。近づいてくるのだ。この地球に。星々の光はやがて夜空を埋め尽くさんばかりに広がった。
「旧支配者は帰ってくる。」
少女はそう言い残すと、目の前から唐突に消えた。その代わりに集まってきたのは、さっきの鳥の群れだった。いやそれは鳥ではなかった。巨大な蝙蝠のような奇妙な生き物がこの屋上に集まってくる。
不思議と恐怖は感じなかった。全てにおいて現実感がない。上空を埋め尽くす光も、消えてしまった街も、目の前の生き物でさえ。
やがて何か巨大なものが目覚める気配がした。彼らは至るところにいるようだ。そして僕は自分が立っている場所が、ビルの屋上などではないことに気づいた。そこは何か訳のわからない場所、地球上であるかさえ定かではない場所だった。
あの少女は誰だったのだろう。少なくとも人間ではなかった。そう思いながらぼんやりしていた僕は急にあることに気づいた。僕もやはり、人間ではないことに。僕もまた、彼らの一員であることに。