第一章 そのニ
「Act.2」
あのあと瑞樹はひとしきり小説のダメ出し――中には「天竜崎さんのこと好きなの?」といった不意をつく尋問まで含まれていたが(ちなみにもちろんやんわり否定した。名前を借りたのは単にイメージの問題だったし、他意はないのだ、他意は)――をしたあと、「制服のままだし、一度着替えてくる」といって家に帰った。学校で補習を受けてきた帰りにまっすぐうちへ寄ったらしい。
(補習か……成績優秀のあいつがね……)
と有一は思った。そう、瑞樹は補習を受けるほど成績が良くないというわけではない。むしろ定期試験では常に上位をキープし続けるほどの頭脳の持ち主だった。
女子にしてはかなり長身でスレンダーな体型に短めの茶髪、快活そうな顔立から、一見するとスポーツ万能少女のような印象を他人に与える瑞樹だが、実際は外見に反してかなりの読書好きだ。部屋の本棚には漫画の他にクラークやギブスン、ハインライン、ウェルズといった海外のSF小説や、クリスティにコナン・ドイル、江戸川乱歩のような推理小説の古典が並んでいるのを、以前部屋に上がった際に目にしたことがある。彼女は父の趣味で昔から読んでいたと言っていたが。
まぁ、そんな環境で育てば、当然ある程度の読解力や知識は身についているといえよう。本人曰く、国語や外国語科目は読めばだいたいわかるからかなり楽らしい。
知識は記憶の積み重ねだ。今日得た記憶が、明日の知識に繋がる。そしてそれらが幾つも束なり合うことで、人の生き方は意味を持ち始める。これは真理だ。記憶のない俺にはそれが誰よりも身にしみる――が、まぁそれは置いといて。
瑞樹が補習とはいったい何故だろう。
――いや、原因はわかっていた。
西園光国。
モデルを思わせる整った顔に嫌味のない話し方、そして裏表のない爽やかな性格で目下女子に大人気の、クラス内上流階級に位置するイケメンである。
だが成績はというと、試験はほぼ全科目非常警報。常に赤点レベル。度重なる赤点に呆れた先生たちが彼のために毎週日曜に特別補習を開くほどという、西園はいわゆる残念な奴だった。
しかしその残念な西園に、瑞樹は惚れているらしい。
『あのなんともいえない癒し系の感じがいいんだよね』と二ヶ月ほど前に俺に打ち明けてきた瑞樹は、以来西園と一緒にいたいがために、成績優秀でありながら希望して特別補習を受けている。おそらく今日もそれに参加していたのだろう。
瑞樹とは長い付き合い――といってもほんの数年程度だが――だが、未だに何を考えてるのかよく分からない。男勝りのようでいて実は乙女だったりするからな。ってか、わざわざ補習を受けるより、いっそ告白すればいいものだが……。
なんてことを考えていると、部屋のドアを開け瑞樹が入ってきた。
「今日はあたしがご飯作ってあげる。有一はろくに料理できないでしょ? それに、おばさんにも頼まれてるし……ってことで、買い物行きましょ!」
白いニットにデニムをはいた私服姿の瑞樹は俺を急かすような仕草で言った。時刻は午後3時を過ぎたところ。そうだな、お言葉に甘えるか。俺は上着を取って、家を出た。
穏やかな晴れ模様。駅前の商店街は、11月半ばの天気とは思えないほど暖かい陽気に包まれていた。その中をたくさんの人が賑やかに行き交っている。日曜日なのでやはり子供連れなどが多いようだ。その商店街のアーケードを、俺――素川有一と隣人で友人の細田瑞樹は歩いていた。
「そういや瑞樹って、料理できたっけ?」
俺より5センチも背の高い瑞樹と話す時には、自然と首を上に傾けることになる。高校生男子の微妙な上目遣い。なんだこれ。いや、気にしたら負けだ。
瑞樹はコートのポケットから白い紙を取り出し、それをひらひらと振った。どうやらメモ用紙のようだ。
「最近お母さんに教えてもらってるの。レシピとか本格的なのよ。あ、ちなみに今日はカレーです。サバ味噌コンニャクキムチカレー」
おい、一瞬にして不安の渦へ突き落とす単語の群れがカレーの前置詞としていくつかあったぞ? 聞き流しただけでは美味しそうかもしれないと思わせるのが逆に怖い! いや、しかしカレーならば……カレー味ならなんでも美味しい……カレーの偉大さに賭けてみるか……?
「不安だ……」
「なんか言った?」
「いえ別に」
おっと、心の声が漏れていたようだ。俺は平静を装うため道の反対側へさっと目を向けた。
その先には小さな本屋があった。見たところ古本も取り扱ってるようだ。電子書籍の台頭により紙の書籍はほとんどデッドメディアとなりつつあったが、中古本を取り扱うマニア向けの個人商店などは細々と残っていた。
そういえば瑞樹の家にあったのも紙の本だ。瑞樹の父はコレクターだったのだろうか。
なんてことを考えながらふらふらと本屋に近寄ってみる。店の前のワゴンに並べられた古雑誌の見出しが目に入った。
『人類滅亡のカウントダウン!? 世界各地で大流行する謎の現象〈エヴァー・ストーム〉!!』
『魔法少女たちは敵か味方か!? 今その謎に迫る!!』
『果たして世界は救われたのか。魔法少女について徹底対談!!』……どうやら5年前に書かれた週刊誌らしい。ゴシック体の大きなフォントが表紙を占めている。
〈エヴァー・ストーム〉。そして、魔法少女。
それらはおそらく、俺が記憶を亡くした理由と原因。
「魔法少女……」
その言葉の響きには以前から何か惹かれるものがあった。いつのまにか俺は雑誌を一冊手に取り、食い入るように見つめていた。
「――っっ!」
次の瞬間、立ちくらみに似た目眩を感じ、思わずその場にうずくまる。
音が、耳鳴りが。無音が耳を侵す。手指が一瞬にして冷たくなったのを感じる。
なんだこれは……。
まるで時間の流れが遅くなったような感覚。周囲の風景が、遅い。途端に頭痛が襲ってくる。俺は頭を押さえ必死に耐えようとするが、同時にそれが無意味なことも(何故か無意識に)知っていた。
だんだん意識が遠のいていく。視界が歪む。声が出ない。
ふっと、体がどこかへ落ちていった。
どれくらい経ったのか――それは現れた。いや、まるで最初から存在したかのように、それは目の前にあった。眩いばかりの光のシルエット。
「彼女は……」
言葉が無意識に口をついて出た。幾つもの光が触れあって重なり、形作った何か。それをなぜ女性だと思ったのか、俺自身もわからない。
「……て…………な……っ……」
『彼女』は必死に何かを伝えようとしている。俺はそれに耳をすますが、よく聞き取れない。
すうっと体の力が抜けていく。そして――
「急にいなくなったと思ったら、どうしたの有一。そんなところに突っ立って」
はっと振り返るとそこには瑞樹がいた。
俺は本屋の前に立っていた。いつのまにか目眩は治まったようだ。手には古雑誌を持っている。周りは変わらぬ商店街の日常。俺は軽く頭を左右に振ると、体に異常がないことを確かめ、古雑誌を本屋のワゴンに戻した。
あれはいったい何だったんだ……? 霊的体験? それとも受胎告知? いやいや俺男だし……。
次々と浮かぶ疑問に顔をしかめていると瑞樹が口を開いた。
「うんうん、そうかー。有一もお年ごろだもんねー。いいのよー。いいのいいの。ここなら昔のエッチできわどい本とか手に入りそうだもんねー。でも女の子と一緒に買物してる時にそういうのは良くないなぁ」
瑞樹は両手を後ろに回し、何か納得したように微笑む。
ううん? これは多分なにか勘違いしてらっしゃるな?
俺が慌てて否定すると「そうですかぁ」と言って瑞樹はすたすたと歩き出す。俺はその後ろを慌ててついていくが、心なしかいつもより足が重い。そういえば晩飯はこのままいくと瑞樹お手製のサバ味噌コンニャクキムチカレーだった。なるべくなら阻止したいが、もしもの時は……俺の胃よ、信じているぞ……119をすぐにコールだ!
そんなことを考えながら、俺は瑞樹とスーパーに向かった。
ほぼ同時刻。駅に隣接したとあるホテルの最上階。通りに面した大きなガラス窓があり、そこから差し込む夕陽が部屋を赤く照らしている。その窓際からはるか下方を見つめる人影があった。
「――やーっと見つけた。ウィル!」
『おう。しっかり《視て》るぜ。しかしよぉ、まさかあんなのが『背教者』だっていうんじゃねえだろうな。見た目は普通のガキだぜ?』
「間違いないわ。あれが現れた」
『ちっ……いざとなったら俺が……!』
「ダメよ。指示は出ていない。けど、あんたはあたしだ。気持ちはわかる。――とにかく今は監視を続行。いい?」
『あいよ』
部屋には人影が――それはどうやら女性のようだ――一人きりで、他には誰もいない。通信機も何も持たず一体誰と会話していたのか。
「接触してみるのもいいかもねー」
女性は手のひらを夕陽に透かした後、ふふんと小気味よく笑った。
赤々と光を伸ばしていた太陽はほとんど暮れて、今は薄闇が世界を覆っている。俺は瑞樹と買い物を済ませ帰路についていた。
目当ての食材を買えたとかで、瑞樹の顔は明るい。対照的に俺の顔色はどんよりと曇っているだろう。それもそのはず、食材の内容がアレなのだ。
隣を歩く瑞樹の手には、ぱんぱんに物が入ったエコバッグが。中身はにんじん、玉ねぎ、じゃがいも、カレー粉、サバ缶、味噌(なぜか赤味噌と白味噌の両方)、砂糖、マヨネーズ、キムチ、オリーブオイル、唐辛子、ニンニク、こんにゃく、豚肉、鶏肉、牛肉、鹿肉、こんにゃく(2)など。
あははは。こんにゃくがダブってるのは何故だろう。初期仕様か。なんのだ。俺は知らない。
しかし『肉は一種類でいいんじゃないか? それと付け合わせに野菜サラダとか……』と提案しても、『お肉はたくさん入れたほうがいいじゃない。それに野菜なんか知らないわ』と満面の笑みwith有無を言わせぬオーラで返されたその事実から、おそらく今夜の献立に俺が友好的介入をすることは不可能に思われる。
とりあえず起死回生の一手が浮かぶまで遠回りして帰るか。いや、次の角を右に曲がって10分ほど歩いたらもうすぐ家だ。時間を稼ぐ余裕はない。参った。何が出てきても腹を壊さない自信はあるが。どうせなら美味しい物を食べたいのが人間の性だ――これは何かの本の浅い受け売りだが。
と、俺が大粒の汗を流しながら悩んでいるを知ってか知らずか、瑞樹は鼻歌を歌いながら歩いている。軽妙なリズムに乗って時々音があらぬ方へ外れる変な鼻歌。まったく。その姿を見ていたらなんだか馬鹿らしくなってきた。
悩むのもそこそこに切り上げた俺はふと歩みを止め振り返ると、20メートルほど後ろでがさごそと人が揉みあっているのが見えた。なにやら怒号らしきものがこっちにまで聞こえる。道路脇には一台の黒いワゴン車がハザードランプを明滅させた状態で止まっている。
はじめは事故かと思ったが、薄闇とはいえこんな見通しのいい一本道で、しかも車が一台だけで事故を起こす可能性は、飲酒運転などの割合を鑑みてもそれなりに低いだろう。さらに俺は車が何かにぶつかった大きな音も急ブレーキ音も聞いていない。ならば喧嘩だろうか。そっちの方がありえそうだ。
まあ、どちらにしても警察がなんとかしてくれるだろう。
俺は視線を戻し歩き出した。その瞬間、「きゃっ!」という女性の悲鳴が背後から上がった。見ると、若い男達が女性を取り囲もうとしていた。女性は尻餅をついた状態だ。男の一人に突き飛ばされたのだろう。
女性が暴漢に襲われている。
「瑞樹、悪い。先帰っててくれ」
「えっ」
俺はそれだけ言うとすぐさま駆け出した。