↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『偽りの封印と灰色の伝票』 ~元特務潜入員の配達員は、改ざんされた記録で巨悪を暴く~  作者: NN
国境を越える荷札編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

115/121

留め具の傷と粉塵の向こう

 指先が金具に触れた瞬間、僕は記憶の底へ落ちた。白い灯りが視界の上で揺れ、天井の代わりに、崩れた床と斜めに傾いた梁が見える。粉塵が細かく舞い、息をするたび喉の奥へ入り込んだ。


 どこかで、警告音が鳴っていた。


 短い音が続き、最後だけ長く伸びた。


 遠くの隔壁が閉じる音。


 また一つ、避難路が失われた。


 前世の僕は、崩壊した研究棟の下にいた。


 アーク・セブンの中心区画。


 軍事施設ではない。


 異相接続装置と、都市の避難誘導網が収められた研究棟だった。


 装置が暴走した原因は、まだ分かっていなかった。


 異なる場所をつなぐための出力が、都市の電力網へ逆流した。白い照明が赤く変わり、居住区の扉が閉じ、避難標識が一斉に消えた。


 僕は、制御核を取り戻すために建物へ戻った。


 戻る前、技術班の一人へ退避を命じた。


『先に出ろ。ここは、もう保守班が残る場所じゃない』


 返事は聞いていない。


 警告音が大きく、通信が途切れていた。


 僕は、彼女が避難路へ入ったと思っていた。


 だから、崩壊した床の下で一人になった時も、救助を待つつもりはなかった。


 背中の装備を外そうとした。


 しかし、留め具が梁へ引っかかっている。


 左腕は動かない。


 右手で金具を探ると、指に熱いものが触れた。血か、溶けた樹脂か、判別できなかった。


 その時、瓦礫の向こうから光が差した。


 白色灯。


 軍用の強い照明ではない。


 手動の作業灯を、誰かが細い隙間から差し込んでいる。


 光が揺れた。


 粉塵の向こうで、人影が膝をつく。


「動かないで」


 声がした。


 若い女の声だった。


 落ち着いているように聞こえたが、息がひどく乱れている。


「梁を外す。背中の留め具に救助線を掛けるから、合図まで力を抜いて」


「戻るな」


 僕は言った。


 声が掠れていた。


「ここは崩れる。技術班は、もう避難しているはずだ」


「避難路に人が残っている」


 女は答えた。


「名簿に、まだ受領印がない」


 その言葉だけが、はっきり聞こえた。


 彼女は僕を助けるために戻ったのではない。


 避難路に残った人間を、誰も受け取っていないことを確認したから戻った。


 白色灯が、彼女の手元を照らした。


 手袋の縫い目が見える。


 戦闘用の手袋ではない。


 指先に補強布があり、手のひらには滑り止めの細い帯が縫い込まれている。巻き上げ機の取っ手を握るための、技術班の作業用手袋だった。


 彼女は救助線を引き寄せた。


 線の先には、手動巻き上げ機がある。


 電力は切れている。


 魔力の補助も使えない。


 だから、彼女は自分の腕で、僕を引きずり出そうとしていた。


「装備の留め具を、外側から掴む」


 彼女が言った。


「痛いけど、我慢して。線を締める時に、背中が浮く」


「先に逃げろ」


「それは、さっき聞いた」


 彼女の声に、初めて怒りが混じった。


「でも、あなたが戻った時、避難路に人が残っていた。だから私も戻った」


 僕は、彼女が誰なのか考えようとした。


 顔が見えない。


 作業灯の角度が悪く、目元は影になっている。


 ただ、手袋の縫い目と、袖口に縫い付けられた小さな印だけが見えた。


 軍の作戦符号ではない。


 民間避難用の印。


 住民の誘導路を保守する技術班が使う、簡素な白い印だった。


「線、掛かった」


 女が言った。


「音が変わったら、力を抜いて」


 巻き上げ機が軋んだ。瓦礫が背中へ落ち、次の瞬間、留め具が強く引かれる。背中の皮膚が裂けるような痛みをこらえた直後、僕の身体が床の外へ引きずり出された。


 その直後、僕がいた場所の天井が崩れた。


 彼女は、巻き上げ機の手を止めなかった。


 普通なら、自分の身体を伏せて落下を避けるところだ。けれど、彼女は僕の装備が線から外れないよう、片手で留め具を押さえた。


 石片が、作業用手袋の甲へ当たる。


 白い粉が手袋の縫い目へ入り込んだ。


 彼女は痛がる声を上げなかった。


 代わりに、巻き上げ機の横へ置かれていた小さな木札を見た。


 木札には、数字ではなく三つの短い線が刻まれていた。


 避難路の入口。


 受け取った人数。


 まだ受け取られていない人数。


 軍の作戦表なら、最後の項目は損失として処理される。


 彼女は、それを未受領として残していた。


「何人いる」


 僕が訊いた。


「分からない。名簿が途中で切れている」


「なら、外へ出ろ。外の班へ伝えろ」


「伝えるためにも、ここから出る」


 彼女は巻き上げ機の歯車へ布を噛ませた。


 手動の機械を止めるための、簡単な固定だった。


 その動作に迷いがない。


 装置を動かす技術者ではなく、壊れた装置を人のために止める技術者の動きだった。


 僕は、彼女の手袋に付いた白い印をもう一度見た。


 軍用の識別ではない。


 民間避難路の保守班が、住民へ見せるための印だ。


 誰が味方かを示すためではなく、誰かがそこにいると知らせるための印。


 崩壊音が、さらに近づいた。


 彼女は、僕の背中を掴んだまま、身体を低くした。


 指が震える。


 それでも、留め具から離れない。


 僕は、あの時の彼女の名前を呼ぼうとした。


 けれど、粉塵が喉を塞ぎ、声にならなかった。


 名前の代わりに、短い命令だけが出た。


「手を離せ」


「嫌」


 即答だった。


「あなたが先に言った命令は、もう聞かない」


 その声が、白い光の奥で揺れた。


 次に聞こえたのは、装置の歯車が止まる音だった。


 白い灯りが消える。


 粉塵の中で、誰かの手が僕の背中を掴んでいた。


 手袋の指が震えている。


 それでも、離さなかった。


 僕は彼女の腕を掴んだ。


「今度は、あなたが逃げろ」


 彼女の手が、一瞬だけ止まった。


 遠くで、最後の避難路が閉じる音がした。


 彼女は僕を引きずりながら、巻き上げ機の横へ身体を寄せた。


「まだ、残っている」


「何が」


「人が」


 その答えを聞いた時、記憶が途切れた。


 僕は、現在の記憶室で息を吸った。


 右手は、古い金具を握ったままだった。


 レヴィが僕の肩へ手を置く。


「ユーリ。今、どこにいる」


「古代炉の記憶室です」


「そうじゃない。お前は、今ここにいるのか」


 僕は、金具から手を離した。


 冷たい石の床。


 折れた魔導長剣。


 レヴィの赤い目。


 辺境救護隊の白い布。


 全部、現在のものだった。


 前世の世界から、誰かが通信してきたわけではない。


 現世の古代炉に残った構造が、僕の身体の記憶を引き出しただけだ。


 けれど、手の感触は嘘ではなかった。


「背中を掴んだのは、戦闘員じゃない」


 僕は言った。


「技術班の人間です。手動巻き上げ機を使って、僕を瓦礫から引きずり出した」


「顔は見えたか」


「見えていない。でも、手袋の縫い目と、避難用の印は覚えています」


 レヴィは、何も急かさなかった。


 僕の中で、記憶の最後の部分がゆっくり浮かぶ。


 彼女が、まだ人を探していたこと。


 僕を救助した後も、崩れた研究棟へ戻ろうとしていたこと。


 その名前を、僕は知っている。


 記憶の底で、確かに呼んでいた。


「マヤ」


 声に出した瞬間、記憶室の壁の白い線が一斉に光った。


 レヴィが、初めて息を呑んだ。


 記憶室の壁に浮かんだ白い線が、二度、別の形へ折れた。


 一度目は魔力を蓄える側へ。二度目は、人が逃げる側へ。


 僕が指を近づけると、二つの線が重なり、黒い線だけが遅れて追いついた。


「蓄える力と、逃がす道。もともとは別の系統だったはずです」


「今の光、現世の古代炉の構造と一致しています」


 フィーナは記憶室にいない。秘密保管庫の封印を維持しながら、こちらの魔力変化だけを読んでいる。


「けれど、前世の装置から何かが送られているわけではないわ」


「分かっています」


 僕は白い線を見つめた。


「似た目的で作られた構造が、同じ反応をしている」


「反応しているのは、あなたの記憶でもある。装置は過去を再生していない。触れた形と、あなたの身体に残った感覚を重ねているだけよ」


 その説明は、冷静だった。


 だからこそ、信じられた。


 ここに前世の通信記録があるわけでも、誰かが遠い世界から呼びかけているわけでもない。現世の古代炉が、今の僕の中に残る記憶を、似た構造の上へ浮かべている。


「マヤという名前に、現在の記録との一致はある?」


 レヴィが訊いた。


「ありません」


 フィーナは即答した。


「この世界の人名簿や技術者名簿に、マヤ・リードという名前は存在しない。少なくとも、今確認できる資料には」


 名前がない。


 それは、シアンのように記録から消されたという意味ではない。


 最初から、この世界の人間ではないからだ。


 僕は、白い線へ手を近づけた。


 光の奥で、別の景色が重なる。


 ノヴァ・セクターの技術棟。壁一面に並んだ高密度セルは都市の電力を一時的に蓄え、居住区、医療区画、避難誘導灯へ必要な順番で出力を変える設備だった。


 しかし、異相接続装置が軍事網へ組み込まれてから、セルの用途が変わった。


 都市を生かすための予備電力が、装置を動かすための出力として扱われるようになった。


 魔力管が黒く染まった現世の研究都市と、同じ構造だった。


 力を奪うのではなく、どこへ流すかを決める権限を奪う。


 その変更を、技術班の人間は見逃さなかった。


「このセル、四番から六番まで出力が偏っている」


 マヤが言った。


 白い作業灯の下で、彼女は端末ではなく、薄い測定板を使っていた。高密度セルの外殻へ測定板を当て、振動と熱の差を指で確かめている。


「軍事区画へ送る出力が多すぎる。避難誘導灯が先に落ちるわ」


「命令では、装置の安定が優先だ」


 僕が答えると、マヤは顔を上げた。


「安定するのは装置だけ。人は安定しない」


 彼女は、壁の避難網を示した。


 白い線の一部が、赤い線へ置き換わっている。


 軍事区画へ通じる線は増えているのに、居住区へ向かう線は減っていた。


「住民が避難するには、灯りが必要です。灯りが消えたら、道が残っていても誰も歩けない」


「だから、先に技術棟から出ろ」


 僕は彼女へ命じた。


「ここから先は、僕たちが処理する」


「避難網の保守を、誰がやるの?」


「別の班がいる」


「名簿に名前がない」


「何?」


「別の班が来るという記録がない。受領印もない。私は、引き継ぎが成立するまで動けない」


 マヤは、作業机の端に置かれた木札を見た。


 技術棟に残っている住民の人数。


 医療区画へ送った人数。


 まだ受け取られていない人数。


 彼女は、最後の項目を消さなかった。


 マヤは、測定板の横にある小さな弁へ手を伸ばした。


 高密度セルの出力を、軍事区画から一部だけ避難網へ戻すための手動弁だ。


 弁を回せば、軍事側の出力が落ちる。


 命令違反として記録される。


 それでも、彼女は白い線を一本だけ戻した。


 居住区の端にある、狭い避難路の灯りが点く。


 遠くの壁に、子供の背丈ほどの白い光が並んだ。


「あそこへ、まだ人がいる」


 マヤが言う。


「灯りが戻れば、自分で歩ける人が出られる」


「セルが持たない」


「だから、一番必要なところへ流す」


「軍事区画の防壁が落ちる」


「防壁が落ちても、人は避難できる。灯りが落ちたら、人は道を見つけられない」


 彼女は、魔力の量ではなく、使う順番を見ていた。


 同じ出力でも、どこへ渡すかで救える人数が変わる。


 その判断を、軍事の命令系統から外れた技術班が担っていた。


 だから、オメガは彼女たちの記録を邪魔にした。


 装置を壊すより、誰がどの弁を回したかを消す方が都合がいい。


 現世の記憶室で、フィーナが低く息を吐いた。


『ユーリ。古代炉にも、同じ位置に手動弁があるわ』


「黒曜の天秤が使っている管の裏側に?」


『ええ。今は封印で塞がれているけれど、元は蓄電部と救護路を分けるための弁だったはず。誰かが後から固定して、動かないようにしている』


 古代炉の安全装置は、最初から兵器のために作られたのではない。


 力を蓄え、必要な場所へ渡し、危険になれば手動で切り離すための構造だった。


 黒曜の天秤は、その手動の判断を奪い、全てを一つの自動経路へ変えた。


 マヤは、前世の世界でそれに抵抗した。


 今、僕たちは現世で同じ構造へ触れている。


 数字が損失へ変わる前に、誰かが受け取るための空白として残していた。


「あなたは、記録に残るために残っているのか」


「違う」


 マヤは測定板を置いた。


「記録から消えた人を、いないことにしないために残っている」


 その言葉が、現世の記憶室にある木札と重なった。


 今の救護路も、誰か一人の発明ではなかった。


 異なる世界で、異なる人間が、同じ失敗を見てきた。


 人を数字へ変え、数字を損失へ変え、損失を命令の正しさへ変える仕組み。


 それを止めるために、受領印と空白を残した。


 マヤは戦闘員ではなかった。危険な場所へ戻ったのは、僕を特別に信じていたからではない。避難網の中に、まだ受け取られていない人間がいたからだ。


 だから、僕が先に逃げろと命じても、戻ってきた。


「ユーリ、記憶の中で彼女は何を守っていた?」


 レヴィの声が、現在へ僕を引き戻す。


「装置ではありません」


 僕は答えた。


「人が、人として受け取られるための道です」


 通信石の向こうで、フィーナが黙った。


 古代炉の白い線が、三つに分かれる。


 蓄電セルの出力。


 避難誘導網。


 記録の受領路。


 その三つを一つへまとめれば、黒曜の天秤になる。


 分けたまま維持すれば、救護路として機能する。


 僕は、床の中央にある空白へ触れなかった。


「マヤ・リード」


 名前を口にすると、白い線の奥に、手袋の印が浮かんだ。


 軍用符号ではない。


 民間避難路を守るための、簡素な白い印。


 その印の隣に、黒い二重環が重なる。


 オメガの作戦符号だった。


 オメガは、マヤという名前に反応した。


 何かを隠している――そう思わせる反応だった。


『その名前を、思い出したか』


 突然、古代炉の管からオメガの声が響いた。


『ならば、次は彼女がどうなったかを思い出せ』


 白い避難路の光が、一本だけ黒く折れた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。