表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/23

北川舞の涙

 その日、つまり週明けの月曜日の放課後、高校の正門まで北川が何も喋らないので幸太郎は困惑の表情で俺を見た。俺も何を言っていいのか分からない。だいたい俺は二人の要領を得ない会話の聞き役なのだ。だから俺は、こんな時永瀬がいてくれたら雰囲気は変わるだろうなぁと思っていた。

「今日はぁ歩道橋、頑張ろうかぁ」幸太郎は水色の歩道橋の前で言った。歩道橋の外側は塗装が剥げて焦げ茶色の錆が露になっている所がある。

「リュック持つよ」北川がボソッと言った。俺は車椅子のハンドルに掛かっている黒いリュックを北川に手渡した。

「おおっ、舞、悪ぃ」幸太郎は振り返りながら神妙な顔をしている。

「いや、別に・・・」北川が微かに笑った。幸太郎は「ハァー」と息を吐いた。

「ヨシャーァ!」元気になった男はハンドリムを握った手に力を込めてスロープを上っていった。梅雨が明けかかった午後四時過ぎの日差しは粘っこい。今日は幸太郎がかなり力を込めているので、俺はハンドグリップを握っている手に殆ど力を入れなくてよかった。

「フウ―ッ」途中の踊り場で俺たちは休憩した。俺は額の汗をハンカチで拭いたが幸太郎は汗をかいていない。

「幸太郎、麦茶、いる?」北川の声のトーンは低かった。

「ああっ、すまん」幸太郎の真面目な返事に北川は微笑んで、青色の水筒のコップに麦茶を注ぎ喧嘩友達に手渡した。幸太郎は喉を鳴らしながら麦茶を飲み干した。

「幸太郎は、偉いな」北川の言葉に幸太郎も俺も驚いた。俺たちが休憩している踊り場の横にある階段を母親と小さな女の子が下りていく。

「歩道橋渡ったら、あたしの話をちょっと聞いてくれる?」北川は水筒をリュックのポケットに入れながら訊いた。

「オッ、オウ、分かったぁ」幸太郎の声は少し上ずっていた。

 俺たちは何も話さずに歩道橋を渡った。北川は持っていた黒いリュックを車椅子のハンドグリップに掛けた。それからゆっくりと俺たちは歩き始めた。

「舞、今日も帰りがぁ大回りになるけどぉ、いいのかぁ?」

「いいよ。あたしはお前たちと一緒に帰りたいからな。それに話を聞いてほしいし」

「アッ、そうだったなぁ」幸太郎は白髪混じりの短髪を右手で掻いた。

「もう忘れてる」北川は軽く車椅子に乗っている高校生の左肩を叩いた。

「ごめんなちゃい」

「フフッ、いいよ」北川は少し間黙り、それから口を開いた。

「あたし、もう父さんと会うの止めようかなって思っている」

「・・・・・・」俺は息を飲み、そして何て言っていいか分からなかった。俺の目の前で車椅子に座っている幸太郎も同じ心境だと思った。

「この間、父さんと会った時に、父さんが言ったんだ。『二人目の子どもができた』って」

「・・・・・・」俺たちは黙っていた。

「その時あたし、ふーん、そうなの、おめでとうって言ったんだ。何でか分からないけど。そしたら父さん微笑んでいた。父さんは『この年になって二児の父親になるとはなぁ』とか『やっぱり子育ては大変だ』とか話してだ」

北川がこんなに淡々と話すことに俺は驚いた。幸太郎も神妙な表情だった、

「あたしは父さんに二人もこどもがいることなんて知らなかった。再婚して一人目の子どもができたって聞いていなかった」北川は相変わらず同じ口調だった。

「あたし、父さんはバカだと思った。彼は子育ての大変さを無邪気に話していた。あたしは適当に相づちを打っていた、何故かな・・・。そのうち神経が麻痺したみたいで体に力が入らない感じになって。その辺りから記憶が曖昧なんだ。そして土曜日、学校行くの嫌になって・・・」北川は話すのを止めた。

「はあーっ」ツインテールの女子高校生は立ち止まり空を見上げた。彼女が見上げた空には灰色の薄い雲と流れるような細くて白い雲があった。

「舞ィ・・・。朝、悪かったなぁ、変なこと言って」幸太郎は何かを耐えている少女の顔を眩しそうに見上げた。

「ホント、無神経だなぁ、幸太郎は」北川は立ち止まり、しゃがんで幸太郎の頭を平手で叩いた。

「もう、幸太郎のバカ」北川は幸太郎の頭を叩き続けた。

「オイ、舞っ、止めろよぅ」幸太郎は両手を上げて頭を防ごうとした。だけど北川は幸太郎を叩き続けた。

「ンン?」幸太郎は北川の手に力が入っていないことに気づいた。北川は幸太郎に左手を両手で掴んだ。その掴んだ手を引っ張って、彼女は自分の眉間につけた。

「うううっ」俯いている北川の絞り出すような声が聞こえると、涙が彼女の頬から滴り落ちた。相変わらず俺たち二人は何を言っていいのか分からずにいた。

 何十秒か何分か分からない時間が過ぎた。

「ハァー」と北川が深いため息をついた。

「あたし、何で、泣いてるんだろう」彼女は顔を上げ幸太郎を見た。

「さあなぁ」幸太郎は真面目に答えた。

「プッ!」泣きはらした少女が笑った。そしてスカートのポケットから薄紫のハンカチを取り出して涙を拭いた。それから立ち上がり背伸びをした。北川の締まったウエストが少し見えた。

「アーッ、少し、スッキリしたぁ」北川は瞼をパチパチ上下させながら俺たちを見た。

「オイ、舞、話はもういいのかぁ?」

「うん、もういい。何か、胸のモヤモヤが少し軽くなった」

「何じゃ、それはぁ」幸太郎は首を捻りながら俺を見た。俺もよく分からないまま数回頷いた。

「幸太郎、山口、あのっ、アリガト」北川は照れながら言った。

「オッ、オウ」幸太郎は少し戸惑っていた。俺はいつも聞き役だけど、今は何か話したほうがいいのかもしれないと思った。だけどやはり何も言葉は出てこない。

「山口くーん、今日は水希ちゃんは、どうしたんだ?」北川は急に小悪魔的な微笑みを見せた。

「エッ?」俺は眼を腫らした少女の顔を見つめた。

「なーっ、これだよねぇ久志君は。どう思う幸太郎?」

「久志ィは舞のことを考えてたんじゃないかぁ」

「アッ、そっかぁ。へヘッ。山口らしいなぁ」北川は先ほどまで泣いていたのに何故か嬉しそうだ。

「そうだよぅ久志ィ。水希ちゃんはどうしたぁ?」

「辻村さんに誘われて文芸部に行った」

「アーッ、智子ちゃんは文芸部だったなぁ。入部のお誘いかぁ?」

「いや、永瀬さんがどんな本読んでるか知りたいって」

「ふーん、外国に住んでただけで、凄い人気だな、水希ちゃんは」北川は腕を組んで何か考えているみたいだ。

「いやぁ、舞ィ。水希ちゃんはぁ俺らと違う雰囲気があるからなぁ。生徒会の奴らも言ってたぞぅ、アメリカ人みたいだって」

「幸太郎、お前、アメリカ人って知ってるのか?」

「アイ・ドーン・ノー。知りまちぇーん」幸太郎はオーバーに両手を広げ肩をすぼめた。

「やっぱ、お前はバカだな」

「にゃにゃにゃにおーっ」幸太郎は左手で北川の短めのスカートをめくろうとした。いつものように北川はサラリと身をかわした。車椅子の高校生が動かした左手のスピードは遅い。

「さあ、帰ろう」北川の声はいつものように張りがあった。幸太郎は「オウ」と答えて車椅子のハンドリムを回し始めた。

 俺たちは宅地が密集している路地に入った。しばらく歩くと「片田工務店」という看板が掲げてある店舗が俺の目に入った。

「舞、久志ィ。何か飲んでいくかぁ?」店の入り口の前で幸太郎は訊いた。

「アッ、あたし、今日はいいわ。アリガト」

「俺も」店の入り口前に木のスロープがあるので、俺は少しの間、幸太郎の車椅子を支えていた。

「そうかぁ、じゃあな」幸太郎は木製の引き戸を開けると、店内にゆっくりと入っていった。

「バイバイ、またな、幸太郎」北川は小さく手を振ると、幸太郎は振り返り「おう」と言った。

「あーっ、久志君、舞ちゃん、いつもありがとう!」幸太郎の母親、君江さんが出てきて、俺たちに冷えた缶コーヒーをくれた。俺と北川はいつも君江さんが勧める飲み物を断るのだけど、断りきれないで貰ってしまう。俺と北川はTシャツとジーパン姿の君江さんに挨拶をして路地を南に向かって歩き始めた。もうすぐ大きな通りに出ると、そこで俺は北川とは決まり事のように東西別方向に別れる。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ