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幸太郎は元気のない北川舞を心配する

 永瀬が転校してきて一週間が過ぎた。転校生用の教科書が届いたので彼女と俺の机と席は別々になった。

 俺は自分の席で校内の売店で買ったコロッケパンとコーヒーの昼食を終え、ナップサックからロック専門誌を取り出した。そのバックナンバーからマイルス・デイヴィスの記事と写真が載っているやつを家から持ってきたのだ。俺がマイルスの記事を見つけて、そのことで隣の帰国子女に話しかけようかとタイミングを計っている時だった。

「山口君、はい、これ」と言って右隣の席のバイリンガルは小さな水色の紙袋を差し出した。

「ん、俺?」と俺は自分を指さした。俺の仕草を見て隣の席の少女は「クスッ」と笑った。俺は両手でゆっくりとその紙袋を受け取った。角がある硬い感触がした。

「開けてみて」転校生の声に促されて俺は紙袋から入っているものを取り出した。プラスチックの容器に入った白いカセットテープと黒いカセットテープが一つずつあった。

「マイルス・デイヴィスのカセットなの。白い方のA面はね、『リラクシン』で聴きやすいと思う。それからB面は『カインド・オブ・ブルー』って静かな感じで名作と言われているアルバム。黒い方は『ビッチェズ・ブリュー』ってロックぽい大作で長いの。私は白いテープのB面『カインド・オブ・ブルー』がとても好き。よかったら聴いてみてね」俺は永瀬の流暢な英語の発音に感心しながら頷いた。

「俺、ジャズ聴いたことないし。ありがと」俺はそれぞれのカセットテープケースに挟み込まれている紙に眼をやった。流れるような英語の筆記体がアルバムタイトルと曲名を記している。

「永瀬さん、『ビッチェズ・ブリュー』ってどういう意味?」

「山口君、ビッチという意味知ってるかな?」

「ああっ、うん、まあ」俺はドキリとした。

「ビッチはえーっと、あばずれ女とか尻軽女っていう意味でしょう。この『ビッチェズ・ブリュー』はマイルスの造語らしいけど、そういうニュアンスじゃないかな?」永瀬は上目遣いをしながら面白そうに語った。

「あ、ああっ・・・」俺はかなり驚いた。

「どうしたの、山口君」永瀬は左に少し首を傾げ不思議そうに俺を見た。

「いや、永瀬さんの口からあばずれとか尻軽女って言葉が出るとは思わなかったから」

「アッそうだね。いやっ、私ったら・・・」永瀬のピンクの頬が更に赤く染まった。

「いや、あの、えっと、英語の勉強になったし」

「えっ、本当?」永瀬は俯きながらも探るように俺を見た。彼女は少し笑いをこらえているように見える。

「オーイ、久志ィ」俺の後ろから低いダミ声が響いた。

「何だよ、幸太郎」俺はカセットテープを水色の紙袋にもどし、それをナップサックの奥の方に入れた。

「こんにちは、片田君」

「コンチワーッ、水希ちゃーん。こっちの生活にぃ、もう慣れたかなぁ?」

「うん、ありがとう。おかげさまで、いろんなことがかなりスムーズになってきたわ」

「そうかぁ、良かったぁ。ところで久志ィ、あのさぁ、舞のやつが少し変だよぅ」

「北川がいつも変なのは、お前と一緒だろ」

「オイ、そーいう意味じゃなくてぇ、ホントに変なんだよ。すっごく元気ないしぃ」幸太郎は珍しく心配している。

「ふーん。土曜日休んだから風邪でもひいたのか?」俺は元気のない北川を上手くイメージすることが出来なかった。

「北川さんは先週の金曜日にパパさんと会ったのでしょう? 私たちが生徒会室に行った日に」

「アーッ、やっぱりぃ、父ちゃんと何かあったのかなぁ」

「何だよ、そんなに深刻なのか?」俺は少し心配になった。

「ああっ、朝にさぁ舞に会って『舞、パパちゃんにたくさん甘えたかにゃー。食べ過ぎてお腹壊して休んだのかぁ』って言ったらさぁ、舞のやつ、俺をじっと見てよぉ。それから涙眼になったみたいでぇ。何も言わずにぃ、プイっと行っちゃったんだぁ」

「思春期の女の子はガラスの心なのさ。そうだろ永瀬さん?」拓海がいつの間にか幸太郎の後ろにいた。今日は伊達メガネをしていない。

「家族関係はそれぞれに違うから、他人に言いたくないこともあるかもしれないです。でも北川さんは片田君をとても信頼しているように思うけど」

「そーかなぁ」幸太郎は少し安心したみたいだ。

「まあ、誰だって一人になりたい時はあるさ、なあ山口」拓海は俺を見てニャッと笑った。

「・・・ああ」俺は拓海の笑った意味が分からなかった。

「なあ、あれかなぁ水希ちゃん。女の子ってぇ、やっぱ父親ってのが大きな存在なのかなぁ」幸太郎がしみじみと語ったことは、俺の記憶の中では殆ど無かった。

「うーん、私は母親との関係がかなり強いけど、多分女の子は大体そうだと思う。ただ母親との関係が強過ぎると、ちょっと距離を置いている父親の存在はありがたいよ」

「ふーん、そうかぁー。舞も女の子だしなぁ。お母ちゃんはしっかりしてるけどぉ・・・」

「片田君、あなたがそういう風に心配しているってことを北川さんに伝えたらどうかしら?」

「ええーっ、鬱陶しく思われないかぁ?」

「北川さんは嬉しいと思うよ」

「うーん、わかったぁ、舞に会ったら、どうしたぁって訊いとくわ」幸太郎は言い終えると車椅子を反転させ出入口のドアに向かった。そのドアのところでクラスの松下泰という男子とぶつかりそうになった。

「おっ」小柄な松下は体をよけつつ車椅子を動かしている人物の顔を見た。

「いやぁ、すまん」幸太郎がそう答えて教室を出て行った。

「・・・邪魔だよね」何処からか女子の声が聞こえた。俺と永瀬は目配せして、その声のする方を見た。

「違うクラスなのに・・・」また数人の女子生徒のグループの中から刺さるような声が聞こえた。永瀬は小さく息を吐いた。

「なあ、前から不思議に思ってたけど、何で幸太郎は山口と違うクラスになったんだ? お前が幸太郎を嫌がるわけないのにさ」拓海も俺たちと同じ方向を見ながら言った。

「幸太郎が俺と違うクラスにしてくれって学校に頼んだんだ」俺の返事に反応したように拓海は俺を見た。

「あいつ、考えていないようで意外と考えてるよな」

「ああ・・・・・・」俺は幸太郎と別のクラスになったことについて、何か引っかかるモノが胸の内にあって、時々それが疼く。

「オーイ、拓海ィ!」いきなり原の後方から抱きついてきた男がいた。

「おっと、と、とっ」拓海は前に少しバランスを崩し振り返った。

「拓海ィ、こちらの山口君から聞いたと思うけど、今度の園祭も俺とバンド組もうぜ」原に抱きついている福岡のカッターシャツはやたら白かった。

「俺は今のバンドでジェフ・ベックのインストやるし」拓海は鬱陶しそうに福岡の体を引き離した。

「エーッ、ホントにデブの金田と栄養失調の張本と演るの? 拓海、あんな陰気な奴らと演って面白いか?」金田と張本は俺たちのクラスメートだが、二人は今、教室にいなかった。

「ああっ、面白い」

「ホントかよ。オイ、拓海。ロックは俺様みたいに目立つ奴じゃないとダメだろ。去年も俺たちのバンドは抜群に人気あったじゃん。また今年も一緒に演ろうぜ」福岡は拓海の右肩を右手で強く二回たたいた。

「山口ィ、君からも拓海に言ってくれよ。俺のバンドの方が絶対良いってよ」福岡は俺を見ずに言った。

「じゃあな、拓海。あっ、永瀬さんだっけ。永瀬さんも俺たちのバンドのライブ、観に来てね」福岡は爽やかな笑顔を浮かべ颯爽とで教室を出て行った。何人かの女子の視線が彼の背中を追っていた。そして数人の女子が俺たちの席に歩いてきた。

「ねえ、原君。今年の学園祭でも福岡君と一緒にバンド演奏するの?」クラス委員長の本田明日香は黒髪のショートカットを後ろに撫でつけながら、詰まらなそうに言った。

「さあな?」拓海も詰まらなそうに答えた。

「エーッ、原君、福岡君たちと一緒に演ってよ。去年、カッコ良かったよう!」韮崎の声はキンキン響く。

「ウンウン、福岡君と原君のバンドが一番、目立ってたもんね。私もまた観たいから一緒に演ってほしいなぁー」本田と韮崎といつも一緒にいる小野も興奮気味に言った。

「まあ、考えとくわ」拓海はにこやかに言った。

「フーン」本田はそう言うと俺たちの席を離れて行った。それにつられて韮崎と小野も離れて行った。本田が自分の席に着くと、花田や武居ら数人の女子が寄って来て「福岡君」とか「バンドやるの?」とか言っている。韮崎がそれに関して何やらヒソヒソと話し、チラチラと拓海を見ていた。

「福岡君って人気があるの?」永瀬は声をひそめて俺に訊いてきた。俺は首を捻った。

「永瀬さん、山口に訊いても、こいつ分からないよ。こいつ、うちのクラスのことに興味ないし、他のクラスのことなんか論外だよ」

「フフッ、そうなの」永瀬は何故かホッとしたようだった。

「俺も去年の学園祭でお前のライブは観た」

「おお、そうだったな。それで福岡のボーカルはどうだった?」

「覚えていない」

「だろう」原は楽しそうに笑った。

「お前のギターは良かった」

「当たり前だ」

「・・・・・・」俺は未確認の生物に出会ったように拓海を見た。するとギターを弾いている拓海の姿とマイルス・デイヴィスのポスターが脳裏に浮かんだ。

「永瀬さん、こいつの頭には君から貰ったカセットテープのことしか存在していないぜ」

「エッ?」俺は拓海の抜け目のなさに驚いた。

「フフフッ、そうだと嬉しいなぁ」永瀬水希の顔は先ほどまでと違うように見えた。

「いや、幸太郎と北川のことも少し・・・」俺は頭が熱くなった。

「嘘つけ」拓海が笑いながら言った。確かに俺は今、カセットテープと隣の席に座っている少女のことを考えていた。

「永瀬さん」今度は辻村と、それから彼女とよく一緒にいる川田葉子が俺らの所に来た。

「あっ、辻村さん。あの『吾輩は猫である』はもう少しで読み終えるよ」

「えっ、もうそんなに読んだの。早いね」と図書委員の辻村の声が心なしか大きく聞こえる。

「辻村さんと山口君が選んでくれたからね。やっぱりあの本は面白いよ」微笑みながら話している永瀬の横顔を俺は見ていた。すると俺の右上から変な圧力を感じたので見上げると、拓海がニタニタ笑っている。俺は声に出さずに「何だよ」と訊くと、拓海は「ホワイ?」というポーズをして、しらばっくれている。

「ねえ、永瀬さん。永瀬さんは入りたい部活ってある? 転校したばかりでまだあまり分からないかもしれないけど」辻村は少し照れながら話している。

「うん、まだあまりこの高校のことは分かっていないからね。山口君たちにいろいろ案内してもらっているけど、部活のことはまだ考えていないかな」

「うん、そうだよね。それで一つお願いがあるの。私と葉子は文芸部に入っているのだけど、永瀬さんは外国でどんな本を読んでいたのかなって知りたくなってね、葉子」

「うん」おとなしそうな川田は頷いた。

「それで、よかったら時間がある時でいいけど、文芸部に来て永瀬さんの読書体験を教えてくれないかな?」

「エッ、私に? 私、それほどたくさん本を読んでいないと思うけど」

「葉子がね、永瀬さんの英語の発音を聞いて、あなたは絶対文学少女だって言ったの」

「なるほど、それはユニークな見方だ」拓海は感心して言った。川田の白い頬が急に真っ赤になった。

「ほら葉子、原君が葉子の言ってること当たってるって」辻村は右肘で川田を小突いていて、小突かれている川田は両手で顔を覆って小さく足踏みしている。川田は何を恥ずかしがっているのだろうか?

「あの・・・、原君・・・原君は福岡君たちと・・・バンドを組むの?」川田は顔全体を赤く染めながら訊いた。

「いや、組まないよ」拓海はハッキリ言った。

「そう・・・」俺には川田が俯きながらも微笑んでいるように見えた。

「川田さんも俺が福岡たちとバンド組んでほしい組なのかなぁ?」

「アッ」川田は俯いたまま必死で両手を横に振った。

「ほら、葉子、言いなさいよ」また辻村は相棒を突いている。

「あの・・・私は・・・金田君や張本君のほうが・・・」川田はそこまで言ってまた俯いた。

「私も去年聴いたけど、金田君たちと三人で演ったほうが絶対良かったよ、ねえ山口君!」

「あっ、俺、それ、観てない」俺は辻村がこんなに喋るとは思わなかった。

「エッ、そうなの?」同じ図書委員の眼鏡の奥にある黒い瞳が俺を見つめている。

「えっと、幸太郎がうるさいんじゃあって言って、ホールから一緒に出た」

「フフッ、山口君らしい」俺は永瀬の言葉に体のこわばりが解けていった。

「おい、山口。今年は永瀬さんと一緒に俺と張本アンド金田のバンドを聴けよ、なっ」

「ハァ?」俺の反応に何故か辻村と川田はクスクス笑っている。

「ところで先ほどの話だけどね、辻村さん、川田さん。文芸部の部室に今日の放課後、お邪魔していいかな? 私もまだまだ校内のことが分からないし」

「勿論、いいよ。大歓迎だよ、ねっ葉子?」

「・・・」川田は無言で三回頷いた。

「山口、お前は永瀬さんの案内係だから、一緒に文芸部に行けよ」

「エッ、いや、俺は、幸太郎と帰るし・・・あの、えっと・・・」俺の話し方が変なのか、辻村と川田はまたもクスクス笑い、そして拓海を見た。

俺は左頬に永瀬の視線を感じて彼女の方を見た。永瀬は声を出さずに「またね」と言って微笑んだ。

拓海と辻村、川田はまた昨年の学園祭のことを話し始めた。俺はこの三人がここで会話していることに不思議な気がした。ぼんやりと彼らを眺めていると、俺の右腕に軽く突かれる感触があった。

「ん?」右隣の席の永瀬が神妙な顔をしている。

「山口君、以前『吾輩は猫である』で分かりにくいセンテンス、文章があったら教えてくれるって言ってくれたでしょう?」

「あっ・・・ああっ」

「私、この本を読んでいて、あっ、ここは山口君に教えてもらうと思った箇所が何か所かあったの。それでそこをノートに書き写したけど・・・。読み進めていくうちに、分かんないところ、そこがどう分かんないか、そのことが分からなくなって。私の言っていること、分かるかな?」

 右隣の転校生は少し心配そうな顔をした。

「たぶん分かる。面白い本はついつい読んじゃうから」

「ウンウンそうでしょう! さすがは山口君」永瀬の瞳が銀色に光って見えた。

「いや、まあ」

「せっかく山口君が分からない文章を教えてくれるって言ってくれたのに、ちゃんとそれに応えられなくて申し訳ないなぁって思っていた」

「いや、いい。やっぱ面白く読むことが一番」

「フフフッ、そう。良かった」俺は隣の少女から透明な光が出ているように感じていた。気が付くと拓海たち三人が含み笑いをしながら俺を見ていた。


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