片田幸太郎の車椅子と青い歩道橋
永瀬たち三人は俺が図書室を施錠する午後五時まで図書室にいた。今日は受験勉強をする生徒はいなかったので、うるさい幸太郎と北川がいても何とか大丈夫だった。俺が図書室の出入口の引き戸に施錠をすると「おーい、久志ィ帰ろうぜ」幸太郎が言った。
「ちょっと鍵返してくるから出入り口で待っていてくれ」俺はそう答えると辻村が俺の前で両手を出した。
「片田君を送っていくんでしょ。私が鍵返すから」同じ図書委員は車椅子に座っている幸太郎をチラッと見た。
「えっ、でも」
「ヒャー、智子ちゃん、優しいねぇ。僕ちゃん、嬉しいーっ」幸太郎は女子の名前を覚えるのが得意だ。
「いや、そんな」辻村の声は小さい。
「辻村さんだっけ。あまりコイツに優しくしない方がいいぞ。コイツは優しくされると、つけあがりベタベタと触りたがる変態だからな」北川が茶色い瞳を細めて警告した。
「にゃにゃにゃにおーっ」幸太郎は麻痺のある左手で北川の短い紺色のスカートをめくろうとした。北川はいつものようにサッと体を翻したので、幸太郎の左手は空を切った。
「ネーッ、コレだもん、気を付けないと。あっ、水希ちゃんも気を付けないとダメだよ」
「フフフッ、分かりました」永瀬は微笑んでいる。
「じゃあ、さようなら」鍵を受け取った辻村は小さくお辞儀をして職員室の方へ歩いて行った。俺はポカンと辻村の後ろ姿を見た。
「オイ、久志ィ。お前、智子ちゃんとも仲いいなぁーっ」幸太郎は辻村と初めて話すことができて上機嫌だ。
「いや、そんな。今日、初めてあんなに話した」
「ふーん山口、最近お前、少し変わったな」北川が腕を組んで真剣に俺のさえない眼を覗き込んでいる。
「エッ」俺は驚いた。
「なぁ幸太郎、そう思わないか?」
「オウ、久志は欲望をぅ、ちゃんと出すようになったにゃぁーっ」幸太郎は車椅子を押している俺を振り返りながら見てニヤッと笑った。
「そうかな」俺は北川や幸太郎の言っていることに首を捻った。
「ねえねえ、水希ちゃん。水希ちゃんの家はどっち?」北川の遠慮ない言葉に俺はドキッとした。
「私のお家はここから南西の方角、あっちです」靴を履き替えて学生用の出入口を出た永瀬は右人差し指で南西方向を指さした。
「アーッ、じゃあ、あたしたちと途中まで一緒じゃん。水希ちゃん、一緒に帰ろ」
「帰ろ帰ろ、水希ちゃーん。僕ちんの家を教えてあげるよぅ」
「フフッ、いいのかな?」
「勿論、勿論。よかったら僕の家に来てもらってもいいですよぉ、なあ久志ィ。アッ、お前のしょぼい家も水希ちゃんに教えたらどうだぁ?」幸太郎は体を捻って俺を見た。
「あっ、ああ」俺は驚いて何て言っていいのか分からなかった。
「プッ」北川が笑いをこらえながら幸太郎の右肩を左手でポンポン叩いた。幸太郎は右人差し指を大きな口の前に立てて「シーッ」と言いながらにやけている。
「山口君、今日は原君とは一緒に帰らないの?」
「拓海はバンドの練習・・・だ」
「じゃあ、軽音楽部?」
「いや・・・今日は違う」永瀬は不思議そうな表情を浮かべた。
「水希ちゃん、原はねぇ軽音楽部に入っているけど、大学のバンドや大人のバンドにも呼ばれてるんだよ」北川は腕を組んで何故か真面目な顔をして説明した。
「オウ、拓海はギターが上手いらしいけどぉ、俺様にはわかんにゃい」
「あたしもぅー。前に原のバンド、聴いたけど、あれハードロックって言うのぉ? ウルサクって頭痛くなってさぁ、すぐ逃げたもんね」
「だろーっ」二人は頷き合っている。
「だけどさぁ、ハルカは原のギターはいいって言ってたなぁ」
「遥ちゃんは謎の天才美少女だからにゃあ」
「山口君、その遥さんって人は原君と話していたスラリとした凄く綺麗な人?」
「おっ、おお」俺は慌てて小さく何度も頷いた。
「アレーっ、水希ちゃん、遥ちゃんのこと知ってるのかにゃ?」
「そうだろうなぁー。ハルカ、あっ麻倉遥っていうんだけど、やっぱハルカは目立つからなぁ」北川が呆れたように言うと幸太郎はウンウンと頷いた。
「麻倉さんが、原君や片田君たちと話しているところを見たの」永瀬は恥ずかしそうに言った。
「水希ちゃん、あたしたち、えーっとハルカに原に山口久志くーんに、この馬鹿は一年A組で一緒だったんだ」
「オイ、馬鹿ってだれだよぉーっ」幸太郎がチラッと北川を見た。
「お前だ!」北川が右横から幸太郎を覗き込んだ。
「にゃにゃにゃにおーっ」
「悪い悪い。幸太郎は馬鹿じゃない」
「だろーっ」
「お前は馬鹿じゃなくてエッチでアホな変態だった」永瀬がクスッと笑った。
「ガッガシ」幸太郎はわざとらしく打ちひしがれたように頭をガクンと前に落とした。
「あっ、それでね、水希ちゃん。ハルカは信じられないくらい何でも出来ちゃうんだよ。なあ幸太郎」
「オウ、遥ちゃんは美人で成績は学年トップでぇ、運動神経も良くって、ピアノも上手くて、おまけに生徒会長デースゥ。遥ちゃんの唯一の欠点は欠点が無いところだにゃあ、うんうん」
「どうした、幸太郎。お前にしてはマトモなこと言って? 何か変なモノ喰ったか?」
「ふっふっふっ、遥ちゃんは僕の未来のパートナーだからにゃあ」
「それは百パーセントない!」
「ガッガシ」幸太郎はまたも頭をガクンと前に落とした。
「だけどさぁ、どーしてハルカはあたしや幸太郎みたいな出来の悪い奴と付き合ってるんだろうなぁ。そう思わない? 幸太郎」
「そーだなぁ。俺っちもそう思う。遥ちゃんはすごーく人気あるもんなぁー。一年の女子なんかよぉ『遥せんぱーい』ってキャーキャー言ってるしィ」
「漫画のキャラでもハルカみたいな子はいないよ」
「そーだにゃあ。久志ィもそう思うだろぅ?」
「そうかな?」
「何だよ、久志ィ。お前、遥ちゃんの弱点とか知ってんのかぁ」
「そういうわけじゃないけど」
「ふーん」北川の興味深そうな視線が一瞬俺の眼に飛び込んだ。
幸太郎と北川が珍しく思案して静かになっている間に、俺たちは高校の正門を出ていた。俺たち四人の目の前に大きな水色の歩道橋が立っている。
「久志ィ、悪いけど歩道橋を渡っていいかぁ?」
「ああ、いいよ」俺たちは長くて緩い勾配のスロープを歩き始めた。幸太郎は車椅子のハンドリムを必死に回そうとしていた。
「幸太郎、どーした? そんなに頑張んなくてもいいだろ。バテちゃうぞ。山口、疲れたら、あたしも押すし」
「だいじょーぶ、俺、疲れてないしぃーっ」幸太郎は歯を食いしばってハンドリムを握っている手に力を込めていた。幸太郎の左手には力があまり入っていないので、俺はグリップを握っている左手に力を込めて、車椅子のバランスをとらなければいけない。幸太郎と俺はスロープの半分くらいの踊り場で休憩した。幸太郎はハアハア言ってる。
「幸太郎、お茶飲むか?」
「おう、悪い、くれぇ」北川は右手に持っている幸太郎の黒いリュックサックのポケットから青色の水筒を取り出した。そして水筒のコップに麦茶を入れ、それを車椅子に座っている元クラスメートに手渡した。
「ウグウグウグ」小太郎は美味しそうに水筒コップの麦茶を飲んだ。
「あの、片田君は、ほぼ毎日この歩道橋を渡っているの?」永瀬は腰を屈めて幸太郎に訊いた。
「うにゃ、ひどい雨の日は向こうの交差点の横断歩道を渡るよぉ」幸太郎は右手で西方向を指さした。
「あっ、あそこかな」永瀬はスロープの高欄の隙間から西側百メートルにある道路の交差点を見つけた。
「じゃあ片田君は大雨の日以外はこのスロープを渡るの? 偉いねぇー」永瀬は微笑みながらも驚いていた。
「いやいやいや、まあ僕はチャレンジャーだからねぇ。フッフッフッーッ」
「オイ、幸太郎、何だ、その言い方。それに今日はやけに頑張ったなぁ」北川は水筒を幸太郎のリュックサックのポケットに入れながら低い声で言った。
「エッエッ、何のことかにゃ?」
「お前、あたしと山口と帰るときは『疲れて腕に力がはいらにゃーい』といか言って手を抜くだろ」
「ハア、何かの間違いではございませんかぁ?」
「お前、今日は水希ちゃんがいるからイイカッコしただろ!」
「エエーッ、それは誤解でしゅ」
「何が『誤解でしゅ』だ。あっ、それからハルカが一緒だとコイツ今日みたいにカッコつけて頑張るんだ。水希ちゃん、騙されたらダメだよ」
「フフッ、そうなの」永瀬は相変わらず腰を屈めたまま微笑んでいる。
「ハハーン、北川クーン。それは君と一緒に帰るときも僕ちんにイイカッコしてほしいということだねぇーっ。フフフッ」
「うっ、う、うるさいなぁ」
「アレーッ舞ちゃーん、顔が赤いよぅ。どーしたのかにゃ?」
「黙れ、黙れ! 手は動かさないくせに口だけはよく動くな、お前は」北川はいきなり幸太郎の白い両方の頬を抓って横に引っ張った。
「いてててーっ、止めろぅーっ」軽口を叩いた幸太郎は必死に北川の手を振りほどこうとした。だが北川の手は五秒くらい喧嘩友だちの白い頬を引っ張っていた。
「アーッ痛っ、何すんだよう、舞ぃ」抓られた男子高校生は右手で少し赤くなった右頬をさすっていた。
「フン!」北川はわざとらしくそっぽを向いた。
「さあ、行くか」俺は幸太郎に声をかけた。
「オウ」幸太郎はハンドリムを握った。
「あの、山口君。あなたのナップサック持っていい?」永瀬は俺に向かってフワッと両手を差し出した。
「あっ・・・、ああ?」俺は数秒間クラスメートの言っている意味が理解できなかった。
「山口、水希ちゃんがお前のリュック持ってくれるって」北川がニタニタしている。
「あっ、重いけど」俺は慌てて背負っている紺色のナップサックを永瀬に手渡した。
「プッ、久志ィ。『重い』のは分かるけど、ありがとうだろーっ」幸太郎のマトモな言葉に北川も笑いをこらえながら頷いている。
「あっ、ありがとう」俺の口から勝手に言葉が出たみたいだ。
「どういたしまして」永瀬は俺のリュックを両手で抱きかかえるように持っている。
「オイ、久志ィ。行くぞぉ」幸太郎の車椅子が動き始めたので、俺はゆっくりと重心を前にかけて両腕に力を込めた。




